日本地理学会発表要旨集
2016年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 116
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発表要旨
明和6(1769)年における米沢城下のGIS分析
渡辺 理絵角屋 由美子*小野寺 淳小橋 雄毅
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抄録
本研究は,明和6(1769)年の城下絵図を中心資料とし,GIS分析を通して18世紀後期の米沢の空間構造に関して知見を報告することを目的とする. 江戸時代2度にわたり,米沢の城下町は大幅な拡張をみせた.一度目は,関ヶ原の戦いの後,敗者となった上杉景勝が,米沢30万石に減封に処せられたことによる.この時,景勝は120万石時代の家臣の多くを召し放すことなく米沢に移動させた.その数は5000~6000人とも伝えられる.米沢は,すでに伊達氏や蒲生氏によって米沢城とその城下町の素地が築かれていたが,景勝はそれを大幅に拡張し,家臣の収容に徹した.しかし三の丸を拡張しても城下に収容しきれなかった下級武士は,城下郊外に分散的に配置され,彼らは原方衆と呼ばれた. 次に城下拡張がみられたのは,寛文4(1664)年である.跡継ぎのないまま亡くなったため断絶の危機に陥った上杉氏は,30万石から15万石での減封で存続が叶った.その際,召し上げになった伊達・信夫両郡(現福島県)の家臣の大半は米沢に収容された.その数は5000人以上とみられる.正保期と元禄期の絵図を比較すると武家地は13町増えており,収容された家臣数の多さを物語る.こうして米沢は藩の石高に比して武家人口が極端に多い城下町となった.城下の規模も石高に比して大きく,城下町の地区構成も武家地が際立っている. 城下町の構造を視覚的に示す城下絵図は,米沢に複数現存する.その多くは米沢市上杉博物館と市立米沢図書館が所蔵する.この中に,明和6年「御城下絵図」(市立米沢図書館所蔵),「諸奉公人屋鋪絵図南原五町・六十在家・長手新田」「諸奉公人屋鋪絵図花沢八町・山上三町・橋本町共」(以上,米沢市上杉博物館所蔵)の絵図が含まれる.これらは,城下に加え原方衆の居住地までを描いた初めての絵図であり,米沢藩における城下絵図制作の画期と言える. 本研究では屋敷データについては明和6年「御城下絵図」を、属性データについては家臣の身分と家禄を記した『御家中諸士略系譜』を採用した.ただし,系譜は上・中級家臣のみであり,下級家臣(三扶持方以下)については記載がない.そこであわせて「安永二年分限帳」(上杉文書958)・「寛政五年分限帳」(米沢市史編さん委員会編1980)を参考とした. この結果,城下絵図に記載の侍屋敷数4345ポリゴン(下屋敷なども含む)のうち,身分が判明したのは1499家であり,家禄が判明したのは1491家であった.判明した数が約3割にとどまっているのは,そもそも扶持・切米取を含めた全家臣を網羅した資料が乏しいためである。知行取と扶持・切米取の両者の人数が判明する寛文9(1669)年では,知行取903人,扶持・切米取4258人に及ぶ(藩政史研究会編1963).今回,おおむね家禄が判明した例は,おもに知行取であり,扶持・切米取の導出は困難であった.換言すれば,米沢城下の,とくに堀立川以西および原方に収容された家臣は扶持・切米取によって構成されていたことを示唆している. 図1は家禄を階級区分し,城下における家臣の配置について図示したものである.家禄の少ない家臣は城下西部から南部にかけて多く分布し,本丸から遠い位置にあることがわかる.家禄の多い家臣は,三の丸の東から北にかけて集中する傾向がみられる.原方を含めた詳細は,当日報告する。本研究は平成26~28年度基盤研究(A)「GISを用いた近世城下絵図の解析と時空間データベースの構築」(代表:平井松午)による.
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© 2016 公益社団法人 日本地理学会
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