抄録
【はじめに】2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震で発生した巨大津波やこれにともなう津波火災等によって,岩手県山田町では,800人を超える死者行方不明者が発生し,町内の家屋のほぼ半数に及ぶ約3400棟が流失や焼失等で全壊する等,甚大な被害が生じた。この東日本大震災の発災以降,応急対応期や復旧期を経て,「復興」期を迎えているものの,震災関連死認定者や非認定者を含めてさらに多くの方々が亡くなりになり,また仮設住宅に居住し続ける方々がまだまだ多く存在し,本来の復興までにはさらに長い歳月がかかると考えられている。発災から5年を経た現在,当時の避難行動等を語ることができる精神的な状態に落ち着いた被災者も増え,当時の記憶や体験を後世に伝えるための情報を収集することが比較的容易になった。
一方,南海トラフ地震による甚大な被害が想定される西日本の太平洋沿岸等,日本の諸地域では,東日本大震災を顧みての防災体制や防災教育等の強化が求められている。しかしながら,発災から避難所までの応急対応期の混乱した実態は十分に把握されているとは言い難く,今後も資料の収集等を継続する必要がある。
現在,東日本大震災の被災地各地で「震災・復興記録の収集・整理・保存」が進められている。これは,東日本大震災復興交付金制度による事業として基礎自治体が主体的に実施していること以外にも,前述した「発災から5年を経て被災者が『話せる状態』になった」ところが大きい。「津波常襲地域」である三陸沿岸のほぼ中央に位置し,この地域の地形的特徴である「湾-半島」の組み合わせが存在する岩手県山田町でも「東日本大震災記録伝承事業」が進められ,「避難」の部分を地理学関係者が中心に担当して,地域性との関連も含め,避難行動と避難生活を詳細に解明し,より客観的な記録として伝承しようとしている。
従来の地元自治体による災害記録の大半は,地区別の被害統計,消防の出動記録等の表をならべ,断片的な被災者談話等を付したようなものが多く,「被災に至った経緯」をきちんと辿れるものは少なかった。また,ごく最近の『災害アーカイブ』では,電子的情報格納容量の増大という技術的な進歩にも支えられているものの,精粗さまざまな一次情報が未整理のまま羅列される例も出てきた。いわゆる「網羅的収集」がそのまま反映されたものであろうが,災害記録の有効な「利活用」を考える場合,一定の視点からの記録の「整理」が必要になるであろう。
【山田町の「震災記録誌」】山田町では,三陸沿岸の他の市町村と同様に,明治以降4回の大津波に襲われた。明治29(1896)年の明治三陸大津波,昭和8(1933)年の昭和三陸大津波,昭和35(1960)年のチリ地震津波,平成23(2011)年の東日本大震災大津波である。一方,明治以降の町の津波被害を扱った主な記録として,『山田の津波-明治二九年の体験を中心として』(1973年,山田町ユネスコ協会刊),『山田町津波誌』(1982年,山田町教育委員会刊)があり,今回の震災では,写真集『あの日から明日に向かって-東日本大震災山田の記録』(2013年,伝津館・山田町大震災記念誌編集委員会刊)と『3.11百九人の手記-岩手県山田町東日本大震災の記録』(2015年,岩手県山田町/山田町東日本大震災を記録する会)が出版されている。
今回の『震災記録誌』(2016年,「山田町東日本大震災記録誌編纂事業」)では,震災から今日までの客観的な記録・データを収集し,体験者の証言や生の声をできる限り生かして真に「血の通った」記録誌の制作を目指してきた。また「ジャーナリスティックな視点とアカデミックな知見」を柱とし,後者を補強するために,筆者らは,総合的な調査を鋭意進め,「地理学的な視点」から時空間スケールを意識して避難行動や避難生活を検証しつつ,「被災に至った経緯」の解析を行ってきた。そして,我々が担当した「避難」に係る章では,①山田町における震災時の死亡者数や避難者数の推移,②津波による海岸構造物の破壊と地形・地質との関係,③個人の避難行動と体力や微地形との関係,④避難所での食や心理と生活環境等について,人口学,地形学,健康地理学,食物栄養学,社会心理学等の多角的な視点から総合的に考察し,発災から応急復旧期までの震災初期の一連の諸現象を,地理学の学問的な複合性を駆使して「震災記録」の一例としてまとめてきた。
【シンポジウムでは】 本シンポジウムでは,「震災記録誌」の「避難」の章の全体像を把握してもらうために,上記①~④の各論的な発表があり,整理された「震災記録」としての特性が明示され,かつそれぞれに有識者からコメントを頂く。総合討論では,被災地各地で進められている「震災・復興記録の収集・整理・保存」と「利活用」のあり方を考えたい.