日本地理学会発表要旨集
2016年度日本地理学会秋季学術大会
選択された号の論文の181件中1~50を表示しています
発表要旨
  • 中村 努
    セッションID: 110
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    Ⅰ.はじめに
    日本では,ベビーブーム世代が後期高齢者(75歳以上)に到達する2025年を念頭に置いて,住み慣れた地域で人生の最期まで暮らし続けられるよう,住まい,医療,介護,予防,生活支援が一体的に提供される地域包括ケアシステムの構築が目指されている。
    高知県では,4つの二次医療圏(中央,安芸,高幡,幡多)を構想区域とした地域包括ケアシステムの構築が目指されている。しかしながら,医療資源は高知市を中心とする中央医療圏に偏在しており,周辺医療圏に居住する入院患者が中央医療圏の医療機関を受療するといった,圏域をまたいだ患者の移動がみられる。今後,保健,医療,福祉サービスが相対的に不足する縁辺地域において,関連する事業者や住民が協力することで,地域のニーズを充足することが課題とされる。本発表は,長年にわたって地域包括ケアを推進してきた高知県梼原町を事例に,縁辺地域でありながら多様な地域包括ケアシステムが構築されてきた経緯から,ケアの地理的多様性の要因を考察する。

    Ⅱ.梼原町における地域包括ケアシステムの構築過程
    梼原町は高幡医療圏の北西部の愛媛県境に位置している。森林が町域面積の91%を占める一方,宅地面積は0.4%に過ぎない。梼原町は1889(明治22)年の市町村制の実施によって,旧6カ村が西津野村として発足した。その後,梼原村と村名が改められ,1966年に町制を施行して梼原町と改称されて現在に至る。旧村単位で梼原東・梼原西・越智面・四万川・初瀬・松原の6区と53の字に分けられている。2015年の国勢調査における人口は3,608人,総世帯数は1,560世帯と5年前と比べていずれも約1割減少した。2014年現在の高齢化率は43.2%で年々上昇傾向にある。2015年度の要介護認定者数は290人で,うち要介護度3以上の割合は47.9%(139人)を占める。
    梼原町は1971年に医師の不在を経験しており,医師確保に苦慮した。また,1960年前後に赤痢が集団発生したことから,安定した医師確保に加えて,疾病予防や健康づくりに向けて,行政が住民と連携して地域保健,地域福祉の推進,月1回の地域ケア会議(2000年4月~)や週1回のケアプラン会(2008年度~)の実施などを進めてきた。ハード面においては,1996年に国保梼原病院(東区)と保健福祉支援センター(介護医療係,福祉係,健康増進係,地域包括支援センター,居宅介護支援事業所等),高齢者生活ハウス,社会福祉協議会が併設された。職種間の円滑な情報共有が図られるとともに,物理的,時間的な移動を伴うことなく,保健,医療,福祉,介護の各ニーズが充足されるうえに,各種行政手続きや相談がワンストップでできる。組織体制においても,梼原病院長が,保健福祉支援センターのゼネラルマネージャーとして,業務全体を総括しており,一体的な組織運営が図られている。

    Ⅲ.梼原町における地域包括ケアの地理的多様性
    梼原町では,住民の健康づくりを積極的に推進するため,1958年に衛生組織連合会が発足した。同連合会は町内全戸で組織され,6区の自治組織ごとに衛生委員長が選出される。連合会には1977年から始まった町独自の健康推進員制度によって,住民同士が話し合って,3年任期の保健衛生推進員(現健康文化の里づくり推進員)が, 20戸に1人の割合で推薦される。選ばれた住民は講習会などに参加して病気の知識を蓄え,医療者と町民の間をつなぐ役割として、特定健診やがん検診への参加を住民に呼び掛ける活動などを行っている。その結果,特定健診率は県内で1位となっている。しかし,人口減少の進展により,集落によって推進員を担当できる者が限定されるなど,推進員にかかる負担に地域差が生じている。
    医療サービスについて,東区に国保梼原病院(30床)および国保歯科診療所が1施設,松原区と四万川区に町立診療所がそれぞれ1施設立地している。診療所には週2回内科医師が派遣されている。介護サービスについて,社会福祉法人が西区で特別養護老人ホーム1施設(80床)とショートステイ(15床),デイサービスを運営している。加えて,同法人は障碍者支援施設(80床)を運営するほか,株式会社1社が訪問介護を実施しており,いずれも公設民営方式である。デイサービスは,2001年以前に社会福祉協議会が運営していた事業と一元化された経緯がある。社会福祉協議会はいったん解散されたが,老老介護に対する町や住民のマンパワー不足から,2014年度に再法人化された。現在,協議会職員6人が地域福祉を目的として,各地区の全戸を見守る活動を行っている。また,NPO法人によって,周辺部(初瀬区,松原区)の要介護高齢者への移送,配送サービスが実施されているが,担い手の減少と高齢化によってサービスの存続が危惧される。
  • 小野 映介, 藤根 久, 森 将志, 黒沼 保子
    セッションID: 506
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    京都盆地東縁の岡崎地区には,平安末期に六勝寺が建立された.現在,当地域には京都市美術館や動物園が立地するが,それらの再整備にともなって多くの発掘調査が実施されている.遺跡の発掘調査では,遺構や遺物から過去の人々の生活の様子を明らかにできるだけでなく,精緻な地形・地質データを得ることが可能である.また,人間活動と自然環境の関係性を論じることもできる.筆者の一人である小野と河角龍典氏(故人)は,京都市埋蔵文化財研究所の協力を得て,2010年以降に岡崎地区で行われた4つの遺跡調査に参加し,地形・地質データを得た.本研究では,発掘調査によって得られた地形・地質学データを提示するとともに,当地域における堆積環境の変遷,それらと人間活動との関わりについての若干の考察を試みる. 岡崎地区は,東山から流れ出す白川や桜谷川によって形成された扇状地の扇端部に相当し,0.5/100 m程度の傾斜が認められる.東山の地質は桜谷川付近を境に大別され,北部は主に白亜紀後期の花崗岩(新期領家花崗岩類),南部はジュラ紀中~後期の付加コンプレックスからなる.また,山麓の一部や吉田山のような孤立丘陵は前期更新世の堆積岩からなる.岡崎地区周辺の扇状地をかたちづくるのは,東山から主に白川を介してもたらされたマサ(風化花崗岩)やチャートなどである.なお,当地域と同様に白川扇状地に位置する京都大学構内では,完新世を通じてマサによる土石流が頻発したことが報告されている. 岡崎地区では弥生時代の遺物が検出されており,同時期までには人間活動の場となっていたと考えられている.また平安時代や弥生時代の遺物包含層の下位には,マサの土石流堆積層が認められ,その直下には有機質泥層を覆って堆積するAT火山灰層が存在することが知られている.岡崎地区に位置する4つの遺跡(①法勝寺跡,②白河街区跡・法勝寺跡・岡崎遺跡,③延勝寺跡・岡崎遺跡,④円勝寺跡・成勝寺跡・白河街区跡・岡崎遺跡)で調査を実施した.各遺跡では,トレンチ断面の記載を行い,各種分析用のサンプルを採取した. 4つの遺跡で採取した火山灰試料については,同定のための分析(5点)を行った.また,法勝寺跡を除く3つの遺跡で採取した有機物試料について,放射性炭素年代測定(17点)を行った.さらに,延勝寺跡・岡崎遺跡で採取した土石流堆積層と白川上流の河床で採取した堆積物の鉱物組成の比較を行った.加えて,円勝寺跡・成勝寺跡・白河街区跡・岡崎遺跡では,土石流堆積層に包含された流木2点について樹種同定を行うとともに,火山灰堆積層の下位と上位の層準を対象として花粉分析を実施した. 調査を行ったすべての遺跡でAT火山灰が検出された.いずれの遺跡でも有機質泥層を覆うAT火山灰層が認められ,AT火山灰層は土石流堆積層に被覆されている.また,AT火山灰層と下位の有機質泥層の境界からは約30,000年前の放射性炭素年代値が得られた点も共通する.ただし,詳細に観察するとAT火山灰層の堆積状況は各遺跡で異なる.AT火山灰層は単層として層厚10 ㎝程度で堆積する場合もあるが,上位もしくは下位の堆積物と互層を成して挟在される場合も多い. AT火山灰層の上位に土石流堆積層が認められる点はすべての遺跡に共通するが,土石流堆積層はAT火山灰層を直接に覆う場合と,有機質堆積物を挟んで覆う場合とがある.また,土石流堆積層に含まれた樹木もしくは,同層の直下と直上の有機質堆積物の放射性炭素年代値から導き出される土石流の発生時期は,約30,000年前(AT降灰直後)と約2,000年前(弥生時代)の2期に大別できる. AT降灰前の有機質泥層からは,マツ科針葉樹林や落葉樹林といった寒冷期を示す花粉が検出されている.一方,AT降灰後に堆積した約5,000年前の有機物層からは,コナラ属アカガシ亜属を主体とした照葉樹林の花粉が出土している.また,弥生時代の土石流堆積物に包含された樹木遺体の多くもクリやコナラ属アカガシ亜属である.このような周辺(後背山地)の植生変化と扇状地への土砂供給の関連性については,今後,慎重に検討していきたい. ところで,弥生時代における土石流の活発化は,京都大学構内から岡崎地区にいたる白川扇状地の広範囲で生じたことが明らかになった.岡崎地区では弥生時代以降,土地利用が活発化したとされるが,それと土石流堆積層の形成との関連については,考古学研究者とともに明らかにしていく予定である.さらに,当地には平安時代前期以降に貴族の別荘や寺社が造られ始め,その後,六勝寺が建立されるようになるが,平安京域における都市的土地利用が一部の地域に限られていく一方で,岡崎地区の土地利用が活発化した背景として,基盤となる土石流堆積物による地形・水文条件が関与していないか検討してみたい.
  • 小野 映介
    セッションID: P1001
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    青森県東部の太平洋側に位置する小川原湖の東岸には標高40 mにおよぶ砂丘の発達が認められ,一部は更新世の海成段丘面(ステージ5eに形成されたとされる高館面)を被覆している.砂丘が発達する地域からは,縄文時代の貝塚が多く発見されており,貝塚を構成する動物遺体は,当時の生態系を知る上での貴重な資料となっている.一方,当地域の後氷期を対象とした地形・地質研究は少なく,縄文時代の人々がどのような空間で活動していたのかといった問いに答えられる状況には至っていない.本発表では,北海道・北東北で最古級の貝塚とされる野口貝塚において発掘調査時に得られた地形・地質データを提示する.それにより,先に挙げた問題の解決の一助となれば幸いである.野口貝塚は標高約30 mの砂丘の頂部と,その南側斜面および北側斜面に広がり,浅層部から遺物や動物遺体が検出されている.青森県三沢市教育委員会(2015)によると,野口貝塚では,最も厚い地点で約0.8 mの貝塚が見つかっており,包含される土器の型式から縄文時代早期末葉~前期初頭(約6,000年前)に形成されたと考えられている.また,近年の調査によってムシリⅠ式とよばれる縄文時代早期中葉の終わり頃(約7,000年前)の土器が貝塚に含まれることが分かった.したがって,貝塚の形成時期は従来考えられていたよりも,さらにさかのぼる可能性がある.貝塚にはアサリ・シオフキガイ・ハマグリが多く含まれ,全体の98 %を占めるという特徴がみられる. 今回の調査で対象としたのは,砂丘の南側斜面に形成された標高約10 mの平坦部(東西約100 m,南北約40 m)に設けられたトレンチ群で,その南側には開析谷が発達する.4トレンチ西壁:標高10 mの地点に設定されたトレンチで,浅層部は所々トレンチャーによる撹乱を受けている.深度0.84 m以浅は土壌化の作用を受けた極細粒砂からなる.その直下(深度0.84~0.94 m)には貝塚層が認められる.深度0.90 mに包含されたハマグリの腹縁破片の放射性炭素年代測定を行った結果,8,311-8,204 cal. BPの値を得た.また,貝塚層の下位には極細粒砂~中粒砂の堆積が見られた.深度2.70~2.86 mには火山灰層の堆積が確認された.火山灰層には,水流による移動の痕跡が認められ,2次堆積の可能性がある.同層を構成する堆積物の重液分離を行った結果,軽鉱物の割合が83.49 %と高く,その組成は火山ガラスが48.7 %であった.この結果からは,火山灰層の水流移動距離はそれほど長くないことが示唆される.また,火山ガラスの屈折率の範囲は1.5033-1.5089で平均値が1.5059,斜方輝石の屈折率の範囲は1.7048-1.7087で平均値が1.7067であった.これらから,火山灰層は十和田八戸テフラ(To-H)と推定された.5トレンチ東壁:標高10 mの地点に設定されたトレンチで,深度0.85~0.90 mには土器片の集積層が認められ,その直下には層厚0.3 mの純貝層と混土貝層の互層が見られた.深度1.1 mに包含されたシオフキガイの放射性炭素年代測定を行ったところ,6,102-5,894 cal. BPの値を得た.なお,その後の調査によって,この貝層の下位には砂層が存在し,さらに下層から貝層が検出されたことを付記しておく.標高約10 mの砂丘の平坦部で確認された貝塚は,純貝層と混土貝層からなり,それらを土器集積層が被覆していることなどから,大きな移動をともなって形成されたものではない,すなわちマスムーブメントの影響を受けていないと理解される.また,貝塚を構成する貝の放射性炭素年代値,4トレンチの下部の十和田八戸テフラの存在,砂丘部における遺物の検出状況(浅部から縄文時代の遺物が検出されている)などから,当地域の砂丘の母体は更新世末までには形成されたと考えるのが妥当であり,その後,母体に飛砂が付加するかたちで砂丘が成長したと推定される.今後,貝塚の分布域や遺物の年代観と放射性炭素年代値の整合性について更なる調査・検討を行い,野口貝塚の全容を明らかにする必要がある.また,砂丘の南側に発達する開析谷において,地質ボーリング調査を実施済みであるが,共同研究者とコア試料の分析を進めることにより,相対的海面変動や土砂供給,それらと貝塚の盛衰との関係を考察する予定である.
  • 奈良盆地の小学4年生を対象とした奈良県南部の山村地域に関する授業の提案と実践
    河本 大地
    セッションID: 208
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    Ⅰ.背景と目的
    2016年3月の日本地理学会大会で開かれたシンポジウム「いまあらためて農山村の価値を考える」において、農業経済学や農業・農村政策論を専門とする小田切徳美氏(明治大)から、コメントの一部で「地理学は『地域総合科学』として農山村の問題解決に資する面が大きいと思っていたが、残念ながら期待外れ」との評があった。地理学は農業経済学や農村計画学のように政策形成との強い結びつきをもつ分野とは性格が異なる。とはいえ、地域を対象とした丹念な研究の労が社会形成にほとんど影響を及ぼしていないと見る氏の温かくも厳しいコメントを、今後の行動に活かすことは重要である。 報告者(河本)はこの時、農業経済学と比べた場合の地理学のアドバンテージとして、学校教育との強い結びつきがあると感じた。地理学という学問分野には、それと密接に関係する教科・教育分野がある。そこにおいて、「農山村の価値」はどう扱われてきただろうか。報告者は、この点に関しても不十分と考える。たとえば中学校社会科の地理的分野において、「林業」は重要語句になっていない。ある教科書の近畿地方の単元においては、林業について記述されている中での唯一の重要語句が、「地球温暖化」となっている。森林の二酸化炭素吸収は林業や農山村の価値のひとつかもしれないが、本質ではなかろう。国土の約3分の2が森林、その約4割が人工林という日本において、この扱いは軽視と言わざるを得ない。「持続可能な社会の構築」が学習指導要領で重視される中、農山村をはじめとする地域多様性の価値を学校教育に取り入れていくことは重要である。 今回はこのような問題意識から、奈良県における地域多様性に関して子どもの理解を深めるにはどうしたらよいのかを検討した具体的な実践の報告をおこなう。特に、奈良県において人口の集中している奈良盆地の子どもたちが、森林や山村の卓越するいわゆる「山間へき地」の多い奈良県南部について理解を深めるための工夫を考える。また、あわせて、奈良県に位置する教員養成大学である奈良教育大学の学生が、奈良県南部についてフィールド学習を通じて理解を深め、その経験を授業で活かすための道筋についても検討する。まだ十分な成果は出ていないが、本報告では上記目的を達成するための初期段階の実践を公表し、助言を賜りたい。なお、本報告の内容は河本ほか(2016)の内容をベースにしている。  

    Ⅱ.方法
    本研究は、学部生(主に社会科教育専修2回生)向け科目である「地域生態論」、および大学院「社会科内容論(地理学分野)」の受講生とともにおこなった。対象地域として奈良県吉野郡川上村を選定し、2015年12月5日・6日の1泊2日で訪問した。川上村訪問前には、奈良教育大学附属小学校にて10年以上にわたり4年生を対象とした川上村での日帰り林業学習を主導している中窪寿弥教諭から、学習内容について教示を受けた。川上村訪問後には、2015年度に林業学習をおこなった児童が作成した「川上村林業新聞」を借用し、子どもの視点で見た川上村の林業について認識を深めた。 その後、学生は、山村地域の状況や価値について奈良盆地の子どもたち(主に小学校4年生)の理解をいかにして深めるかを考え、授業案を作成した。このうちのひとつについては、2016年2月15日に奈良市立都跡小学校において学生が山方貴順教諭の担任する4年生の学級で授業実践をおこなった。授業案作成に際しても、中窪教諭および山方教諭から学生への助言を得た。また、授業実践の経験をふまえた形で授業の改善案も検討した。 紙幅が尽きたので、残りは当日報告する。  

    河本大地・井上惠太・越尾裕介・中窪寿弥・山方貴順・二階堂泰樹・豊田大介・高 翔・池辺優輔・峰重勇海・壁 阿紀(2016):奈良盆地の小学4年生を対象とした奈良県南部の山村地域に関する授業の提案と実践―地域多様性の理解を深めるために―.奈良教育大学紀要、 65(掲載予定).
  • 青木 邦勲
    セッションID: 205
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    1.はじめに
    今回は2013年に福島大学で行われた同学会の口頭発表の内容をさらに進めて行った結果を報告する.
    現行の学習指導要領では,地理Bの内容を表面的に扱えば4単位で学習可能であると考えるが,地理学の学問上の性格を考えると,4単位で学習することは好ましいとは到底思えない.
    本校では地理Bを学習すると1年生から3年生までで12単位開講しているので(本発表は旧カリで12単位),これで何とか教科書全範囲が終わる状況である.単位数は潤沢であっても,実は教科書通りに授業を進めたのでは教科書全範囲が終わらないということが分かり,2012年からこの試みを始めた.今回はこの取り組みの完結編として授業計画,授業中の生徒への問いかけや学習への動機づけ,定期試験の内容,受験までの取り組みなどについて報告する.
    教科書会社などが発行する資料集や受験参考書を拝見すると,殆どが地誌学の内容を系統的に取り扱う構成になっている.このように教科書と差異が認められるということは,学習する上では教科書の目次通りに学習することが望ましくないのではないかと考えた次第である.

