抄録
Ⅰ.研究目的・方法
近年,地理学,歴史学,建築学,社会学等多分野において戦後期の盛り場に関する研究がおこなわれている.これは戦後期の盛り場がその後の都市社会の成立において大きな役割を果たし,現在にいたるまで残存・発達するなどしていることから,その重要性が再認識されているためである.しかし,盛り場に関する研究は政策の変遷や盛り場外部の住民に着目したものが多く,外部からの視点にとどまっている傾向にある.盛り場としての特性を明らかにするためには,盛り場内部の人々に注目することが必要であると考えられるが,そうした研究は史料的制約等からこれまでほとんど研究蓄積が見られない.
研究対象地域の横浜は戦後期における一大都市であり,全国各地からの人口流入がみられた.これは横浜の「都市としての魅力」に惹かれて人々が集まった結果といえる.一方で,戦後期の横浜は一大盛り場でもあり,横浜の「盛り場としての魅力」に惹かれて集まった人々も多く存在した.横浜の「都市としての魅力」を明らかにした研究はこれまでにも多くみられるが,「盛り場としての魅力」に注目 した研究はほとんどない.
そこで本研究では,戦後期における盛り場としての横浜の特性を,盛り場内部の娼婦の視点から明らかにする.具体的には,どのような背景を持つ人が,どのような理由で,売春をする場所として横浜を選んだのかという分析を通して,1945~1957年における横浜の盛り場としての特性を明らかにする.
Ⅱ.研究手法
使用する史料は,神奈川県婦人相談所の「娼婦2,530人面接調査(1952~1954年)」および「婦人保護台帳(1956~1957年)」である.神奈川県婦人相談所は1950年に設置された娼婦の更生相談を目的とする全国初の施設で,婦人保護台帳は娼婦一人ひとりに対する家庭環境や売春をおこなうまでの経緯,状況などの聞き取り調査結果が詳細に記録されている.本研究ではこの史料を用いることで,従来は困難であった娼婦自身の経歴分析をおこなうことが可能となった.
Ⅲ.分析の結果
戦後期における盛り場としての横浜の特性は,日本人労働者や駐留米兵といった顧客の絶対数が多いこと,更に高所得の顧客が多いことである.また,戦前から存在する遊廓が基礎となっていることから,盛り場の範囲が広く規模が大きいこと,それに対して警察の取締が追いついていなかったことも特徴である.これらの要因によって,横浜においては娼婦が売春宿などに所属せず街娼になるという選択が可能となり,自由業的に売春をすることができた.その他にも,交通の便が良いこと,大都市である横浜に対して漠然とした憧れの気持ちを持つ女性がいたことなども,横浜に娼婦が集まった要因として考えられる.
以上のことから,戦後期の横浜は,娼婦が自身の意思決定に基づいて売春の形態を選択できる場所であり,娼婦にとって性的自己決定権を行使しやすい場所だったと考えられる.また娼婦の移動パターン分析から,横浜には全国の広い範囲から娼婦が集まってきていることがわかったが,これは上記のような横浜の「盛り場としての魅力」が強かったためであるといえる.