抄録
はじめに
近年,環境保全型の農業技術がアジア諸国でも導入されているが,普及が順調に進まない事例が多く報告されている。本研究では,Alternative Wetting and Drying (AWD)と呼ばれる節水型の水田灌漑技術に着目し,その普及状況から地域と農業技術の結びつきを検討し,普及への課題を明らかにした。AWDは,イネの播種後の活着期と開花期を除いて間断灌漑をおこなう技術であり,これにより収穫量を減ずることなく水使用量を30%減らすことができる。AWDは,国際イネ研究所(IRRI)によって普及が試みられてきたが,ベトナム・メコンデルタ・アンジャン省(A省)を除けば普及は進んでいない。本研究ではA省チャウタン(ChauThanh)県ビンホア(BinhHoa)社の21世帯を対象にAWDの普及状況の調査をおこなった。
再発明
予備調査において,A省で実践されるAWDは,IRRIが提唱した標準AWDとは異なることが明らかになったため,分析では「再発明」という概念を導入した。再発明とは,新しい技術が採用と実践の過程で実践者によって修正される度合いのことを指す。A省でのAWDの実践で再発明が生じた背景を探ることを通して,地域と技術の結びつきをめぐる課題を考察した。
A省の農業とAWD
コメ輸出大国であるベトナムのなかでもA省は主要な生産地の一つである。温暖なメコンデルタでは水条件さえ整えば一年を通して水稲栽培が可能である。A省の年間降水量は1,300mm程度であるが大部分の降雨は5-10月の雨季に集中する一方で乾季(11-4月)にはほとんど雨が降らない。そのため1950年代以前は雨季に発生する洪水を利用した浮稲の一期作が主体であったが,1960年代からは水路整備と改良品種の導入によって洪水時期を除いた二期作が可能となり,2000年以降は洪水を防ぐ堤防とポンプ(ダイクシステム)の導入が進んで三期作が可能となった。集約化に伴ってコメ生産量は増加したものの,生産コストも増大したために農家の収入はあまり増加しなかった。そこで水利コスト削減を目的として2005年からAWDの普及が進められた。その結果,AWDの普及率は,2009年乾季には18%であったが,2013年乾季には47%にまで拡大した。一方で,実践されるAWDと標準AWDでは以下のような差異(再発明)が生じていた。
(再発明1)水深計測パイプの不使用
標準AWDでは,適切な給水時期を知るために穴を開けた塩ビパイプを埋設して地下水位を計測することが推奨されてきた。しかし「煩雑」という理由でパイプの使用しない世帯がほとんどであった。導入初期だけパイプを用いて給水時期を理解し,以降は土壌表面の状態で判断している世帯が多かった。また,水管理に関する聞き取りでは,圃場ごとの給水間隔は,圃場面積が大きくなるごとに短くなる傾向を示していた。圃場が大きくなると地表面の凹凸が生じ,圃場内部の乾燥と湿潤の差異が生じ易くなる。その影響を割けるため,大きな圃場では早めの給水を心がけている可能性が考えられた。その場合,一箇所に設置したパイプよりも圃場全体を直接観察する手法の方が,適切な給水タイミングを知るうえで適していたと考えられる。
(再発明2)雨季におけるAWDの実施
AWDは節水技術として開発されたが,A省では乾季と同様に雨季にもAWDが実施されていた。雨季にはダイクシステムのポンプによって定期的な排水がおこなわれており,ダイク内の水路水位が低下する。農家はこの時に水田の水門を開いて過剰な水を排出することでAWDを実施していた。雨季のAWDは灌漑費用の節減にはならない一方で,ほぼ全ての世帯がコメ生産量の増加を指摘した。常時湛水された水田では土壌の酸化還元電位が上昇し,硫酸塩が還元されて硫化水素が発生し,根腐れが生じ易い。特にメコンデルタでは広く酸性硫酸塩土壌が分布しており,顕著な根腐れも報告されてきた。この状況に対して雨季のAWDは,土壌の酸化還元電位を低下させることで根腐れの抑制しているのではないかと考えられた。
まとめ
A省ではAWDの順調な普及が報告されてきたが,その実践は標準AWDの手法とは異なっていた。農業技術は,地域の生態条件や社会状況と大きく関連しており,それゆえに普及の過程で再発明を受け易い。一方で近年は,環境親和的な技術の普及を推進するために技術認証制度が注目を集めている。技術認証制度では,実施に応じた補助金が支給されるが,そこでは推奨された技術内容の正確な実施が求められる。今後の農業技術の普及では,技術の再発明と認証制度との接点をどのように見出していくのかが課題になるのではないだろうか?