    2.系統地誌学という言葉について
    発表者が論文を探した範囲においては具体的にこの言葉を定義された方はいらっしゃらないと把握している.この言葉は発表者が口頭発表のために勝手に都合良くつくった造語であり,もし,定義されている論文などがあればご指摘頂きたい.

    3.発表の具体的な中身と構成
    基本的な考え方として,生徒には地理学を「人間活動(経済活動)は自然環境の様子を背景に,社会条件が複雑に関連して現代社会が成り立っている.そのため,地理は特色や分布は暗記するものではなく,理由(背景)をしっかり考えて人間の諸活動と密接な関係にあることに着目するように」という立場を明らかにして授業を進めた.
    2年生では自然環境と産業の関係について相互に関連し合うことを徹底的に理解させ,その他の分野は「応用」と位置付けた.ただし,最初の段階で自然環境だけを扱うと,こちらが意図しない考え方をしたり,地理は理科ではないか?という誤解を生じさせる危険があるため,地形の学習の後にエネルギー資源と世界の鉱工業と題して考え方を定着させ,その後に気候を学習してから世界の農牧業を学習する.その後に社会的な動きとして村落・都市,人口,民族問題などを学習するが,特に環境問題,交通・通信,図法や読図はある程度の知識や考え方が身につかないと理解することができないことが分かっているので,3年間の計画の中で一番最後に学習することにしている.
    2年生の1学期から地誌を扱うことで生徒が地理に対して興味を持ってくれているようである.それは履修者数の変化に現れ,現行のカリキュラムになってからは地理Bの選択者が19名→27名→37名と増加していることは非常に心強い.また,昨年度から始まった日本大学付属高等学校等基礎学力到達度テストでは地理の標準化点(偏差値)が61.565となり,着実に結果が表れている.
  • 中部高原地域のDak Lak省を事例に
    金 木斗哲, ツオン クァンホアン, 曺 永國
    セッションID: 318
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    ベトナムにおけるコーヒー栽培の歴史は19世紀のフランス統治期まで遡る。しかし、20世紀以降の続く戦争と社会主義革命を経ながらベトナムのコーヒーは一部内需用に栽培されるのみで、最近まで商品作物としての役割を果たしてこなかった。しかし、1986年のドイモイ政策により市場経済へ転換した以降、ベトナムのコーヒー栽培は急速に拡大し、現在世界第2位のコーヒー輸出国にまで成長している。ベトナムにおける主なコーヒー生産地域は、全体コーヒー栽培地の約7割を占める中部高原地域であり、その中でもコーヒー栽培に適した土壌気候条件を備えているダクラク(Dak Lak)省のコーヒー栽培面積は全体の約32%に至っている。ベトナム統一当時のタクラク省は国家の行政力がほとんど及ばない辺境で国家体制の周辺部であった。統一ベトナム政府はこの地域を国家体制に編入させるべく、低地の主流民族の大規模な計画移住(新経済区域政策)、国営農場や国営林業公社の設置、地方行政組織の整備など様々な試みを持続的に行ってきた。こうした一連の試みは結局国家の管理体制の外に置かれていたこの地域の土地資源を管理しようとする目的をもってなされたものと言っても過言ではない。タクラク省の統治機構と土地資源管理もコーヒー栽培地域の拡大と相まって変化してきたが、主に地域内統治機構の中心である省都バンメトートからの距離とコーヒー栽培への適合などの土地資源の価値といった地理的要素によって多様な様態で現れてきた。特に、この地域の原住民である少数民族が享受してきた土地に対する慣習的な権利をめぐる対立が大きな問題として現れた。そこで本研究では、ベトナム・タクラク省におけるコーヒー栽培地域の拡大に伴う、統治機構の周辺地域への拡大過程とコーヒー生産の物的基盤となる土地資源の国家機構への編入過程-土地所有慣行の制度化-を解明することを目的とする。ただし、土地所有慣行の制度化を国家機構による一方的な強制編入として捉えるのではなく、少数民族の日常的抵抗everyday resistance(Scott, 1985)による妥協の産物であり、その結果地域ごとの多様性が表れるものと考える。他方、ここで言う「土地所有慣行の制度化」とは、長い間コミュニティの中で構成員間の相互認知とコミュニティの規範によって保証されてきた慣習的な土地所有権が国家機構による法的措置で私的な資産として保証される過程として定義する。 1990年代半ばまでバンメトートと道路沿いの中心地域を除くタクラク省の統治機構は国営農場あるいは国営林業公社であって、これらは生産組織であると同時に統治機構として機能していた。ベトナム統一以降全国的に合作社を組織し、社会主義的な生産体制を確立しようとした時期でさえ、資源価値の高いタクラク地域では主に移住民キンゾクを労働力とする国営農場あるいは国営林業公社を通じて資源開発と辺境の統治を同時に達成しようとした。しかし、当時の労働力と国営農場等の財政では管轄地域の一部のみを開発でき、その周辺は依然として少数民族の慣習的な土地利用が続いていた。 ところが、ドイモイ政策以降ベトナム経済が急速に世界経済に包摂されるにつれて、タクラク地域はグローバルフードシステムに商品作物を供給する生産基地として再編されていった。1990年代半ばの国際コーヒー価格の高騰に相まって、タクラク地域には第2の移住ブームが引き起こったのである。低地の相対的に資金力のあるキン族がフロンティアでの機会を追って自発的に移住し始めたのである。彼らは’ブラック・ゴールド’と呼ばれたコーヒー栽培に参画し、土地を少数民族から’購入’したが、’購入’の代価は開墾に対する若干の補償に過ぎず、当事者間の口頭でなされるのが普通であった。 この時期は初期の国営農場や国営林業公社による統治から行政機関による統治へと移行していた時期で、慣習的な自治空間に残されていた少数民族を本格的に国家統治体制の中へ包摂させる時期でもあった。こうした過程でタクラク省政府は土地資源を巡る競争と摩擦を調整する必要を感じ、1990年代半ばから土地所有の制度化に着手することになった。しかし、当時は正確な地図と測量機器が不足していたため、当事者間の契約を事後で追認し土地台帳へ登記する程度であった。ところが、1975年以降の1次移住と1990年以降の第2次移住ブームによりタクラク地域の土地資源とりわけコーヒー栽培に適した土地のほとんどは少数民族からキン族所有へ移転され、土地所有関係と慣習的な土地利用から近代的な土地所有へと制度化された。不平等な土地の取引による移住民キン族への所有権移転が辺境まで拡大された統治機構により制度化され、土地資源は排他的な指摘財産として近代法により保証されるようになったのである。
  • 森 泰規
    セッションID: 313
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    企業風土というように
    筆者は、基本的に経営課題について考える際、企業というものは人が創り出すものであるということを大前提に、ウェーバー(Max Weber, 1864-1920, 独・社会学者/経済学者)の<象徴的相互作用論>[1]、すなわち構造を主語とせず、人の理念に基づく行為(したがって人々の相互行為)が社会を創出するという考え方をとる。端的に言えば「ピューリタンの理念と行為が資本主義の形成につながった」ことを類推して想定するものである。 ところが、企業についての諸問題を考える際、<企業風土>といったきわめて地理学に近い捉え方にさしあたることが多い。特にウェーバー的アプローチを取る際、<企業理念>にとって起こる問題は、地理学に於いてと同様の課題と感じられることがある。そこで当の地理学(乃至、地理学的枠組み)に近接すると思われることを挙げてみる。  

    『風の辞典』, Le sauvage et l’artifice.
    関口武(1985)(『風の事典』 原書房)によれば、同書刊行時点で日本には風の名前が2145個ある。普通の日本人はそのような呼び名を知らないが、個々の生活実感と結びついたものは<不可視であっても概念として具象化する>のだ。 このことは、地理学者のオギュスタン・ベルク(Augustin Berque、1942- , 仏・地理学者)がたびたび指摘した、「『風景 paysage』に当たる語彙が、絵画の対象と成りえるような美しい景観と触れ合っていた地域の言語にさえ、必ずしも自生的には存在しないこと」[2]とは貴重な対照をなす。こちらは当たり前のように目の前にあっても、むしろ<浸透しすぎていることによって意識されない>ということだ。  優れた企業理念は以上に述べたような事態に陥ることがよくある。第一に、すなわち現場組織にはいくつもの貴重な実感が見出されているのに組織全体では体系化・一般化されにくいこと。第二に、当たり前のように意識されている貴重な習慣が組織内部では貴重なものとは評価されていないこと、である。これらは長い時間をかけてよい意味でも悪い意味でも<企業風土>を形成し、必ず課題として噴出する。逆にそれぞれを課題と思って対処していけば効果が得られるともいえる。 これらはいずれも地理学による示唆である。

    システムの外部にも影響する、地理学の価値
    筆者は、地理学という学問体系の外から、実務上の類推をもとに本稿での主旨を問いかける。だからそのシステム内部にいる専門家にとっては、当然に違和感を覚える題材なのかもしれない。しかしそのシステム外にある筆者にとっても地理学の価値は影響を及ぼすということであって、筆者はもう少し、その真価を学び、現業に生かそうと考えるが、同時にシステム内の秩序や安定性に意義を唱えるつもりはない。この点は明確にご理解いただきたい。

    [1] Symbolic Interactionism. この整理は定説といってよいが、ここではアンソニー・ギデンズによる『社会学』(第六版)の記述体裁にならう。Giddens, A. (2009), Sociology (6th edition), Polity Press, London, UK.
    [2] Augustin Berque. (1986). Le sauvage et l’artifice. Les Japonais devant la nature.Paris, Gallimard. P154他
  • 阿部 隆
    セッションID: 517
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    田中館秀三と山口彌一郎は、昭和8年(1933年)の津波の後に、三陸地方の漁業集落の移動についての調査・研究を行い、明治三陸大津波(1896年)以前、1896年以降1933年まで、1933年以降という、それぞれの時期について、集落の移動がどのように行われてきたのかを明らかにしている。彼らの研究は、今日の広範囲な「高台移転」による集落再編の重要な根拠ともなってきている。しかし、一方では、沼野(2015)のように、漁業集落においては、「時間差高所移転」ともいえるような動きがあり、「原地復帰」のベクトルは必ずしも強くなかったという報告も行われている。本研究では宮古市以南で石巻市までの三陸地方リアス海岸の集落について、漁港あるいは港湾と結びついている、10戸以上の住家が存在する集落を「漁業集落」と定義した。ただし、漁港や港湾として市町村や県が管理している「港」がない場合でも、山口(1967)が「部落名」を掲載しているもの、あるいは、住宅地図に「漁港」として示されているものについては、住宅地図で10戸以上の住家が確認できる場合には対象とした。このようにして、宮古市以南、牡鹿半島までの230の集落を対象として取り上げ、田中館・山口の集落移動に関する研究、農林省水産局(1934)の報告書、内務大臣官房都市計画課(1934)の報告書、明治末から大正初めにかけて刊行された5万分の1の旧版地形図、原口・岩松(2013)の津波詳細地図、2011年の大震災前のゼンリン住宅地図その他の資料を用いて、これらの漁業集落の大正時代以降の集落再配置の状況と2011年の津波災害による住家の被災状況との関係を明らかにすることを目的とする。とくに、田中館・山口(1936)が「集団移動」を行ったとしている集落の被災状況から、「集団移動」の成否、その防災上の効果を検討し、現在行われている「高台移転」の意義についても検討したい。本報告では、「集団移動」、「分散移動」に「原地復帰」を含めて、「集落の再配置」と呼ぶことにする。
    集落の被災状況については、原口・岩松(2013)の津波詳細地図とゼンリン(2011)の住宅地図を資料として、集落ごとに、津波で浸水した住家の数を数えた。一部は、日本地理学会災害対応本部が作成した津波被災マップも参照した。隣接する集落との境界が不明確な場合は、住宅地図の住所をてがかりとして、集落の範囲を想定した。各集落の被災度については、次の4つの段階に区分した。それは、レベル0:浸水住家がない。レベル1:浸水住家が5戸以下、レベル2:浸水住家が6~15戸で、集落の全住家の半数未満、レベル3:浸水住家が16戸以上、または集落の全住家の半数以上、という4段階である、。対象とした230の集落の被災度は、レベル0が11(4.8%)、レベル1が25(10.9%)、レベル2が30(13.0%)、レベル3が164(71.3%)となった。これら230集落の中で、田中館・山口が「集落移動」の形態を記している集落は、1896年から1933年については34集落、1933年以降については、75集落である。1896年から1933年までについては、計画的な移動ともいえる、「集団移動」は、6集落があるが、この中で2011年の被災度がレベル2までにとどまったのは、大船渡市旧吉浜村の吉浜だけである。また、1933年以降に「集団移動」を行ったとされる、25集落については、レベル2以下の被災となった集落は6集落を数え、その比率は24%である。この比率は、上述の230集落全体でのレベル2以下の被災度の比率である、28.7%よりも低く、1933年以降の「集団移動」によって、津波災害が軽減されたとは言い難い。
  • 新潟県巻機山周辺を事例に
    松山 洋, 泉 岳樹, 酒井 健吾, 南里 翔平
    セッションID: 404
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
  • 野上 道男
    セッションID: 213
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    太陰太陽暦と天文観測: 『淮南子』(-121年以前に成立)天文訓に、「星分度」として28宿の広がり(度数)について,次のような記述がある.『漢書』(1世紀後半に成立)天文志もこの値と同じである.
        角12,   亢    9,   氐  15,   房 5,     心  5,   尾  18,    箕11,
        斗26,   牽牛 8,  須女12,  虛10,   危17,   營室16,   東壁 9,  
        奎16,   婁   12,  胃   14,  昴11,   畢16,   觜嶲 2,  參  9,
        東井33,輿鬼 4,  柳   15,   星 7,   張18,   翼   18, 軫17
     以上合計365度である(端数は「斗」に加える).つまり全天(一周365度)に、冬至基点で不等間隔で恒星の座標値(入宿度)が目盛られている.これは天球座標における赤経に相当する.
    これと現在の知識である恒星の赤経と比較することで、当時の観測精度を検証できる.ただし現在の赤経は春分点からの角度で測られており、かつ25800年を周期とする歳差運動(地軸のごますり運動)のため春分点が移動しているので、これを考慮する必要がある.近日点の移動周期約11万年は無視できるであろう.結果を述べれば、28宿星の位置(角度)の観測精度は良好である.
    見透しのない遠距離への方位測量: 『周逸書』『漢書』に次のような記述がある.(ゴチ文字部分)
    ①「東南曰揚州:其山曰會稽」会稽山主峰香炉峰(354m、120.61E、29.95N)まで860km、方位はN123.1E.東南の中心線N135Eとのずれは12度.
    ②「正南曰荊州:其山曰衡」湖南省衡陽市衡山(1300m、112.65E、27.25E).800km、方位はN183.5E.
    ③「正東曰青州:其山曰沂」沂山(1032m、118.63E、36.19N). 540km、N66.7E.
    ④「正西曰雍州;其山曰岳」岳山は西鎮であり、現在は呉山(1440m、106.87E、34.66E).580km、N274.6E.
    ⑤[東北曰幽州:其山曰醫無閭」北鎮市西北約5km医巫闾山(867m、121.73E、41.62N).1100km、N40.6E.
    ⑥「正北曰并州:其山曰恆山」大同市の恒山(2017m、113.73E、39.67N).590km、N4.9E.
    上紀6つのうち洛陽から見透せる山は一つもない.8方位系の中心線(45度ごと)との誤差は①12度、②4度、③23度、④5度、⑥5度である.8方位としては十分な精度である.
    見透しのない点への方位測量法については史書に記述がない.数値があるのみである.『晋書』巻82列伝「裴秀」条に記述がある「製圖之體有六」に、見透しがなくても地図を作れる、とあるのみである.可能性のある方位測量法については別報告としたい.






