日本地理学会発表要旨集
2016年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: S0502
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要旨
岩手県山田町における津波被災地の土地条件とその改変
*瀬戸 真之田村 俊和岩船 昌起
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抄録
こでは,山田町での発災から避難行動,避難生活までの実態を記録する際に基礎となる,津波の強度や各被災地の土地の特徴について,日常気づかれ難い点も含め,まとめて記す。   1.来襲した津波の概要  山田町一帯の湾外には, 地震の二十数分後から高い津波が到達し始めたとみられる。到達した津波の最大高は,湾口部の幅や深さ,それが開く向き,および湾の広がり等に大きく左右され,さらに湾岸の地形や構造物によって狭い範囲でも異なった。山田湾岸では,南部でやや高いがほとんど10m以下であったのに対して,船越湾岸では16~18mと高かった。このため船越地峡を南から北に向かう越流が生じた。また,山田・船越湾外の東ないし南東に直面した海岸では津波高が高く,船越半島南岸の小谷鳥では30mに達した。   2. 海岸付近の地形と地質  山田町を含む三陸の海岸には,礫浜や砂浜と海食崖とが繰り返している。浜の地下には,最終氷期の低海水準時に形成された埋没谷と,海水面が現在に近い高さになった数千年前以降に形成された埋没波食台とが認められる。埋没谷には,現海面下約30~20mより深いところに礫を主体とするI層(1万数千年以上前の河成堆積物)があり,その上位に,砂や泥を主とするII層(その後海面が急上昇した時代に河川下流の低湿地や浅い海底などに堆積)が,現海面下10~5mあたりまで続いている。さらに上位に厚さ数m~十数mの砂礫層(III層:最近数千年間に波打ち際付近や河川沿いに堆積)がある。埋没波食台では,厚さ数mのIII層が基岩(一部を除き花崗岩類)の風化層を直接覆っていることが多い。埋没谷でも埋没波食台でも,III層の上位を厚さ1~数mの人工的な盛土層が覆っている(図1)。 I層はN値が50を越えるが,II層の一部には,N値10以下の軟弱な部分が多いので,それが厚い埋没谷の上では,埋没波食台の上より地震動が増幅される傾向にある。また,地下水位は,海岸にごく近い範囲では海水面とほぼ同じ高さにあり,地表下1~数mより下はいずれも常に飽和しているとみてよい。この条件下で強震時に液状化する可能性のある地盤は,II層,III層及び盛土層の一部にある。浜の背後には,最近数千年間に海岸や河川沿いに小さな平野や湿地が形成されている。浜と平野とをあわせた低地の幅は,大きな河川沿い除き,ほとんど300m以下である。平野の周囲や海食崖上の一部には,花崗岩風化層の上に角礫まじり粘土層が載った山麓緩斜面が発達している。   3.地形の人工改変 海岸線のうちには,おそらく明治時代から,小規模な接岸施設が作られていたところも多い。山田湾南東部の大浦等では,海食崖基部を削り,波食棚上に小規模の盛土を行って,人家や船着場を設けていた。山田湾北岸の大沢地区の一部では,第二次大戦末期に海軍施設設置にともない海岸が多少改変された。漁港の岸壁・防波堤や防潮堤等が整備されたのは,多くの場合,チリ地震津波(1960年)の後である。浜と背後の小平野にあった集落は大津波のたびに大きな被害を受け,周囲の山麓緩斜面上や低い尾根の先端,小開析谷の出口等に移転しながらも,船越湾北西岸を除き,やがて海岸付近に戻ってきて,再三にわたり被災した。大沢地区北西部や船越半島西部の田ノ浜の山麓部には,1933年の津波の後に移転先として造成された人工平坦面(数ha)がある。斜面の花崗岩風化層が,人力による切土・盛土を容易にしたとみられる。山田中心市街地は,主として1960年代以降,平野部の盛土により,次いで周辺の低い尾根を削り小さな谷を埋めて,拡大した。防潮堤は,ほぼすべての浜でチリ地震津波の後に順次整備され,その高さは,山田湾岸の大半で4m,船越湾岸では8.4m,小谷鳥では8mであった。今回の津波で,これらの防潮堤はほとんど越流され,転倒・流失した箇所も多い。防潮堤破壊が,その前面での構造物の有無や,基礎が置かれた地盤等と関係しているとみられる例がある。なお,関口川河口付近には,堤防が途切れる区間があった。
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