  • 被災カキ産地の早期復旧を支えた秘密を探る
    高野 岳彦
    セッションID: P904
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    万石浦は牡鹿半島の付け根に位置する内海で,種ガキの商業生産地 として知られる。 2011大震災による被害は、袋状の地形が幸いして外洋部に比べて軽微にとどまり,残存した種ガキは三陸沿岸各地の被災カキ養殖の早期復旧を支える役割を果たした。他方で、被災地で最大の1m近い地盤沈下は、感潮水位で操業していた種ガキとアサリ漁業に復旧補助金では容易に回復できない影響を与えた。本発表では,万石浦の特異な漁場環境の形成と種ガキを主とする利用形態の震災後の変化について, 2015年秋から16年春に行った調査に基づき,図像によって整理・報告する。
  • 黒木 貴一, 磯 望, 出口 将夫, 黒田 圭介
    セッションID: 603
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    2016年熊本地震では,熊本市をはじめ益城町,御船町,南阿蘇町,西原村など,布田川断層や日奈久断層近傍で住宅やインフラなど地物に甚大な被害が出た。この被害の背景として,斜面崩壊,液状化,地震断層,人工改変,地震動のあることが報道され,各学会で調査が現在進められている。いずれも,被害と背景を一意に関連付けしやすい場所での調査結果が,ホームページを通じて出されている。一方で,地震断層起源の斜面崩壊,地震動による液状化,人工改変地での斜面崩壊と,被害と背景との一意の関連付けが難しい地域も多い。本発表では,熊本平野全体の被害背景にある地形変状を中心に紹介する。さらに液状化が見られ,地震断層が若干確認されるが他の要因からの亀裂も多く見られ,そして地物被害の多かった益城町を例に,地形変状と建物被害との関係を観察した内容を紹介し,今後の熊本地震災害調査の方向性を示す。
  • 黒木 貴一, 品川 俊介
    セッションID: P1018
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー

    台風第18 号や前線による平成27年9月関東・東北豪雨では,7 日から11 日までの総降水量が関東地方で600mmを越える場所があった。中でも茨城県の鬼怒川では,破堤,溢水により40km2以上が浸水し,全半壊家屋5500棟以上,死者3人が出た。この被害に関して破堤・溢水・漏水個所を中心とする被害状況全般,浸水範囲と微地形に関して報告がなされた。この浸水はハザードマップで予想された範囲で生じたとされるが,破堤を除き,浸水の始まりとなった段丘面上の浸水や遍在する堤防の漏水箇所など,治水地形分類図の情報からは予測が難しい弱点も確認された。そこで本研究では,既存成果を参考に鬼怒川の破堤・溢水・漏水箇所に関し,河川の微地形との空間関係を地形量を鍵に明らかにし,氾濫に注意が必要な河川条件を検討した。
  • 佐々木 宏之
    セッションID: S104
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    1.  はじめに
    2016年4月16日午前1時25分に熊本地方で発生した震度6強(のちに7)の地震は日本DMAT(災害派遣医療チーム: Disaster Medical Assistance Team )の自動待機基準〈東京都23区震度5強以上または他の地域で震度6弱以上〉に該当した。午後4時3分、当院を含む東北ブロックDMATに派遣要請が発出された(日本DMAT第2次隊)。
    2.  航空自衛他松島基地出発〜竹田市医師会病院到着
    4月16日午後7時に松島基地を出発する輸送機に搭乗可能な東北ブロックDMAT8チームが松島基地に参集しブリーフィングを行った。東北ブロックチームに課された任務は「阿蘇地域を大分県側からサポートする」ことだった。C-1輸送機で航空自衛隊築城基地(福岡県)に向け出発、築城基地からは自衛隊車両にて参集拠点・活動拠点本部となった大分県竹田市の竹田市医師会病院へ移動した。4月17日午前2時50分現地着。
    3.  活動開始:南阿蘇村での情報収集
    午前3時よりミーティングを行い、午前6時より活動開始。大分県竹田市から熊本県南阿蘇村までは県境を越えて乗用車で1時間30分を要した。分担エリアの避難所を回るが、日中は避難者が外出しており何人避難しているか不明、指定避難所建物が損壊し住民が移動している、様々な規模の自主避難所が出来ている、等の情報を得た。同日夕方の本部ミーティングにおいて報告。本部からは、引き続き4月18日も避難所情報収集を行う件、阿蘇市阿蘇医療センターをサポートし拠点化する件、また南阿蘇村の老健施設に利用者があふれスタッフが疲弊している件などについて情報提供があった。
    4.  特別養護老人ホーム「陽ノ丘荘」搬送ミッション
    前夜のミーティング情報に基づいて、当院DMATに特別養護老人ホーム「陽ノ丘荘」での情報収集、状況に応じて避難搬送ミッションが割り振られた。陽ノ丘荘は崩落した阿蘇大橋から約2km, 土砂崩れの発生した火の鳥温泉から約1kmの地点にあり、周囲は土砂崩れが頻発していた。通常定員100名の施設に近隣からの避難も含め140名の高齢者が居住し、通常定員の1/3~1/2のスタッフで介護を行っていた。ライフラインはガス(プロパン)を除き途絶、発熱者あり、特別食・薬剤も間もなく底をつくが調達の目処は立っていない、スタッフ数が少ないため疲労の色が著しくオムツ交換・体位交換もままならないなど、数日内に危機的状況に陥る可能性が高かった。施設責任者らと相談し、病状の重篤な入居者を医療機関へ搬送することにした。搬送候補者には100歳を越す超高齢者、認知症・寝たきり入居者があがり、うち家族の同意の得られた15名を大阪府・山口県の緊急消防援助隊救急車で約50km離れた竹田市医師会病院へ搬送した。15名の搬送に計画立案から搬送終了まで約3.5時間を要した。活動を本部ミーティングで報告、翌日の全体活動計画に老健施設の調査が盛り込まれた。
    5.  白水庁舎での災害医療コーディネート会議〜帰還
    4月19日午前9時より南阿蘇村白水庁舎で現地医師主導による災害医療コーディネート会議が開催され、席上において陽ノ丘荘ミッションについて報告し、地元保健師に福祉介護施設の情報収集を依頼した。昼前にレンタカーで南阿蘇村を福岡空港に向け出発。同日夕方、民間機で仙台空港へ向け出発。午後9時仙台空港到着。病院長に帰還報告しチームを解散した。
    6.  できたこと
    ①東日本大震災の経験を活かし福祉介護施設への早期医療介入を行うことができた。②南阿蘇村災害医療コーディネート会議に関与できた。
    7.  できなかったこと
    ①確実な通信手段の確保(一時、衛星携帯もつながらなかった)。②周囲福祉介護施設へのアプローチ。③アナログ式情報集約からの脱却、など。
  • 片山 雅木
    セッションID: 418
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    昭和の時代待ち合わせと言うと駅というのが定番であり、 駅の改札口の横や待合室に置かれた伝言板には待ち合わせの時間通りに来なかった人向けのメッセージが黒板一杯に書き込まれていたものであった。国有鉄道における伝言板は「告知板」という名称で明治37年に新橋、横浜、大阪など8駅に設置されたのが始まりで、その後大正から昭和にかけて住宅地が都市郊外に移り、大都市圏中心に通勤・通学の足として電車網が急速に整備され発展するとともに、各鉄道路線が交わるところに設けられたターミナル駅が人々が交差する場所となり、伝言板の設置とあいまって待ち合わせの場所となっていった。伝言板に書かれるメッセージが待ち合わせに関する物から変化していったのが1980年代頃であった。この変化は、駅が人々が集まり滞留する場所から街中の繁華街へ行くための単なる通過点になったことや、電話の普及により公衆電話や自宅の電話等を介して連絡をとる手段が登場した事によってもたらされた。伝言板が待ち合わせに使われなくなり、若者中心に仲間間のやり取りやいたずら書きが目立つようになりJR始めいくつかの鉄道会社では携帯電話の普及を待たず1990年前後から徐々に撤去が始められていった。これら変化を伝言板という今までほとんど省みられなかった物から辿ってみることにより、伝言板の役割の変化をもたらした鉄道や社会の変化について考察をおこなった。
  • 小川 滋之
    セッションID: 103
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    研究の背景と目的 スイゼンジナ(Gynura bicolor)は,キク科サンシチソウ属の多年生の草本植物である.日本,中国,台湾などの東アジアを中心とした広い地域で伝統野菜として古くから食されてきた.しかし,市場に流通することは少なかったため,産地の広がりや各産地の事情はあまり知られていない.原産地もインドネシアのモルッカ諸島や中国南部,タイ北部など諸説あり定かではない.地産地消が叫ばれる現在において,伝統野菜の普及を進める中では産地の事情を明らかにすることが重要である.以上のことを踏まえて,本研究ではスイゼンジナの産地分布と地域名を報告した.

    調査方法
    インターネット(Google)を用いて学名を検索し,個体の写真が掲載されているサイト,なおかつ写真撮影地域が特定できるサイトを対象に集計した.現地調査では,産地の分布,販売の形態と地域名を直接確認した.

    スイゼンジナの産地分布 この調査では,インターネット上にみられる言語数そのものが影響している可能性は高い.しかし,日本や中国,台湾などの東アジア地域が大半を占め,原産地のインドネシアを含む東南アジア地域の産地が少ない傾向がみられた.
    現地調査では,東アジアの中でも日本の南西諸島や台湾中部以北,中国南部の一部地域では農産物直売所や屋外市場で多く販売されており,人々に日常的に食されていた.東南アジアではタイ北部の植木市場や少数民族の集落にみられる程度で少なかった.これらの流通量からみると,原産地はインドネシアではなく中国南部からタイ北部の地域が有力であると考えられた.

    スイゼンジナの地域名 日本では標準和名のスイゼンジナが,地域名としては水前寺菜(熊本県),金時草(石川県),式部草(愛知),ハンダマ(南西諸島)がみられた.他では,地域あるいは企業が商標登録をしている事例として水前寺菜「御船川」(熊本県御船町),ガラシャ菜(京都府長岡京市),ふじ美草(群馬県藤岡市), 金時草「伊達むらさき」(宮城県山元町)がみられた.
    日本以外では,紅鳳菜(台湾),観音菜(中国上海市),紫背菜(中国広東省,雲南省,四川省),แป๊ะตำปึง(タイ北部)がみられた.東南アジアではスイゼンジナの近縁種(Gynura procumbens)のほうが多く,タイ北部(แป๊ะตำปึง)やマレーシア,クアラルンプール(Sambung nyawa)では名称に混同がみられた.近縁種については,沖縄島の沖縄市や読谷村においても緑ハンダマという名称で販売されていた.このようにスイゼンジナは,地域ごとに様々な名称があり伝統野菜となっていることが明らかになった.
  • 因府年表を中心として
    谷岡 能史
    セッションID: 619
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    1 はじめに
    日本には『日本書紀』に始まる豊富な史料があり,これを素材に多くの古気候研究がなされてきた.発表者も大学時代は研究に明け暮れた(谷岡,2010;2011).その後,発表者は公共施設等に勤務し,幅広い見識を積むことができた一方で,就職活動等により研究は停滞することとなった..2014年には生活拠点が大都市圏外に移って情報収集・発信も難しくなり、正規の職に就いた現在も研究再開の見通しが立っていない.
    今回の発表は簡単な史料紹介とともに,こうした状況を打開するための糸口を探ることを目的とする.

    2 因府年表について
    今回発表する史料は『因府年表』である.同書については既往の古気候研究でも取り上げられてきたが,詳細な分析等がなされてこなかった.
    『因府年表』は鳥取藩の歴史書であり,藩士の岡嶋正義が編纂した.同書は1630年(寛政7)~1841年(天保12)について書かれたものであり,『因府年表』(1630~1747年)と,その続編である『鳥府厳秘録』(1748~1807年)・『化政厳秘録』(1808~1830年)・『天保厳秘録』(1831~1841年)の4つからなる.後2者は草稿的なものとされるが,今回はこれらすべてを合わせて「因府年表」と呼ぶ.
    因府年表は大正時代に活字化された.しかし,これは底本が明らかでなく,編者(岡嶋)の記述文を省略するなどしているため,著者の自筆本を底本としたものがのちに出された(日置ほか校註,1976).なお,後述の方法で大正時代の活字本と鳥取県史とを比較すると,後者の記載箇所が前者よりも多かった.

    3 集計方法・結果
    集計は,長雨・大雨・干ばつ・大雪等を,谷岡(2010;2011)にほぼ準拠し,直接的/間接的記載等に分けながら行った.
    鳥取県史を用いた結果,(1) 寒候期(11~3月)について,以下のことが分かった.
    (1)-① 1730~1750年代,1820年代前半,1830年代後半は少雪の記載が相対的に多い.
    (2)-② 1700~1710年代,1760~1780年代,1800年代後半~1810年代,1820年代末~1830年代前半は多雪の記載が多い.

    (2) 暖候期(5~10月)については明瞭な傾向に乏しいが,以下の傾向があった.
    (2)-① 1740~1760年代,1790~1810年代に干ばつの記載が多い.
    (2)-② 1770~1780年代に長雨の記載が多い.

    また,年代が下り史料が詳細さを増すにつれて,多雪と少雪,干ばつと長雨の両方が記載されている年も多いことが分かったため,史料の詳細さをどう引き出していくのかも課題として残った.

    今後もこうした成果を発表することで,関係各位の批判を乞いつつ,研究を再開していきたい.

    参考文献
    谷岡能史 2010.近畿地方の文献史料から見た7~10世紀の暖候期における気候.地理学評論 83: 44-59.
    谷岡能史 2011.『考古遺跡で検出された洪水痕跡と古気候の関係』 広島大学大学院文学研究科博士論文.
    日置粂左衛門・浜崎洋三・徳永職男(校註) 1976.鳥取県史第7巻 近世資料.鳥取県.

  • 永野 良紀, 加藤 央之
    セッションID: 612
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
    近年,クリーンエネルギーとして風力発電が注目されている.特に,北海道では風力発電の導入量が多い.しかし,風力発電を大量に導入すると風速が急激に変動することにより電力の安定供給に影響を及ぼすことが知られている.そこで,風速が急激に変動するタイミングを予測することが非常に重要である.予測精度は気象学的な要因に大きく依存している.例えば,北海道留萌地方で吹く風は暑寒別岳の影響で局地的な影響を強く受けることがWRFによるシミュレーションによって明らかにされている(葛西ほか,2014).そこで,本研究では北海道留萌地方を対象に風速の急変動現象の気象学的な要因を統計手法を用いて明らかにする.

    2. 解析方法
    まず,留萌の風速データより1時間の変動値を求め,変動値の3.0σ(8.6m/s)を超えて風速が増加したときを急増加と定義した.続いて,NCEP/NCAR再解析データの海面補正気圧(以下,SLP場)を使って主成分分析し,得られた第1~第6主成分までの主成分スコアに対する6次元空間内で風速急増加日(112日)についてクラスター分析を行って,風速急増加日における広域気象場を明らかにした.さらに,北海道気象官署22地点のSLP場について,各時刻での全22地点の平均値からの偏差に直して主成分分析を行い,風速急増加時のSLP場の特徴を広域気象場と併せて検討した.

    3.結果
    留萌において風速が急増加する前後の風向を比較すると,風速増加前は卓越風向がみられないのに対して,風速増加後の風向は西南西の頻度が大幅に増加しており,西南西から北西の風向が卓越している(図1).

    広域気象場によるクラスター分析の結果,9グループに分類できた.留萌では北海道付近を低気圧が通過することで風速の急増加を引き起こすが(永野・加藤 2015),今回分類された9グループのうち北海道付近に低気圧が存在するパターンは5グループみられ,この5グループの出現日数の合計は77日であった.この5グループの出現日について北海道の気象官署22地点によるSLPの主成分分析(以下,狭領域場)によって得られた第1-第2主成分スコア内の位置を解析したところ,第3象限にもっとも多くみられる(図2).第3象限のパターンは南南東から西南西にかけ気圧が高くなる空間構造を持ち,地上天気図から北海道の北側を低気圧が通過するパターンと確認できた.

    留萌の強風域は狭領域場の第1-第2主成分空間内において第1主成分スコアが負の領域で第3象限を中心にみられた.また,西南西の風に限ってみると第1主成分スコアと第2主成分スコアがともに負で卓越していると風速が強まっている(図2).第3象限に位置していた風速急増加日の主成分空間上の軌跡を風速増加前後の1時間で比較すると,各スコアの絶対値が小さい領域から各スコアの絶対値が大きい領域へと移動していた.すなわち,北海道の北側を通過した低気圧により北海道の気圧場が変化し,風向も変化したことにより留萌での風速増加をもたらしたと考えられる.

  • 栗山 知士
    セッションID: P1005
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    大地の遺産となりうる滝ノ頭湧泉とそれと 関連する長根堰を自然地理学の分野である水文学的観点と長根堰開削からみた地形の人工改変をジオパークの見所として紹介する.
    長根堰は,渡部斧松(1793~1856)が寒風山(標高345,8m)北麓の滝ノ頭湧泉に着目して,八郎潟西部の低湿地である鳥居長根地区の新田開発おこなうために開削した.長根堰開削の最大の特徴は,穴堰と流し堀工法である.
    穴堰の開削は,崩れやすい地質のため難工事となり,6名の作業員が殉難している.現在,穴堰はすべて崩落し,山が切り割られた形となり開渠いている.
    流し堀工法は斧松が考え出した方法で,この方法で開削した結果,八郎潟南西岸が埋め立てられ,新たな造成地を誕生させることになった.
    これらは,岩田(2012)が提案した「大地の遺産」の五つの評価基準に照らすと,男鹿半島・大潟ジオパークの見所として活用できるものと考えられる.
      
      
     
  • 丹羽 雄一, 岡田 真介, 遠田 晋次, 今泉 俊文
    セッションID: S101
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    1. はじめに  
      2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震( Mw = 9.0)によって,東北地方太平洋岸の広範囲で甚大な被害が発生した.本シンポジウムオーガナイザーらの所属する東北大学では,この大震災を契機に,2012年度より災害科学国際研究所(以下,災害研とする)が発足した.東北大災害研は,7研究部門(災害リスク研究部門,人間・社会対応研究部門,地域・都市再生研究部門,災害理学研究部門,災害医学研究部門,情報管理・社会連携研究部門,寄付研究部門)から構成され,兼務教員も含めて80人超のスタッフが在籍する。在籍するスタッフの研究分野は人文社会系から,理学系,工学系,さらには医学系など多様であり,分野横断型の研究を通じて災害科学に関する研究を進めている。
      東北大災害研は発足から4年半経過し(2016年10月現在),これまでに積極的な研究活動を行ってきた.研究内容は,巨大地震および津波の発生メカニズムの解明,被害の状況や将来評価,震災の教訓のアーカイヴ化など多岐にわたる。また,宮城県や岩手県の自治体とは連携協定をむすび,防災・減災に関する情報や知識を提供するなど,地域連携にも注力している。  
      ところで,東北大災害研における,分野横断型の研究スタイルは都市地理学や経済地理学などの人文分野や気候学,地形学などの自然分野など多彩な分野から構成される地理学の研究と共通する。東北大災害研における研究活動を日本地理学会員に発信することは,第一に,津波被害,文理連携,医療支援活動,災害アーカイヴといった幅広い分野にわたる災害研究の取り組みや成果を全国規模の研究コミュニティにアピールするという点で意義がある.さらに,災害研の研究者が日本地理学会の研究者と議論することは,日本地理学会員にとっては災害研究において地理学が生かされる点を探るきっかけになり,災害研の研究者にとっては,災害の地理学的な捉え方について再考する絶好の機会になると期待される.  そこで今回,災害研所属であり,東北大地理学教室に関わるスタッフを中心に本シンポジウムを企画した.本シンポジウムは第一部の講演および第二部のパネルディスカッションから構成される.

    2. シンポジウムの内容
      第一部では災害研所属の日本地理学会非会員の若手研究者が多種多様な研究活動を紹介する.1件目は,サッパシーアナワット准教授による,2004年インド洋津波と2011年東北津波の被害の比較に関する内容である.2件目は蝦名裕一准教授による,歴史学を軸として地震学・地質学などとも連携した分野横断型の災害研究の内容である.3件目は佐々木宏之助教による,3.11の教訓を生かした医療支援活動の内容である.4件目は,柴山明寛准教授による震災アーカイヴ活動(震災の記録・教訓をどのように伝え、残していくか)の内容である.
      第二部のパネルディスカッションでは,まず,3名のコメンテーターが災害研の活動に対しコメントする.1人目の今泉俊文教授からは,理学研究科を本務とし,かつ災害研を兼務する日本地理学会員の立場から,災害研設立時の理学研究科の協力,災害研への地理分野の関与に関する補足説明・コメントを行う.2人目の須貝俊彦教授からは,所外の自然地理分野,および,文理融合を挙げて研究教育を行う東京大学大学院新領域創成科学研究科に所属する日本地理学会員の立場から,災害研の活動へコメントする.3人目の磯田弦准教授からは,所外の人文地理分野の立場および,東北大に所属する日本地理学会員の立場から,災害研の活動に対してコメントする.コメンテーターからのコメントだけでなく,会場からも質問やコメントを受け付け,災害研究に対し,多様な角度から議論をしていく.
  • リトルデンマーク or ディズニーランド?
    杉浦 直
    セッションID: 416
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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      ソルバング(Solvang)は、カリフォルニア州サンタバーバラ郡、サンタイネス平野(Santa
    Ynez Valley)に位置する観光都市である。人口5,000人ほどの小都市であるが、現在は訪問観光客が年間100万人を超えると称する一大観光地になっている。観光客を惹きつける主要資源は、スペイン人入植者が建設したサンタイネス・ミッションもさることながら、市中心部に集中するデンマーク様式の建物群とデンマーク風に演出された諸行事である。発表者は、2015年9月に現地を訪れ、短期間ではあるが関連文献・資料を収集するとともに都市景観の特色を観察した。十分な調査には至らなかったが、この「エスニックテーマ型観光都市」の構築過程の概略、その魅力と意味するところを考察してみたい。
     ソルバングは、デンマーク系移民のコロニー(集団入植地)として1911年に創設された。初期に入植・定住した人々は宗教心の篤い人々であり、ルーテル派の牧師B.
    Nordentoftを指導者として宗教と教育を軸に街づくりを進めた。集落の初期の建物の多くは通常のアメリカ的様式であったが、第二次大戦後、町の人々のルーツであるデンマークへの関心が高まり、いくつかの建物がデンマーク様式で建てられた。特に、F.
    Sørensen夫妻がデンマーク旅行から帰国後、住居をデンマーク風に建て、また所有地に風車を建設して以来、デンマーク風のファサードをもつ建物が急増して、町は“a
    Danish Village”の様相を呈するようになる。
     この小さな「デンマーク村」が全米的な関心を引くきっかけとなったのは、ソルバングの歴史とそこで生きてきたデンマークの風習を強調したサタデイ・イブニング・ポスト紙による「リトルデンマーク」と題した1947年1月の一つの記事である。この記事は観光用宣伝として意図されたものではなかったが、牧歌的な小さなエスニックタウンのイメージは、多くの旅行者の好奇心をかきたて、ソルバングの住民たちもこの新しくつくられた国民的関心を利用して観光地化する道を選択したのである。
     ソルバング市域の景観は、“Danish
    Village”と呼ばれる中心市街地(ビレッジエリア)とその外の周辺地域で大きく異なり、ビレッジエリアのほとんどの建物(商業用建物が主)は木軸を強調した漆喰壁面のハーフティンバー外観、瓦葺きないし木羽葺(一部に草葺き)切妻屋根をもつ古風なデンマーク風の建築である。歩道は煉瓦舗装が基本で、街路樹、花壇、ベンチなどのストリートスケープも凝った装いをもつ。周辺地域は、ビレッジを取り囲むオープンスペースと果樹・野菜の農地、プリシマ丘陵の未開拓地、サンタイネス川河川敷、サンタイネス山地など田園的な特性を有してビレッジエリアと顕著な対照を示す。ビレッジエリアのデンマーク風建築は従来特に定まった基準に基づいたものではなかったが、1985年に建築の外観に関するデザイン条例が施行されて以来、建築審査委員会(BAR)によってすべての新改築が規制されている。
     ソルバングは魅力的な街である。抜けるようなカリフォルニアの青い空に映えるオレンジ色の瓦屋根、カラフルなハーフティンバー外壁はよく整ったストリートスケープと調和して観光客に別世界に遊ぶ感覚を与える。しかし、その魅力の背後に潜む文化的本質を的確に捉える事は難しい。オーセンティシティの観点から見るとき、特に歴史的根拠をもたないワシントン州レブンワースのババリア風街並みの創出とは違って、ある程度デンマーク系移民の歴史につながるエスニシティの表出と見ることもできる。しかし、これをもって「本当に真正な」文化的発現であると言うことはできない。BARのデザインルールによれば、一つの建物の外側はデンマーク建築の基本に忠実であるということより、それがオーセンティックなスタイルと材質を保持していることが重要であるという。フェイクであるかどうかを問う必要はなく、全体がリアルに調和的に見える限り住民そして来訪客にとって「オーセンティック」なのである。Larsen(2002)によれば、ソルバングは「形においてhyper-Danish、内実においてtypically
    American」であるという。ソルバングとレブンワース、そしてディズニーランドとの距離は意外に近いのかも知れない。

  • 日野 正輝
    セッションID: 305
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    都市の支店集積量が縮小を続けているのか、それとも回復しているのか?

    Does the agglomeration of branch offices in
    Japanese major cities keep decreasing or recover?


     

     

    日野正輝(中国学園大学)

    Masateru
    HINO
    Chugokugakuen
    Univ
    .)

     

    キーワード:支店、支店経済、支店集積の縮小、経済センサス、日本都市

    Keywordsbranch office, branch office
    economy, reduction of the agglomeration of branch offices, Japanese Economic
    Census, Japanese cities


     







    1.はじめに

    地方中枢都市の戦後の急成長は東京一極集中とともに、戦後日本の都市化を特徴づける現象であった。しかも、当該都市は「支店経済のまち」と形容されたように、それらの都市の成長は支店集積と都市成長の関係に対する関心を喚起した。しかし、地方中枢都市をはじめとする主要都市の支店集積量は1990年代後半以降縮小に転じ、2000年代に入っても、その傾向は持続し、高度経済成長から続いた日本都市の成長のパターンに転換が訪れたことを教えた。

    しかし、2009年の経済センサスの調査結果は、一転して主要都市の支店従業者数の増加を示した。筆者は、これが実態を反映したものかどうかを検討し、調査方法の変更および日本郵政などの民営化の影響によるものであると指摘した。

    2009年経済センサス(基礎調査)以降、すでに3回の経済センサス調査が実施され、2012年活動調査、2014年基礎調査の結果が公表されている。そこで、それらのデータを用いて、都市の支店集積量が2010年代に入ってどのような動きを示しているかを検討した。

    2. 調査方法

    分析対象に取り上げる都市は、筆者のこれまでの分析に倣って47県庁所在都市と人口規模と中心性からみて県庁所在都市並みの都市と評価できる10都市からなる計57都市である。

    分析に使用する資料は経済センサスと2009年以前については事業所企業統計調査である。支店は、筆者のこれまでの分析に倣って、大分類4業種と不動産業、対事業者サービス業の中分類10業種において他都市に本社を置く民営企業の支所とした。都市の支店集積量は支店従業者数で把握する。

    3. 分析結果

    1)図1は57都市の総支店従業者数の推移を示したものである。1996年をピークにして減少に転じたが、2009年に再び増加に転じた。しかし、2009年以降はわずか5年間に減少と増加を見せており、この期間の変動には、経済センサスの事業所の補足率の差異が影響しているとみてよい。

    2)支店従業者の2009年、2014年の増加においても、建設業、卸売業の支店従業者が減少している。その減少を主に対事業所サービス業の支店従業者の増加が補っている。ただし、当該業種の中で増加が大きかった業種は、「職業紹介・労働者派遣業」および「その他の事業サービス業」などであった。

    3)個別都市の検討では、仙台の支店従業者が2010年代に大きく増加している。しかも、多くの都市が建設業、卸売業において減少を示すなかにあっても増加を呈した。東日本大震災後の復興事業に関係して仙台支店の従業者が増員されたと推察される。

    4.おわりに

    都市の支店集積量の縮小は経済センサスの調査結果からは認められなくなっている。しかし、都市の支店の動向を規定する基本的な社会経済的傾向に変化がない。したがって、都市の支店集積は、景気変動の影響を受けて増減を見せるであろうが、増加傾向に回帰するとは考えにくい。

    文献

    日野正輝(2013):経済センサスによる主要都市の支店集積量の把握と問題点.商学論集(福島大学経済学会),81(4),2013,149-161.
  • 中埜 貴元
    セッションID: 510
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    大規模盛土造成地の滑動崩落対策に資する盛土の位置と規模の把握に必要な造成前の地形データ(旧地形データ)を効率的に作成することを目標に,SfM多視点ステレオ写真測量(SfM/MVS)技術を活用し,造成前の空中写真(米軍空中写真)から旧地形データを作成する手法を検討した.本研究は,科学研究費補助金若手研究(B)(課題番号:15K16288)を使用.
    解析の結果,オルソ画像の水平精度(RMSE)は1.77m,DSMの高さ精度(RMSE)は2.15mであった.DSMについて,余計な起伏除去のために3×3平均化処理を実施し,写真測量によるDEMと差分をとったところ,データ不良箇所や谷底部分では比較的大きな差が生じたが,その他の部分は概ね±5m以内の差となった.
  • 長谷川 直子
    セッションID: P908
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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      1. はじめに/方法 演者は総合学としての地理の視点を広く社会に広めるため、大学で実施した1授業の成果を2016年3月に出版した(お茶の水女子大学ガイドブック編集委員会編2016).この雑誌に綴じ込みの読者アンケートから、購入動機や、読んだ結果の満足度などを調査した. アンケートハガキは雑誌に綴じ込みの形をとった。雑誌の販売から約3ヶ月後の5月末時点で回答があった17名のデータをもとに集計した。
      2. アンケートの結果 アンケート回収数は17である。回答者の属性については以下の通りである。男10,女7.10代1,20代1,30代2,40代4,50代4,60代3,70代1,90代1.お茶の水女子大学に関係ある5,ない10,未回答2. 職業は会社員1,公務員2,出版印刷関係2,主婦1,書店員1,流通業1,大学(院)生3, 高校生1,中高教員1,無職4であった.  雑誌をどこで知ったか:月刊「地理」1,古今書院HP2,その他のHP2,大学の掲示1,書店の店頭4,知人・友人2,その他7.  どんな点に惹かれて購入したか(複数回答可)については図1に示す。地理女子による解説が17名中11名と最多であった。続いてタイトル(8),専門家のコラム(6),ガイドマップ実践例(5)と続いた(その他の回答:大型書店にも在庫がなく、中身も見ずに客注)。
     満足した点は表紙(9)、内容構成(12)、内容充実度(12)がそれぞれ高く,その他の回答は「とかく地理は女子に人気がないと言われているが、地理女子らしさ(きめ細かい視点)が全面にわたって出ている点に好感がもてました」,不満足な点は価格(5)が最多で,未記入(6)も多かった(その他の回答(2)は「地図や絵等は大きく載せてほしい/内容の区切りがあいまいで、突然別の内容に変わる印象。でもそれは味のうちでした」).  全体を通しての満足度(4段階評価)は満足(5),まあ満足(12), やや不満(0),不満(0)であった.  続編があれば購入したいかとの問いにははい(13),いいえ(0),なんともいえない(3),未回答(1)であった。  雑誌全体に対する意見(自由記述)は17名中12名が記入していた。その幾つかを紹介すると、「総じて興味深い内容」「大学での勉強を垣間見ることができ、とても興味深かった」「リケジョや歴女が注目される昨今、いよいよ地理好き女子の登場を嬉しく思いました」「地理の楽しさ、面白さを大人向けに発信してください!」「地理出身者にとっては、まさに夢のような冊子。学生時代のワクワク・ドキドキ感を思い出しました」「地理学でどのようなことを研究・実践するのかよく知らなかったが、その(ほんの)一部を垣間見ることができた。ガイドブックとしても上質。週末に原宿さんぽしたくなった」「地理学の一般普及という観点から提案されたこのような書物がもっと多く出ればと思う」などと、他のエリアを作って欲しいと小日向と多摩地区を提案する意見がそれぞれあった。  
    3.まとめ 今回の読者アンケートハガキからは雑誌に対する評価は概ね好評で,今回の雑誌の内容のようなものに対するニーズもあるということがわかった。しかし,回収数が限られていることと,雑誌綴じ込みアンケートに回答し投函する読者は雑誌自体を高評価しているバイアスには注意する点がある.読者アンケートでは好評だったが,表紙はセクハラ,地理女子による解説は内輪受け,全体的にレベルが低くお茶大や地理の名声を貶めたといった否定的な意見があったことも留意する必要がある.何れにしても否定意見も含め,授業成果を発信することやアウトリーチ活動を行っていく上での何らかの示唆は得られたと思われる.
  • 荒木 一視
    セッションID: 319
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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     1947年のインド独立以来の食料生産をフードレジーム論の観点を通じて検討する。フードレジーム論とは多国間の農産物・食料貿易に注目して食料供給体制を論じるもので,英国の植民地経営を中心とした第1次レジーム(コロニアル・ディアスポリック・レジーム),戦後の米国を中心とする第2次レジーム(マーカンタイル・インダストリアル・レジーム),および第3次レジーム(コーポレイト・エンバイラメンタル・レジーム)が示されている。インドの独立以降に対応するのは第2次レジームであり,大量で安価な食料供給を実現した強力な食料輸出国である米国とそこからの食料輸入に依存する輸入国によって特徴付けられてきた。日本の戦後のアメリカからの食料輸入と高度成長もこの枠組みからよく理解することができる。しかし,この時期のインドは国民会議派政権のもとで国内産業に立脚した計画経済を推し進めていく。この意味で,インドは第2次レジームからは切り離されているように見える。
      かつてのインドが食料不足というイメージで捉えられていたということは否定できない。しかし,独立以降のインドの食料生産が驚異的な伸びを示してきたこともまた事実である。例えば米の生産量は独立間もない1950年度には21百万トンであったものが,2000年度には85百万トンと4倍以上に増加する。同様に小麦は6百万トンから70百万トン,トウモロコシは2百万トンから12百万トンとそれぞれ大幅な増加をみる。ちなみに1951年のインドの人口は363百万人で,2000年は1,002百万人である。インドの人口増は多くの注目するところであり,半世紀で約3倍というそれは大きなインパクトを持つ。しかしながら,上記のように同時期の穀物生産量の伸びは,人口増を上回り,1990年代には輸出国に転じる(右表)。期間を通じた穀物供給量は3倍余で,人口増をやや上回る程度であるが,内訳をみると米供給量58kg/人年が2001年には70kgに,同小麦供給量は24kgが50kgとなり,雑穀の比重が下がり米麦の比重が上昇している。  無論この間,特に1960年代後半以降は緑の革命といわれるHYVの導入,農業技術の改善があったことは事実である。しかしながら,米の生産量は独立以来ほぼ一貫して増加し続けており,特定の期間に大きな伸びを示すものではない。同様に小麦生産においても1960年代後半以降一貫した伸びが認められるように,継続的な食料生産の拡大があった。  インドに関しては1990年代以降の経済成長に多くが着目する一方,それ以前に関しては低成長の代名詞のように把握されていたことは事実である。しかし,この低成長といわれる時代においてもインドの食料生産は着実な拡大を止めることがなかったのである。この点をどう評価するのかということに着目したい。肉食に対する禁忌の多い社会とも相まって,その後の経済成長の基礎を形作ったと考えることができる。すなわち,食料輸入国のままでは経済成長は成し得なかったのではないか。
    以上の時期は,フードレジーム論の枠組みでは第2ジレジームに相当し,米国が食料輸出国として台頭する時期である。日本の高度経済成長期のように,安価な食料の大量輸入による経済成長が目指された時期でもある。そうしたなかで大人口を養う食料の国内自給体制を築いたのがインドであり,1990年代以降の経済成長の背景と考えた。これは,同様に大人口を抱えつつ,建国以降80年代まで食料生産を向上させながら,近年急速に飼料作物を含めた穀物の海外依存を高める中国とも大きく異なる点である。  一方で,独立以前の英領インドは第1ジレジームにおける小麦をはじめとする食料輸出国であり,その貿易体制から脱却することによってインドの独立を目指したのがガンディーの思想・運動である。独立以降今日に至る動向と戦前の状況を一貫して把握しようとする際に,フードレジーム論とガンディーの思想は興味深い論点を提示していると考えた。2つの観点からの解釈を試みたい。
  • 苅谷 愛彦
    セッションID: P1002
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    はじめに  甲府盆地西方の巨摩山地は甘利山(標高1740 m)や櫛形山(同2052 m)を主峰とし,その東方山麓に境界断層としての糸魚川-静岡構造線活断層帯(ISTL-FZ)を擁する。巨摩山地の各所に地すべり地が存在するが,それらの地質や年代に関する資料はきわめて少ない。本研究では,甘利山南面に発達する地すべり[御庵沢地すべり地:GOA]について,新たに地形学・地質学的資料を得た。
    地形・地質の概要  <地すべり地主部> GOAの滑落崖は最大幅約660 mで,その頂部は標高1630 m付近にある。移動体(面積約5.9×105 m2)は標高960~1320 mの範囲に及ぶ。移動体は地表に不規則な凹凸を伴い,部分的に礫支持の岩塊斜面もみられる。移動体の地質は,周辺の基盤をなす中新世西八代層群(堆積岩類・火山岩類)由来の角礫層を主とする。礫層の層厚は20 m以上と考えられる。滑落崖頂部と移動体末端の水平・垂直距離はそれぞれ1.68 km及び0.66 kmで,等価摩擦係数はθ=0.39である。<湖沼・氾濫原> 移動体西縁のLoc.1では,全層厚約10 mの泥炭・シルト・砂の互層からなる湖沼・氾濫原堆積物が認められる。本層はほぼ南北走向を示し,東へ17~42度変形している。本層はGOA地すべり移動体を覆うと考えられる一方,本流性河成礫層(層厚不明)に覆われる。本層は木片を含み,本層の下限付近には厚さ0.2 mm以下のテフラ層(ほぼ全量が泡壁型ガラス)を1層挟む。14C年代及びテフラの同定> 湖沼・氾濫原堆積物の下限・上限付近から各1点の木片を採取し,それらの最外部の年代を測定した結果,7741~7615 cal BP(下限)と5261~4873 cal BP(上限)を得た。またテフラ層(火山ガラス)は,その主成分化学組成及び屈折率特性から鬼界アカホヤ(K-Ah;約7200 cal BP)に同定された。
    地すべり地の形成史  GOAは移動体の推定体積(約1.2×107 m3以上;移動体の厚さを20 mと仮定)からみて大規模地すべりに区分される。またLoc.1付近の湖沼・氾濫原堆積物は,移動体による御庵沢の堰き止めで生じたものである。同層に含まれる木片やテフラの年代から,初生地すべりは8000~7700 cal BP頃に生じたと考えられる。その際に形成された堰き止め湖沼・氾濫原は2700~3000年経過後の5000 cal BP頃には御庵沢の河川堆積物により埋積されたと考えられる。地すべりの誘因については,地すべりの規模が大きいことからISTL-FZまたは海溝型プレート間断層の活動による強震動が想定される。ISTL-FZの南部区間は8400~7200 cal BP頃活動したことが指摘されている1
    甘利山の山体重力変形との関係  ところで,滑落崖の背後(北側)には東西走向のリニアメントが存在し,これに交わる尾根や水路が系統的に右ずれ変位しているようにみえる。このリニアメントに並行・雁行する弧状地形も認められる。甘利山周辺には活断層(重力性断層)とされる千頭星山断層2が知られているが,これらの地形はそれと異なる。推定の域を出ないが,甘利山山頂を載せるブロックが岩盤重力変形のために東~北東へ変位し,これに伴いリニアメントや系統的右ずれ変位が生じた可能性がある。そうであれば,GOAはそのような山体重力変形域の近傍で生じた大規模地すべりとなり,両者の地質的関係や変位発生時期の同調性の解明が今後の検討課題となろう。
  • 岩船 昌起
    セッションID: 611
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    【はじめに】2016年熊本地震災害では,九州の県と市町村は,九州地方知事会での決定に基づき「カウンターパート方式」で被災市町村をそれぞれを専属的に支援した。筆者も,鹿児島県担当の宇城市で集中的に支援活動を行い,災害対策本部等に助言している。本発表では,この活動や宇城市提供データに基づき,宇城市での被害や避難者の実態を報告する。
    【地震の概要】2016年4月14日21時26分に熊本県熊本地方を震央とする震源の深さ11kmでM6.5の地震が発生し,益城町では震度7,宇城市では震度6弱が観測された(気象庁)。また,同じく熊本地方を震央とする震源の深さ12kmでM7.3の「本震」が16日1時25分頃に発生し,西原町および益城町で震度7,宇城市で震度6強が観測された。
    本震以降,熊本県阿蘇地方や大分県西部および中部でも地震が頻発し,14 日21 時以降6月30日までに震度1 以上を観測する有感地震が1,827 回発生している。これは,平成16年新潟県中越地震(M6.8)など日本で観測された活断層型地震の中で最も多いペースである。
    【熊本地震による被害の概要】熊本地震災害の主要な被災地の熊本県と津波災害が際立った東日本大震災被災地の岩手県とでの被害状況を比較する。人的な被害としては,死者・行方不明者が岩手県の方が桁違いに多いが,負傷者は熊本県が8倍弱多い。地震動による瓦の落下や家具の倒れ込み等で外傷を負った方々が多かったものと思われる。物的被害として,全壊は岩手県の方が7倍程度多いが,一部損壊は熊本県がほぼ倍程度の数となっている。
    東日本大震災では,全壊あるいは大規模半壊でも家屋を解体して「滅失」と判定されて応急仮設住宅に入居できた方々が多く,応急対策期の避難所での生活よりも復旧期の仮設住宅での暮らしの中でさまざまな問題が現出した感がある。一方,熊本地震では「一部損壊」認定世帯が被災者の大半を占め,半壊以上ので手厚く施される生活再建支援のさまざまな手立てを熊本地震災害被災者の大半に適用できない可能性が高い。
    また,熊本地震では,土砂災害で阿蘇地方での大規模崩壊等が注目されているが,ほとんど報道されていない宅地や農地の盛土地等で小規模な崩壊や亀裂が多数生じており,それらの土地所有者の多くがその対処に難儀している。それは,宅地被害でも家屋の破壊に結びつかないと罹災証明で評価され難く,特に私有地の被害が公的支援の対象になり難いからである。盛土地での被害は,1978年宮城県沖地震や2011年東日本大震災でも丘陵地の団地等で繰り返し発生しており,日本列島の造成地では地震動でどこでも生じる可能性が高かい問題であった。
    【避難者の特徴】宇城市提供の避難者数データから, 14日「前震」直後より16日「本震」以降で避難者数が多いことが分かる。17日0時に宇城市内避難所20施設合計で,宇城市人口の2割程度の11,335人が最大の避難者数として記録されている。また,日中には避難者数が減じ,寝泊まりする夜間に増加する傾向がある。
     一方,約93年間(1923年~2016年4月13日)の宇城市での最大震度は,震度4であった(気象庁)。従って,「前震」までに震度5弱以上の経験者はごくわずかであり,かつ震度5弱以上の地震は宇城市で発生しないと考えていたようであった。そして,地震災害を身近なものと考えていなかったことから,地震にかかわる科学的な知識や地震から身を守る知識や技術も地震が多発する地域の人びとに比べて相対的に低かったと思われる。
    「地震に対する備え」が十分でなかった宇城市民は,14日夜の前震と16日未明の地震で「地震の揺れに対する恐怖心」が強化され,家屋の損壊が酷くなくても自宅に入れない人びとが多数出現した。特に夜に地震に遭ったことから家の中で寝られない人びとが多く,それが避難者数の夜間増加の要因となった。
     避難者が抱く「地震に対する恐怖心」を軽減・解消するためには,地震の発生が収まることが最も重要であるが,活断層が存在する熊本では今後も地震が必ず発生し,再び恐怖心が呼び起される可能性が高い。これに対処するには,ソフト面では,心理的なカウンセリング等と並んで,防災教育を通じて「地震を知り,これへ対処できる」知識と技術を「地震を経験した人びと」が身に付ける必要がある。具体的には①市民が地震に関する科学的知識を身に付けること,②家具の固定など被害に遭い難い居住環境を事前に整えておくこと,③地震発生時には自身の安全にかかわる周囲の状況を見極められること,④これに応じて「身を守る」行動を選択実行できることなどに及ぶ。
    【本発表では】今後の防災教育の立案にかかわり,宇城市提供資料の分析や,実施予定の質問紙調査の結果も交えて,本発表時には,熊本地震災害避難者の詳細な特徴を報告する。
  • 山内 昌和
    セッションID: 310
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    はじめに 東京大都市圏(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県)の出生率はそれ以外の地域(非東京大都市圏とする)に比べて低い。その背景に結婚行動の地域差があることはよく知られている。しかし、夫婦の出生行動の地域差についてはこれまで十分に検討されてこなかった。
    本報告1)では、最近の研究で東京大都市圏の夫婦の最終的な子ども数(調査時点の年齢が45歳以上かつ本人初婚の有配偶女性の子ども数)が非東京大都市圏より少ないことが明らかになったことを踏まえ(山内2015)、両地域における夫婦の最終的な子ども数を規定する人口学的なメカニズムについて検討した。
    データと方法 分析では第4回と第5回の全国家庭動向調査の個票データを利用し、調査時点の子ども数が夫婦の最終的な子ども数であると考えられる1948-62年出生コーホートを対象として、まず平均子ども数および子ども数の地域差を検討した。次に、若い世代で出生行動に変化がみられるのかどうかを明らかにするために、1948-62年出生コーホートと調査時点で再生産年齢にある1963-77年出生コーホートの出生タイミングを地域ごとに比較した。
    結果と考察 分析の結果、以下の3点が明らかになった。第1に、出生コーホートや学歴、結婚年齢で表される構成効果による影響を統制しても、東京大都市圏に特有の要因である文脈効果の影響が確認された。具体的には、出生コーホート等の条件が同じ場合、東京大都市圏の平均子ども数は非東京大都市圏より約0.2人少なく、特に第3子の出生が起こりにくくなっていた。
    第2に、平均子ども数や子ども数の分布については、東京大都市圏と非東京大都市圏のいずれにおいても結婚年齢による影響が強くみられ、結婚年齢が上がると平均子ども数は少なくなり、子ども数0や1の割合が高くなっていた。
    第3に、1963-1977年出生コーホートの第1子や第2子の出生が起こりにくくなっていること、またこの傾向は東京大都市圏と非東京大都市圏に共通してみられるものであり、いずれの地域でも28歳以上で結婚した場合より27歳までに結婚した場合においてより顕著であることが分かった。
    こうした結果を踏まえ、構成効果と文脈効果に分けて、両地域の夫婦の最終的な子ども数や子ども数の分布に関する人口学的メカニズムについて考察した。構成効果のうち、まず学歴が夫婦の最終的な子ども数や子ども数の分布に与える影響は確認できなかった。これについては、分析対象となった1948-62年出生コーホートの場合、子どもは2人が良いといった類の規範が学歴の違いを問わず広く作用している可能性がある。次に出生コーホートに関しては、東京大都市圏の1958-62年出生コーホートで夫婦の最終的な子ども数が少なくなる効果がみられた。さらに結婚年齢に関しては、結婚年齢が上がると夫婦の最終的な子ども数は少なくなること、また若い出生コーホートでは出生順位別出生確率の低下傾向がみられることから、夫婦の最終的な子ども数の地域差が保たれる形で、晩婚化と相まって両地域の夫婦の最終的な子ども数が減る傾向にあるものと考えられる。
    文脈効果については、東京大都市圏の特徴を考慮し、希望する子ども数、子どもの教育関連費用、居住のあり方、人口移動の観点から考察した。まず、希望する子ども数については、多様な人口が存在する東京大都市圏の場合、居住者の意向を反映して夫婦の最終的な子ども数が少なくなる可能性がある。次に子どもの教育関連費用については、夫婦の最終的な子ども数は少ない方が合理的な状況にあった。続いて居住のあり方については、都心までの時間距離の長い東京大都市圏では、労働やジェンダーに関する問題と重なることで、夫婦の最終的な子ども数が少なくなる可能性がある。最後に人口移動については、東京大都市圏には転入者が多く、住宅等の継承可能な資産や出産・子育てに関する親からの支援を相対的に得にくいこと等により、夫婦の最終的な子ども数が少なくなる可能性がある。


    1) 詳細は山内(2016)に整理した。

    文献
    山内昌和 2015. 東京大都市圏の低出生率の分析―結婚行動と結婚後の夫婦の出生行動からみた近年の動向. 統計66(11):14-21. 山内昌和 2016.
    東京大都市圏に居住する夫婦の最終的な子ども数はなぜ少ないのか―第4回・第5回全国家庭動向調査を用いた人口学的検討―. 人口問題研究72(2):73-98. ( http://www.ipss.go.jp/syoushika/ bunken/data/pdf/20183202.pdf )
  • 八木 令子, 小田島 高之, 高橋 直樹, 吉村 光敏, 芝原 暁彦
    セッションID: P910
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    地形を水平・垂直方向に一定の割合で縮めた「地形模型」は、平面的な地図よりも地形の特徴が掴みやすいことから、博物館における自然環境の総合的な展示にしばしば利用されてきた。しかし模型の表面に何らかの分布図などを塗色してしまうと、情報が固定化され、時間をかけて製作した割に伝えられる内容が限られるというジレンマがあった。
    近年、映像を立体物に投影するプロジェクション・マッピングの手法が注目され、3Dプリンターで造形した模型上に、各種の情報を連続的に投影するストーリー性のある展示が、各地の博物館などでも行われるようになった。これらは、ひとつの模型上で情報の重ね合わせや歴史(地史)的変遷を表現することができるという利点があるが、マッピングという言葉通り、映像が模型にぴったりと重なり合うことが前提とすれば、アナログ(手作り)地形模型には不向きである。しかしこれらはサイズが制限されるデジタル模型に比べ、仕様に融通が利く上、手作り感の心地良さもある。そこで今回、初めからプロジェクション・マッピングを前提とした積層型地形模型の製作、投影する画像の調整等を行い、博物館の展示に導入し、活用の可能性や課題について考察したので報告する。
  • 風土記愛に関する報告(3)
    立岡 裕士
    セッションID: 419
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    1 はじめに
    現代日本の社会現象の一つである風土記愛について、NHKのTV番組の事例を報告する。NHKでは「番組表ヒストリー」として放送番組のデータベースを公開している。TV放送開始以来の全番組を対象としたものである。これを利用した結果について報告する。
    2 風土記と題された番組(風土記番組)
    2016年6月までの放映分を対象として「風土記」「ふどき」をキーワードとして検索すると、4599のTV放映が得られる。そのうち複数の系列で同時に放映されたものや広告、古風土記に関する番組などを除き、残りの3022本を対象とした。これらの番組は、まず全国放送と区域限定の放送とに分けられ、さらに子ども向けのもの(A)と一般向けのもの(B)とに分けられる。そしてそれぞれについて、放映形態によって、1:独立のシリーズ、2:何らかのシリーズ番組内で複数回なされた番組、3:独立またはシリーズ番組中の単発的な風土記番組、に区分できよう。
    3 考察
    ・その一方、1980年代初めまでは多様な風土記番組が作成されていた。しかし1988年の「庄内おんな風土記」を最後に風土記番組は一度途絶え、2002年までの10年余は全く作成されていない。2010年以降は2作品のみが再放送も含めて執拗に放映されている。図書における近代風土記の刊行数と全く異なる。
    ・1980年代までの風土記番組は一般に「地方の話題」もしくは「物語」であった。ただし国民強化に関わるであろう「民謡風土記」も1950年代に放映された。
    ・2010年代の「新日本風土記」(その派生番組たる「どきどきこどもふどき」も含む)は自賛的観光番組として、「地方」を介さずに直接国民強化を志向している。
  • 本合 弘樹, 原山 智
    セッションID: P1004
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    1. 上高地の活断層
      長野県松本市にある上高地は中部山岳国立公園の南部に位置し,山岳観光地として有名かつ人気が高いエリアである.また,今年の8月11日に『第1回「山の日」記念全国大会』が開催された際には注目が集まった.
      その上高地において,南北に延びる活断層の存在が本合ほか(2015)により報告されている.明神地域南部から徳本峠周辺,島々谷南沢にかけて延びる上高地黒沢断層と徳本峠断層である.これらの断層は地形図および赤色立体地図で判読されるリニアメントの形成と密接な関係があると考えられる.
      今回,本合ほか(2015)の研究結果を踏まえ,活断層の運動とリニアメントとして表れている活断層地形の形成との関係について考察した結果を報告する.

    2. 研究手順
      本合ほか(2015)では研究地域において,赤色立体地図を用いてリニアメントを判読し,その結果を踏まえ,断層の存在が推定された沢を中心に地表踏査が行われた.そこで明らかになった活断層とリニアメントの位置を比較し,活断層地形の形成との関係について考察した.

    3. 上高地黒沢断層と徳本峠断層
      上高地黒沢断層は本合ほか(2015)により命名された活断層であり,黒沢から稜線の鞍部を通り島々谷南沢にかけて延びている.1998年飛騨山脈群発地震(和田ほか, 1999)の発生に関係したと考えられている上高地断層(井上・原山, 2012 ; 本合ほか, 2015)を切っており,破砕帯露頭で見られる地層の引きずりから逆断層と考えられている.
      また、徳本峠断層も本合ほか(2015)により命名された活断層であり,稜線上で鞍部になっている徳本峠を通り島々谷南沢にかけて延びている.上高地断層と接していると推定され,破砕帯露頭で見られる地層の引きずりから逆断層と考えられている.

    4. 活断層の運動と活断層地形との関係
      黒沢が流れる谷地形や徳本峠(稜線の鞍部)の形成に関しては,活断層の運動による破砕帯の形成が関係していると考えられる.破砕帯の内部には断層粘土などが存在し外部より強度が劣るため,雨や雪などによって優先的に浸食が進むと考えられる.
      また,上高地黒沢断層の上盤(西)側および徳本峠断層の上盤(東)側それぞれにおける斜面の勾配に違いがあるが,これには美濃帯中生層の沢渡コンプレックスが北東‐南西走向・北西傾斜であることが影響していると考えられる.逆断層の運動で地表に張り出す上盤の地層は不安定になる.上高地黒沢断層の上盤は受け盤,徳本峠断層の上盤は流れ盤であり,後者は地表に張り出す分の地層が層理面で滑動しやすくなるため,前者よりもやや緩やかな斜面を形成していると考えられる.

    【引用文献】
    本合弘樹・井上 篤・原山 智(2015) 日本地質学会第122年学術大会講演要旨,一般社団法人 日本地質学会,R5-P-17.
    井上 篤・原山 智(2012) 2012年度日本地理学会秋季学術大会発表要旨,公益社団法人 日本地理学会,P015.
    和田博夫・伊藤 潔・大見士朗・岩岡圭美・池田直人・北田和幸(1999) 京都大学防災研究所年報 第42号 B-1,京都大学防災研究所,p.81-96.
  • サッパシー アナワット, 長谷川 夏来, 牧野嶋 文泰, 今村 文彦
    セッションID: S102
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    本論文は2004年インド洋大津波と2011年東北地方太平洋沖地震津波それぞれの人的被害と建物的被害の特徴を比較した.比較の結果,人的被害は過去に発生した津波による経験,防災認識,警報システム,構造的な防災施設等により、同等の津波外力であっても,国・地域によって,人的被害の程度が変わり,建物被害についても国の構造設計基準や工事現場の品質管理によって異なることが分かった.このことから,将来の津波被害を予測する際には,上述した国・地域の背景,地形,物理的な違いを十分に把握し,妥当な適用方法を考慮する必要がある.
  • 栗栖 悠貴, 小島 脩平, 稲澤 容代
    セッションID: 607
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    近年、地理院地図に代表されるように地理空間情報技術のめざましい発達により、誰でも容易に地理空間情報を扱えるようになった。その結果、災害対応をはじめ様々な分野で地理空間情報は効果的に活用されている。しかし、平成26年8月豪雨や平成27年9月関東・東北豪雨に伴う被害状況を振り返ると、事前に土砂災害危険箇所や浸水想定区域などの自然災害リスクに関する地理空間情報が被災地で十分浸透していたとは言い難い。その原因の1つにそれらの情報からリスク情報を解読する難しさがある。自然災害リスクに関する地理空間情報を分かりやすく伝えることは、被害軽減対策の1つとして重要である。
    本報告は、災害時の被害軽減対策を促すために重要な自然災害リスクに関する地理空間情報を分かりやすく伝えるための工夫を紹介するものである。効果的に伝える工夫として次の方法がある。
    ①土地の成り立ちと自然災害リスクの関係をワンクリックで確認できる地形分類データ。
    ②身近な自然災害リスクを伝えるハザードマップポータルサイト。
    ③浸水被害範囲の時系列変化がわかる地点別浸水シミュレーション検索システム。
    しかし、これらはツールであり利用されなければ被害軽減にはつながらない。
    そのため、今後有用なツールを活用してもらうような広報活動をしていくことが必要である。
  • 羽田 麻美, 乙幡 康之
    セッションID: P1014
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    Ⅰ 研究目的
    蘚苔類(コケ植物)は栄養分を吸う根や維管束を持たず,光と水分を体全体で吸収し光合成をおこなう原始的な植物である。湿潤環境に広く分布し,大きさは数cm程度で,高等植物に比べて生育場のミクロな気候環境に影響を受けやすいと考えられる。本研究ではドリーネを一つの生育場の単位として捉え,蘚苔類の種組成と気象観測データから,蘚苔類の生育特性を明らかにすることを目的とした。

    Ⅱ 地域概要および調査方法
    調査地域は,山口県秋吉台の真名ヶ岳東斜面にあるドリーネ(標高約250m)と,福島県阿武隈にある仙台平ドリーネ(標高約850m)である。両ドリーネは深さ約15 mであり,ドリーネ内壁斜面にはピナクル(石灰岩が塔状に露出した地形)が多数みられる。蘚苔類は,これらピナクル表面に繁茂する。調査は,各ドリーネにおいてNS方向に測線を設け,測線上のピナクル表面に付着した蘚苔類の種組成と被覆率を調べた。また,ドリーネ上部・中部・下部に温湿度ロガー(おんどとりJr. RTR-503)を2015年3月より設置し,30分間隔で気温と相対湿度の測定をおこなった。

    Ⅲ 調査結果および考察
    1.蘚苔類の分布特性
    1)秋吉台:調査対象のドリーネでは18種の蘚苔類がみられた。湿潤環境を好む6種(ツクシナギゴケモドキ,オオウロコゴケ等)は,ドリーネ北向き斜面に広く分布し,乾燥環境種は存在しない(図1)。
    2)阿武隈:調査対象のドリーネでは41種の蘚苔類がみられた。湿潤環境を好む5種(キダチヒダゴケ等)はドリーネ内に広く分布し,乾燥環境種(ギボウシゴケ,エゾキヌタゴケ)はドリーネ斜面上部にのみ分布する(図2)。

    2.蘚苔類の生育環境
    両ドリーネにおいて,9月と12月の晴天日における気温と相対湿度の時間変化をみると,秋吉台のドリーネでは9,12月ともに相対湿度は全地点で60 % 以上の値を示した。このドリーネはスギ-ヒノキの植林地であり,年間を通じて陰湿な環境にあるため乾燥環境種は存在しない。また,ドリーネ斜面上部に比べて,北向き斜面のドリーネ底では最大20 %も高く湿度が保たれており,ジャゴケやオオウロコゴケの生育場になっている。阿武隈のドリーネはミズナラ-イタヤカエデ林であり,秋吉台同様に9月は全地点で60 %以上の高湿度環境が保たれていたが,12月の落葉時には日中の湿度は全地点で45~55 %まで低下した。落葉時には日射によりドリーネ内の乾燥化が進むため,ドリーネ斜面上部に乾燥種が分布する要因となっている。
  • 磯 望, 黒木 貴一, 後藤 健介, 宗 建郎, 黒田 圭介, 出口 將夫
    セッションID: P1007
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
      ハワイ島のイーストリフトゾーンにおいては,噴出年代が特定でき,且つ年代を異にする溶岩流が多数分布する。筆者らは,溶岩流に被覆された地域で再び植生が回復する過程とその経過時間との関係を検討するため,2015年2月末~3月初旬にこの地域を概査し,植生と溶岩の年代の関係を報告した(磯ほか,2015)。この調査では溶岩流表面の微地形と植生との詳細な検討は実施していない。

    2016年2月28日~3月3日に,同地域について写真を利用して数百m2程度の範囲を測量し,溶岩流の微地形と植生について詳細に検討する資料を得た。また,2014年にPuu Oo火口から流出し,Pahoaに同年11月に到達して停止したJune 27th溶岩流の堆積後の表層の変化についても報告する。なお,合わせて該当地域のLandsatデータによるNDVI値などについても検討し溶岩流地域の植生回復傾向を検討する予定である。

    ハワイ島南東部のPahoa, Cape Kumukahi, Opihikao,Kalapanaの4箇所で1955年以降に溶岩流で覆われ地点で写真測量を実施した。

    Pahoaでは,2016年3月時点で,June 27th溶岩流の亀裂内部などからシダ植物などが生育するなど,植物の着生が早くも認められた。Pahoehoe溶岩流であるため,2015年には溶岩流の表面は溶岩が急冷し形成された厚さ数mm径数cm程度の黒色細岩片に覆われていたが,2016年3月にはその一部が剥離し流失し,また,園芸用の土に混ぜるために,人がスコップで削ぎ取るなどの作用で,溶岩流を覆っていた黒色細岩片は失われつつあり,その下に露出する金属光沢を帯びた層が一部で表面を形成し始めている。写真測量から,50cm間隔のコンターを作成した。亀裂も確認でき,亀裂と植生との関係等も検討する。
  • 仁科 淳司, 三上 岳彦
    セッションID: S403
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    東京のヒートアイランド現象の進行に伴い,地上気圧の時別値データが得られる1950~69年(1期)と1990~2009年(2期)において,気圧の日変化にどのような変化が見られるかを比較・検討した。1期では日中の気圧低下が認められるが,2期では1期ほど明瞭な気圧低下は見られなかったこと,また夜間の気圧は,1期ではわずかに上昇する傾向が見られるのに対し,2期ではわずかに下降する傾向が見られた。この結果から次のようなシナリオが考えられる:高度成長期に相当する1期に進んだ人工被覆の増加によって日中の気圧低下がもたらされた。このため昼間により多く吸収された熱が夜間に放出され,空調の整備と合わせ人工排熱の増加につながり,2期の夜間の気圧の低下が生じた。
  • 吉田 和義
    セッションID: 206
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    知覚環境は、環境に対する表象を意味し、子どもは発達に応じて環境の表象としての知覚環境を形成し、それは幼児の段階で既に存在することが指摘される。本研究では、特に知覚環境の発達に伴う変化に注目し、発達プロセスを解明することを目的とする。小学校の時期を第1・2学年、第3・4学年、第5・6学年に区分し、それぞれの学年段階における知覚環境の発達を手描き地図の分析を中心に明らかにした。その結果、第1・2学年は、ルートマップの形成期であり、サーベイマップはほとんど見られない。第3・4学年については、第3学年でルートマップの割合が高いものの、第4学年にかけてルートマップからサーベイマップへの移行が始まり、急速に変化する。第5・6学年では、引き続きルートマップからサーベイマップへ移行する。しかし、この段階では大きな変化は見られず、漸次移行する。全体的には小学校第3学年までが、ルートマップの形成期であり、小学校第4学年以降がルートマップからサーベイマップへの移行期となる。特に第3・4学年の段階は、知覚環境に質的な変化が現れる転換期と考えられる。
  • 田中 誠二, 加藤 央之
    セッションID: 617
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    1.  はじめに
    前報(田中・加藤 2015)では日本付近を対象とした気圧パターンにおいて特異日の出現がみられることを統計的に明らかにした.そこで本報では,日本における天気の出現について特異日の有無を統計的に明らかにし,気圧パターンの出現との関係について解析を行った.
     2.  使用データおよび研究方法
    NCEP/NCAR再解析データの海面気圧データを用いて,日本付近を中心とする北緯20~50度,東経120~150度を対象に1961年~2004年の44年間について主成分分析及びクラスター分析を行い,毎日の気圧パターンについてグループ分けを行った.このうち主要となるパターンについて月日別出現日数を算出し,各パターンが出現する基準値(5~17日の7種類の移動平均値)に対する特定日の日数についてχ二乗検定により特定の気圧パターンが生じやすい月日(特異日)を抽出した.また,気象官署における降雪量,降水量および雲量データより期間中の毎日の天気を特定し,気圧パターンと同様にχ二乗検定により特定の天気が生じやすい特異日を統計的に抽出した.さらにこれらの月日が一致する事例を抽出し,その関係性について解析を行った.
     3.  結果
    気圧場における主要パターンと,全国の気象官署における天気の特異日について,両者がともに特定の日を中心とした短期間に出現しやすい事例が複数認められた.例えば大陸側が弱い高圧となり,オホーツク海方面が弱い緩やかに低圧となるパターン(図1)が多く出現する日(3月6日)については,同日に九州から近畿にかけての地点で晴れやすいことが明らかになった(図2).当該パターンが出現する前後の日を含めた気圧パターンを調査した結果,大陸側に位置する高気圧の張り出しや低気圧などの移動により出現し,翌日にかけて気圧傾度が大きくなるものであることが明らかとなった.このことは,当該地域において3月7日に雪や雨となる年が比較的多くみられることから,気圧配置の変化が天気の特異日の一因となっていると考えられる.
    また,関東付近が低圧となるパターンが多く出現する日(9月25日)については,同日に東北北部から北海道にかけて雨となりやすい結果が得られた.この事例では,前日から翌日にかけて低気圧が北海道の近海を通過する際に,当該地域に降水をもたらしているものと考えられる. 
  • 岩手県一関市を事例として
    卯田 卓矢
    セッションID: 207
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    現在,地域に伝わる民俗芸能(郷土芸能)を学校教育に取り入れる小中学校が全国各地に存在する.民俗芸能の導入は一部の学校で1970年代ごろから始まり,その後,1998年の学習指導要領改訂および「総合的な学習の時間」の創設によって各地で採用された.とくに,民俗芸能が盛んな東北地方では全校(小中)の半数ほどの学校が民俗芸能を取り入れている県もある.また,学校の中には導入から30年以上経過し,学校の伝統文化として位置づけているところも少なくない.<BR> 学校教育において民俗芸能の導入が重視される背景には,第一に地域学習としての教育的意義,第二に民俗芸能の後継者育成が挙げられる.後者については,とくに過疎化が進行し,民俗芸能の継承が困難な地域では学校活動が後継者育成の重要な機会になるとして期待が寄せられている.だが,こうした教育的および芸能継承の両面において重要な場である学校は2000年代以降,統廃合という状況に見舞われている.小中学校の統廃合は戦後以降各地でみられたが,近年になると児童・生徒数の減少や経済的効率性などからその数は急増した.統廃合は学校の適正規模化から歓迎される一方で,地域の拠点性の喪失などの問題も生じさせる.その中で,学校の「伝統文化」である民俗芸能の取り組みも変更や廃止の危機に直面していると考えられる.<BR> しかしながら,学校と民俗芸能を扱った既往研究は両者の関係を静態的に捉えることが多く,動態的すなわち統廃合や制度転換等によって取り組みがいかに変化したのか,またその変化に地域的差異はあるのかなどについては十分に検討されていない.そこで,本研究は岩手県一関市の小学校を事例に,学校統廃合に伴う民俗芸能の取り組みの変化とその地域的差異について明らかにすることを目的とする.
  • 2013~2016年に撮影した写真をもとに
    佐島 健, 菅澤 雄大
    セッションID: P902
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    2011年3月11日の東日本大震災から5年目を迎える.報道等でも5年目の特集を組むなど,節目の年として三陸地域の生活再建,産業復興について,語られてきている.しかし,まだまだ復興は途上にある.震災後,5年目が経過したということもあり,以前よりはメディアにのる機会も少なくなってきたが,さまざまな視点で,各分野からの研究,報告がなされることが,今後も期待されている.地理学においても同様であり,本調査・研究は震災後5年目において,三陸地域のいくつかの復興途上の景観を写真により提示する.現地が今どのような状況にあるということを知ることそのものに意義があると思われるからである.また,我々が最初に三陸を訪れた2013年3月と比べての変化も併せて提示する.この変化から,生活再建,産業復興が進められてきたことが分かると同時に,現地の人々の見方もさまざまであるということも提示するものである.ついては,本調査・研究における一つ一つのデータが今後の調査・研究に資するものであることを期待する.
    岩手県の三陸地域において,陸前高田市・大船渡市・宮古市にかけての東日本大震災の被災地で写真撮影と聞き取り調査を中心とした現地調査を実施した.現地調査は,2013年から2016年にかけての計16日間で実施した.また,2015年と2016年の調査を中心に,被災地の復興状況とそこに暮らす人々の被災体験や震災後の生業・生活に関する聞き取り調査を行った.
    2013年から2016年にかけて,およそ1年おき(2015年,2016年は4か月おき)に現地調査を実施した.その結果,2013年の時点では,震災の瓦礫や津波の被害から逃れた建物の一部残されている更地が多く見られた.2014年には瓦礫がほとんど撤去されて,更地も整備されていた.2015年以降に陸前高田市などを中心に盛り土工事が実施されていた.
    2013年,陸前高田駅周辺の旧市街地では,津波の被害を免れたビルが1棟残るだけの更地が広がり,各所には瓦礫が積み上げられていた.2016年には,かつて張り巡らされていたベルトコンベアは撤去され,盛り土工事が進められていた.この復興の状況について「陸前高田未来商店街」の商店主の方によれば,主に以下の不安があるとの回答を得られた.現在の仮設店舗での営業期間の見通し,処分に関わる費用負担,また,市役所から盛り土造成でできる新市街地への出店要請があると同時に,場所も費用の見通しのつかないこと,最後に,新市街地に出店して採算が成り立つかわからないことである.
    大船渡市魚市場周辺では,満潮時に海沿いの土地が冠水する状態が2013年に見られた.2014年には震災前から建設が進められていた新魚市場が完成し,その周辺には漁業関連施設も整備された.大船渡漁港魚市場株式会社でうかがったところ,2015年に水揚げ高は震災前の水準に戻りつつある一方で,漁獲件数は震災以降,減少しているとのことである.
    宮古港周辺の鍬ヶ崎地区・日立浜町地区では,2013年には津波で流された家屋の基礎が残された更地が広がっていた.2015年から2016年にかけて土地の造成が行なわれ,震災復興集合住宅などが建設された.この地区で酒造業を営む酒蔵によれば,震災後,比較的早く出荷を再開したという.その一方で,同じ地区で漁業と民宿を営んでいた漁師によると,漁業は継続しているが,民宿業は廃業してしまった.
    宮古市の田老地区では,防潮堤の一部を残して更地が2013年に広がっていた.2015年以降,震災復興住宅や漁業関連施設,野球場が建設された.現在,震災および津波により生じた被害状況やそれ以降の人々の生活について語り継ぐ「学ぶ防災」活動を実施し,観光業において振興を図っている.
    以上のように,震災5年目を迎えて復興が進みつつある中で,そこに暮らす人々の苦労や葛藤も見られる.今後は,より詳細な聞き取り調査を実施しながら,景観からとらえられる地域の復興とそれと密接にかかわる人々の生活再建がどれほど進んできているかについても明らかにしていきたい.
  • 2015年国勢調査抽出速報集計による分析
    丸山 洋平, 吉次 翼
    セッションID: 515
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    2011年3月に発生した東日本大震災から5年以上が経過した。その間、被災地および被災者に対する様々な支援が行われてきたが、集団移転、復興まちづくりの長期化、福島第一原発事故に伴う避難指示区域の設定等の理由により、居住地の変更を余儀なくされている人々が多数存在している。被災者の移動による転出と転入が生起しており、結果的に東日本大震災は被災地とその周辺自治体の人口分布変動を引き起こしている。人口移動を把握する方法として住民基本台帳人口移動報告を利用することが考えられるが、平時から住民票を動かさずに転居するという実態がある。それに加えて、原発避難者特例法等により、原発付近に居住できなくなった人々が、元の自治体に住民票を残しながら避難先自治体で行政サービスを受けることが可能になっており、とりわけ福島原発周辺自治体の人口移動を正確に把握することが困難であった。2016年6月末に2015年国勢調査の抽出速報値が公表され、都道府県と人口20万人以上の市で男女・年齢5歳階級別人口を分析できるようになった。本報告では被災自治体、特に福島県と県内人口20万人以上の市である福島市、郡山市、いわき市を対象として、2010年から2015年までの年齢別の人口移動、その結果としての人口分布変動を分析する。そして、それを以て被災地の復興計画や地方人口ビジョン・地方版総合戦略に見られる将来人口の見通しを批判的に検討することを試みる。なお、国勢調査の抽出速報値は、標本誤差の影響によって後に公表される確定値から少なくない乖離があることに留意する必要がある。  総人口の変化を見ると、2005年~2010年、2010年~2015年の2期間の人口増加率は、岩手県は-4.0%、-3.8%、宮城県は-0.5%、-0.6%、福島県は-3.0%、-5.7%であり、福島県において震災後に人口減少傾向が強まっている。2010年~2015年の年齢別純移動率を見ると、岩手県、宮城県では過去のパターンからの変化が小さいが、福島県では年少人口の大きな転出超過、前期高齢者の転入超過、後期高齢者の転出超過等があり、年齢構造が大きく変化し、少子高齢化の進行を早める結果となっていた。福島県内の3.市では、福島市といわき市の総人口が減少から増加に転じており、県内人口移動の影響が想起される。年齢別の純移動率を見ると、年少人口が転出超過になる点は福島県全体と同様であるが、福島市と郡山市では高齢期の転入超過が明確に表れているのに対し、いわき市では20歳代後半以降の全年齢層で転入超過になるという違いが見られる。浜通り地方にあるいわき市は沿岸部ではあるものの、福島第一原発付近の町村の多くが街ごといわき市へ移転し、原子力災害による避難者のための災害公営住宅が集中的に整備されていること等から、高齢者だけではなく幅広い年齢層で転入超過になっていると考えられる。中通り地方にある福島市と郡山市にも復興公営住宅が集中して整備されており、これが高齢者の転入超過に結びついていると推察される。以上をまとめると、福島県からは子どものいる世帯が主に流出し、県内では被災者向けの施策の影響で特定の都市部に人口が集中するという変化が起きているといえるだろう。  原発周辺地域の居住制限は短期間で解除されるものではなく、被災者は長期にわたって避難先での居住を続ける可能性があり、将来的には特定地域が極端に高齢化すると考えられる。加えて、年少人口の流出は将来の再生産年齢人口の減少から出生数の減少へと結びつき、福島県全体の少子高齢化を加速させる。各自治体の地方人口ビジョンを見ると、郡山市といわき市は原発避難者の状況分析と将来推計を行っているが、福島県と福島市では特に言及されていない。また、地方人口ビジョン全般に言えることだが、将来の出生率と純移動率に楽観的な見通しを与えた推計結果を目標人口に相当するものとして扱っており、とりわけ被災自治体では、こうした目標人口を掲げて現実を直視しないことが、復旧・復興を長期化させるのみならず、かえって地域の持続性を損なう可能性もある。今後の復興計画を単なる精神的な規定ではなく、実質的かつ効果的な政策枠組みとして機能させるためには、震災後の人口変動を踏まえ、よりシビアな将来人口の見通しを基準とする政策形成へと舵を切る必要がある。
  • 清水 長正, 宮原 育子, 八木 浩司, 瀬戸 真之, 池田 明彦, 山川 信之
    セッションID: P1006
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    東北地方では福島県と並んで山形県に風穴が多い。天然記念物にも指定された著名な風穴がある。これまでに確認された風穴から山形の風穴マップを作成した。県内の風穴は、自然風穴(地すべり地形・崖錐斜面などで自然状態にある風穴)、人工坑道の風穴、明治・大正期の蚕種貯蔵風穴跡(石垣囲)などに大別され、それらを2.5万分の1地形図索引図に示した。あわせて、各風穴の概要なども展示する。
  • 安 哉宣
    セッションID: P915
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    1.はじめに

    近年、日本では訪日外国人旅行者数の増加が続いており、韓国からの訪日旅行者数は2015年に初めて400万人を超えた。そのうち個別手配の旅行形態が74.2%を占めている(観光庁、2016)。インターネットの普及を背景とした情報網の発達やSNSでの情報拡散は個人旅行を充実させる素材の選択肢を豊富にしている。その一つが宿泊予約ポータルサイトや宿泊マッチングサービスの登場である。宿泊ビジネスにおいて様々な変化が生じている中で、日本在住韓国人の経営による低廉宿泊施設の開業がみられる。最近10年間の宿泊施設数の推移をみると旅館が25%減少していることに対し、ホテルは11%、簡易宿所は14%増加した。低廉宿泊施設の進出が多くみられる中で韓国人が経営する宿泊施設(以下、韓国人宿)は、韓国人旅行者が集い、交流できる場所として訪日韓国人旅行者の受け皿となっている。しかし、韓国人宿に焦点を当てた分析はなされておらず、経営や利用現状など全体像はまだ明らかにされていない。
    そこで本報告では、大阪市における韓国人宿の経営実態と特徴について検討し、訪日韓国人の宿泊需要に特化した観光インフラとしての可能性について基礎的な知見を得ることを目的とする。

    2.韓国人宿の分布と施設タイプ
    現在、旅館業法による営業許可を得て運営されている韓国人宿は総9軒であり、その内訳を旅館業法上の種別よりみると、「旅館」が1軒、「簡易宿所」が8軒である。9軒中7軒は2014年開業の宿であり、大阪を訪問する外国人旅行者の増加に相まって、韓国人宿の需要も高まったとみられる。建物様式は、商業ビルを改修・改築したケースやウィークリーマンション、宿泊施設として元々利用されていた建物を活用しているものが多く、新築や既存の自宅を利用したものは少ない。客室タイプはドミトリータイプ及び個室(2人/4人)タイプを備えている。また、ほとんどの宿が宿泊者とスタッフ、他の宿泊者と交流できるスペースを設けていた。いずれの宿も基本的には素泊まりであり、宿泊料金はドミトリーの場合、1泊一人当たり2200円~3000円、客室タイプは7000円~9000円(2名1室)と10000~14000円(4名1室)と低廉である。韓国人宿は主に日本橋駅周辺に多く立地しており、大半が2014年以降に開業した宿であった。この背景には、道頓堀、難波、心斎橋への接近性が良く、買い物やグルメを主目的とする旅行者のニーズを意識した立地選定があった。

    3.韓国人宿の経営特性

    韓国人宿の経営主体は、株式会社が4軒、個人経営が5軒である。女性経営者が多く、最低10年以上の居住歴を有していた。貿易関係や同胞向けのサービス業、飲食業など複数事業の経営者もみられた。宿は
    2名~5名の韓国人スタッフで運営されており、自社のHP、ブログ、韓国の宿泊予約ポータルサイト、SNSを活用して情報を発信し、予約を取っていた。韓国の旅行会社と提携している宿もある。
    韓国人宿の開業理由は、低廉な宿泊先の提供、韓国人との交流や韓国人旅行者同士の交流の場の提供である。各種無料サービスを提供する宿は多く、韓国語によるコミュニケーションの構築や現地情報の取得といった魅力もある。しかし一方、宿泊者には韓国と異なる日本文化に対する理解やエチケット・マナーの遵守への意識づけが求められていた。

    4.おわりに
    韓国人宿は、訪日韓国人旅行者と深く結びついた社会性を持つ宿泊施設である。日本在住韓国人の宿泊市場への進出は、海外旅行先におけるホストとゲストとの新しい関係を構築させているとみられる。
  • 地方移住者の視点から
    齋藤 万里恵
    セッションID: 106
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    近年日本では、人口急減・超高齢化の課題に直面しており、特に仕事や生活の利便性を求めて都市部への人口流出が多い地方部で深刻になっている。一方で地方移住といった田園回帰の動きもみられるようになってきた。中には、地域のコミュニティの再生や交流人口の拡大といった地域の課題解決に積極的に取り組む者も現れ、地方移住者による地域振興への寄与が期待されている。本研究では、地方移住者の視点から、移住者が地域振興に関わる動機・プロセスを調査し、移住者による地域振興を推進する方策について明らかにすることを目的とする。宮城県内で地方移住者にヒアリング調査を行った結果、移住者は移住当初は地域との交流は少ないが、仕事などを通じて徐々に地域住民との交流が生まれ、地域への高い関心から、地域振興に関わるようになることが分かった。また地域振興に関わることにより、地元住民との交流が深まり地域愛着が増すことにより、定住意識にも影響を与えていることが分かった。これらの結果から、「移住者と地元住民の交流」が移住者による地域振興を推進する方策として重要であることが明らかになった。特に移住者側は地域の風習や伝統を意識すること、地元住民は移住者の意見や企画を受け入れ協力する姿勢が必要であると考えられる。 また、地元の自治体や企業などの第三者のサポートも大切であることが分かった。具体的には、移住者と地元住民の交流の機会を提供したり、移住者が活動しやすい支援体制を整えたりするなどの役割があると考えられる。以上のことから、移住者と地元住民の交流を軸に、移住者と地元住民、自治体・地元企業が連携することで、移住者による地域振興を推進し、地方の活性化を行うことが可能であると考える。
  • 長野・上越・高岡の現状と課題
    櫛引 素夫
    セッションID: 303
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    北陸新幹線・長野-金沢間が2015年3月に開業し、1年余りが経過した。東京-金沢間が2時間半まで短縮され、利用の代表的な指標とされる上越妙高-糸魚川間の乗客が在来線当時の約3倍に増加するなど、開業は「成功」したとの評価が一般的である。 ただし、恩恵は沿線に一律に及んでいる訳ではなく、停車駅の所在地や地域によって、新幹線がもたらした変化は多様である。本研究では各種公表データ、および発表者が2016年7月に実施したフィールドワークに基づき、開業後1年を経過した沿線のうち、新幹線の終着地点でなくなった長野市と、新幹線駅が郊外に立地し最速列車「かがやき」が停車しない新潟県上越市、富山県高岡市に着目して、新幹線開業が市民生活やまちづくりに及ぼした変化について、速報的な状況確認と課題整理を試みる。

    JR西日本の資料によれば、上越妙高-糸魚川間の利用水準は2.2倍増を想定しており、実勢は予想を大きく上回る。初年度の増収効果は想定の2倍以上、265億円超に達した。2016年度は前年割れが続いているが、開業に伴う特需が一段落したことが要因とされ、地元で深刻視する空気は薄い。なお、長野県のまとめによれば、県内各駅の利用者数は、2015年度は全駅で前年を上回った。

    長野市は、開業の直後、6年おきに開催される「善光寺御開帳」があり、その効果で入込客が増えた。2016年に入ってからは大河ドラマ「真田丸」ブームが追い風となり、2017年にはさらに、信州デスティネーションキャンペーンが控える。 長野市などへの聞き取りによれば、外国人客も増えたが、北陸地方からの来訪者が大きく増加しているとみられる。富山・石川ナンバーの乗用車をよく見かけるようになったという証言もある。北陸から新幹線で長野市エリアを訪れた人々が乗用車で再訪するなど、開業に伴う心理的距離の短縮が、新幹線以外の交通手段による再訪を誘発している可能性があるという。地銀系シンクタンクの調査によれば、バスを利用した周遊型観光も活発化している。

    地元では開業前、長野駅の「通過駅化」が強く懸念されていた。その不安が反転する格好で、北陸との紐帯の構築が歓迎され、北陸地方がビジネスの対象地域としても注目されている構図である。

    上越市では何点か注目すべき状況を確認できた。「関西や名古屋からの来訪者が想像以上に多く、専ら首都圏に目が向いていた同市が、東西の結節点としての様相を帯びてきた」という証言を得た。市街地の南端に位置する上越妙高駅前は、更地が広がっていたが、2016年6月、地元の起業家による斬新なコンテナ・ショップがオープンし、来訪者のみならず地元の消費・交流の場として定着しつつある。さらに、県境を越えて長野県側と人的ネットワークをつくる取り組みも始まっている。他方、「かがやき」が停車する「首都圏-長野-富山-金沢」ラインのつながりが強まる中、歴史的に交流の深い長野市との連携が相対的に弱まる可能性もはらんでいる。

    高岡市は、新高岡駅の郊外立地が市民の不興を買っていたが、駅前にホテルや飲食店の建設が進んでいる。駅に隣接する大型ショッピングモールは増床を計画中である。他方、中心市街地に位置する高岡駅前では専門学校の建設が進み、同市に本店を置く地銀も、駅前に本店を移転新築する予定という。ただし、同駅前の地下街では、開業2年目で撤退する店舗が相次ぐなど、懸念材料もある。

    このほか、富山県内では、東証一部上場のゴールドウイン(本社・東京)が小矢部市に本社機能の一部移転を検討するなど、産業面の変化も続いている。また、富山市はコンパクトシティ政策を強化する施策の一環として、マルチハビテーション(多地域居住)に対応した住宅購入費の支援事業を始めており、数例の利用実績がある。

    整備新幹線の開業をめぐっては「どのような指標に基づき、どのような空間的スケール・区分を単位として、誰をステークホルダーと位置付け、何をどう論ずるべきか」という整理が必ずしも確立しておらず、筆者自身もその整理に到達できずにいる。しかし、鉄道の利用動向や観光客の入込数といった既存の統計的指標にのみ依拠するのではなく、フィールドワークなどに基づく、都市や駅勢圏を基本単位とした観察・調査、さらには新幹線を利用しない住民のマインドも考慮した検証作業の重要性をあらためて確認できた。 なお、長野市では、九州新幹線沿線の鹿児島市、福岡市と同様、駅周辺の開発が進展する一方、既存商業地区との競合が激化しており、「駅ナカ」「駅直近」への商業集積が、まちづくりに及ぼす影響について、あらためて論点整理が必要な状況を確認できた。
  • 中口 毅博
    セッションID: 306
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    本研究は統計データを用いて日本の市区町村を類型化した上で、住宅都市の環境特性、すなわち、再生可能エネルギー設備容量、1人あたりCO2排出量、通勤・通学時の自家用車利用率、ごみ資源化の種類数、下水道処理率、環境パートナーシップ組織の組織率、環境教育実践率の特徴を明らかにすることで、住宅都市の環境政策の課題と今後の方向性の検討に資することを目的とした。
    住宅都市の定義は、①住居系用途割合が2割以上、②昼夜間人口比が0.9以下(=昼間の人口流出が夜間人口より1割以上多い)の2つの条件を満たすものとした。また、比較の対象として「農林業都市」「工業都市」「商業都市」の分類を行い、その際の指標として1次産業、2次産業、3次産業の従業者の全従業者に占める比率の偏差値を算出し、偏差値が60以上の当該類型とした。
    その結果、住宅都市は136市区町村となった。その分布は図1に示すとおり、3大都市圏に集中している。人口密度は、全国平均1,531人/km2に対し住宅都市は4,655人/km2と最も高い。平均年齢は、全国47.6 歳であるのに対し住宅都市は44.3 歳で最も若い。2005~2010年の人口増減率は日本全体で-2.9%減少しているが、住宅都市は1.5%の増加である。以下住宅都市の環境特性を述べる。
    宅地率は全国平均7%%であるのに対し、住宅都市は36%と最も大きく、次に大きい商業都市の11%に比べ3倍になっている。 面積あたりの再生可能エネルギー期待可採量は全国平均が1,456GJ/km2であるのに対し、住宅都市は358GJと他の都市類型と比較しても最小となっている。1人あたりCO2排出量をみると、全国平均が9.6t/人であるのに対し、住宅都市は5.3 t/人とおよそ半分である。通勤・通学時の自家用車利用率は全国平均が63.6%であるのに対し、住宅都市は36.8%と小さく、他の類型と比べても最も小さくなっている。1人1日あたりごみ排出量は全国平均が892g/人日であるのに対し、住宅都市は822 g/人日と最も小さい。下水道処理率は全国平均が78%であるのに対し、住宅都市は92%と最も高い。環境パートナーシップ組織の組織率は全国平均が28%であるのに対し、住宅都市は42%と最も大きい。環境教育実践率は全国平均が18%であるのに対し、住宅都市は28%と商業都市と並んで大きい。 


  • 澤田 康徳, 秋元 健作
    セッションID: 615
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    目的:近年,高温傾向が認められる夏期について,生活行動などと密接な気温分布は多数の研究がなされている.関東地方の気温分布は,夏期に明瞭な海陸風(藤部 1993)や強雨発現(藤部ほか2002;2003)などに関連して示されている.降水に関連し,都心では降水終了後の約2時間で2℃程度の気温低下が認められる一方(長岡・藤原 1941),関東地方は降水を発現させる擾乱の性質や降水強度・頻度も地域的に多様で,降水発現時の気温低下に地域性が現れる可能性が考えられる.しかしながら,気温分布について,晴天以外は都市ヒートアイランドに着目した曇天時が主体で(榊原・三枝 2002),関東地方の降水時/無降水時における気温分布の地域性は明確ではない.本研究では関東地方における夏期降水発現時の気温分布および気温低下の地域的特徴を明らかにする.さらに,降水事例の間隔を考慮した降水発現に至るまでの気温の解析も踏まえ(藤部ほか2002,澤田・高橋 2007),降水発現後に無降水日における気温に対応するまでの時間経過を吟味しておく.

    資料2010~2014年の夏期(7,8月)を対象とし,降水発現時の気温低下幅の把握にアメダス10分値(4要素)を用いた.欠測は最大で1.5%(鹿島)であり,すべての観測地点の資料を用いた.降水発現時と無降水時は全事例,気温低下の時間変化は対流性降水事例(76事例:領域平均日照率≧80%,12~24JSTに発現し地点周囲で無降水)によった.そして,対流性降水日と領域晴天日(計14日:0~24JSTの全域で無降水,領域平均日照率≧90%)の気温差の時間変化(降水発現前2時間~発現後8時間)に対してクラスター解析(ward法)を施した.

    結果:無降水時と夏期平均気温との差は,降水頻度の多い北部山岳域山麓で大きく沿岸で小さく(図1),平均気温の高低に降水頻度の多寡との関連性が大きい(図2).ただし,無降水時と降水発現時との気温差は,広域高温に対応し(図3B)都心~平野北部で明瞭である(図3C).事例ごとの降水発現時の気温は,北部は発現地点数が広領域の事例は少なく気温も比較的高い一方,発現地点数が少なく気温の高い事例が多い(図4A).都心を含む南部は広領域で低温な事例が多いとともに,発現地点数が少なく高温な事例も多く(図4B),降水発現時の気温の標準偏差が平野北部(2℃)より大きい(2.4℃).平野北部は対流性降水事例が高頻度で,正午以降~日の入り前までに発現する事例(Ⅲ,Ⅳ)では,発現時前1時間の日照時間は気温低下に先立って減少し,その後の気温低下幅が大きい(3℃低下).また,発現後5~6時間で領域晴天日の気温の日変化と対応している(図5).夜間に発現した事例は(Ⅰ,Ⅱ)低下幅が小さいが,全対流性降水事例で降水発現前10分と降水発現時との気温差は,降水強度と関連し0.9~3.4℃低下する.日照のない夜間を含み降水強度の大きい場合にさらに低下幅が大きい.南関東では夜間および日中でも広領域降水発現時に強雨が多数発現する.南部では日中の日照時間の低下だけでなく,夜間および広域曇雨天で降水発現前の低温時に強雨に伴った気温低下が大きく,降水発現時の気温の標準偏差が平野南北で異なる領域を形成している.
  • 高等学校の新必修科目「地理基礎」実施を念頭に
    伊藤 智章
    セッションID: 204
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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       地理Aの「自然環境と防災」の単元で、3年生10名で50分間の授業を行った。教科書(二宮書店:「新詳地理A」)が事例として紹介している長崎県島原市(1991年6月の雲仙普賢岳の火山災害)を使い、主に火砕流と土石流の到達範囲およびそれに伴う被害とそこから得られる教訓を地図から読み取らせた。
      生徒はまず、対象地の地形図に色を塗り、指示された場所を探して印をつける。その際、手元には、同じ場所のカラー版の地形図(地理院地図)と、GIS標高の凹凸を強調した「スーパー地形」図をタブレットで参照させた。
       読み取らせた事象は、噴火口の位置、火砕流および土石流の到達範囲(砂地で表記され、植生がない)、 被災した集落(地名のみで人家がない、災害にちなん だ地名が付与されている)、被災後に設けられた施設(砂防施設、埋め立て地など)である。生徒は教員の指示に合わせてタブレットの地図を切り替え、拡大し、地図に埋め込まれた写真を見るなどしながら地図を塗り、意見を出しながら学習を進めることが出来た。
       限られた授業時間の中で読図作業を行わせる上で、報告者はこれまでプロジェクタで地形図の画像や立体鳥瞰図を提示して授業を行って来たが、タブレットコンピューターを用いることで、よりスムーズに読図指導ができ、「地図から読める事柄をもとに考えさせる」ことに集中できた。
       2016年から改訂作業が始まる次期学習指導要領(高   等学校では2022年度入学制から実施)では、必修の新科目「地理基礎」が設置される。GISを使った探究型の学習が目玉になっているが、現場でのGISの普及が進んでいない上、地理を専門としない教員が指導にあたる際、内容の質を担保できるか課題になっている。    
       本報告で作成した教材は汎用性が高い上、フィールドワークや探究学習への応用も期待できる。読図指導に自信のない教員をサポートし、「地図を読み、地域を見る」指導の面白さを浸透させる為の重要なコンテンツとして位置付け、今後も改良と普及を図りたい。
  • 中田 高, 後藤 秀昭, 堤 浩之, 宮内 崇裕, マッピング チーム
    セッションID: P1021
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
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    筆者らは,フィリピンの内陸地震発生予測精度の向上の基礎資料として, IfSAR(干渉合成開口レーダー)より新たに得られた5mグリッドの数値地形モデル(DTM: Digital Terrain Model)をもとに立体視可能な地形画像を作成し,この判読によって,活断層,海成段丘,地すべり地形などの過去の大地震に関連する地形の詳細な分布をフィリピン全土にわたって同一基準・高精度で包括的に解明し,新たにフィリピン全土の包括的な変動地形学図を作成する研究に着手した.本発表では,ルソン島および周辺の島々の活断層の判読結果を予察的に報告する.
  • 松岡 由佳
    セッションID: 108
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/09
    会議録・要旨集 フリー
    Ⅰ 研究の背景と目的
     
    地理学からの精神障がいへのアプローチは,欧米諸国における脱施設化の動きと連動しつつ,視点や手法を変化させてきた.1970年代頃から始まった生態学的視点と空間科学的手法に基づく研究は,1980年代以降,質的手法によって「差異」の社会的構築を描き出す方向へとシフトした.後者のようなミクロスケールの研究は,障がい者の声を掬い上げる一方で,施設などの限定的な空間へと議論が偏重する傾向にある.精神障がい者の地域移行が急務となっている今日,地域へと研究のスケールを拡張し,地域固有の文脈を踏まえながら,そのあり方を考察する必要がある.以上の問題関心に基づき,本研究では,精神障がい者の就労・生活支援の事例から,「地域」の意味を明らかにする.
    Ⅱ 対象地域と方法
     
    対象地域として,東京都八王子市・多摩市を設定した.選定の背景はⅢで詳解する.事例とするNPO法人多摩草むらの会(以下,草むらの会)は,多摩ニュータウンを中心に,利用登録者363名(2015年8月現在)に対して複数の就労・生活支援を展開する,都内有数規模の事業者である.同会の就労支援事業所2か所(農業・飲食事業)とグループホームに着目して,2015年8月~12月にかけて断続的に調査を行った.利用者および職員に対する聞き取り調査と併せて,参与観察や全利用者へのアンケート調査(回収数160票,回収率44%)を実施し,語りや自由記述を分析した.
    Ⅲ 脱施設化と支援ニーズの高まり
     
    脱施設化の動向把握にあたり,精神科病院の立地と精神病床数を検討した.都西南縁における精神科病院の偏在を指摘した古山・土肥(1997)以後の状況を明らかにするため,1990年と2010年の2カ年について,区市町村ごとに統計値を比較した.病院数や立地に大きな変化はみられなかったものの,病床数は都全体で2千床以上減少し,市部の病床減少率は八王子市で最大,多摩市がこれに続いた.対象地域では,病床減に伴い,退院者を中心に支援ニーズが増加していることが予想される.実際に,草むらの会利用者の6割以上が精神科入院経験を有しており,両市におけるグループホームの整備状況もこの点を裏付けている.
    Ⅳ 利用者・職員の語りからみた実践
      
    体調の変動や生活リズムの乱れから安定した活動が難しい利用者にとって,事業所は「地域」の中の貴重な「居場所」となっている.しかしながら,利用者同士の付き合いには距離があり,一般就労可能な者とそうでない者との間の差異を生み出してもいる.グループホームは,家庭的な拠り所を失った利用者に「擬似家族」的な関係をもたらしていた.家庭の事情や利用期間の定めから利用者の多くが自立を迫られる中,こうした居場所は,「地域」からの退避という「シェルター」の役目を一時的に果たすに過ぎない.
    Ⅴ 就労・生活支援をめぐる「地域」の意味
     
    利用者にとって,「地域」は,就労・生活支援の場という「内」の世界に対する「外」の世界として存在する.それは,「健常者」を中心に構成された社会・空間であり,「障がい者」との二項対立的な分断を強化し,再生産している.景観を伴う実体ある地域へと立ち戻り,「内/外」の隔たりを超えた支援のあり方を模索していくことが求められる.
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