日本地理学会発表要旨集
2017年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 302
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発表要旨
大阪市役所に現存する明治の地籍図
*古関 大樹
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抄録
はじめに
大阪市役所建設局測量明示課には,「民有地図」と呼ばれる地図資料群が残されており,大阪法務局にも複本が断片的に保管されている。その存在は,一部の研究者に知られており,松口・吉田(1996),岡本(2006)などが街区を詳細に分析するために利用した。これらの研究では,『第一次大阪都市計画事業誌』(1944)の記事をもとに,明治9年(1876)の市街地租改正の丈量の成果を基にしていること,縮尺は1/300で6尺竿が利用されたこと,3部製作されたことなどの基本的性格が示された。各町の「民有地図」には年紀がないが,図の題では明治4年~11年の大区小区制の表記がみられ,地租改正地引絵図が伝来したものと評価できる。
地租改正事業では,市街地・郡村地・山林原野及び其他雑種地で異なる方法で調査が進められた。市街地の地租改正地引絵図は,戦災や災害などで失われてしまった場合が多く,基礎研究はほとんど進んでいない。大阪市役所の民有地図は,全国でも貴重な地籍図群といえるが,本発表では,地籍図としての役割に着目して基本的性格を整理してみたい。

大阪市街の地租改正
明治9年6月12日に大阪府が伝達した「市街地地租改正ノ準備調査」の前文では,縮尺約1/300の町別地図と,1/600の小区総絵図の提出が指示された(『大阪府布令集』p403)。同布達の第1条では,「丈量ハ該町ノ四方間数ヲ綿密ニ調査シテ総坪数ヲ算定シ,然ル後一宅地事ニ丈量ヲナシ」とあり,廻り検地の方法によって町の外周を図ってから一筆地の丈量が行われていたことが分かる。丈量の間数は一厘未満が切り捨て,面積の積算は1勺(1/100)未満が切り捨てとされた。第3条では,一戸ごとに地主が立ち会い境界に目標を立てること,第4条では,間竿端数に至るまで詳細な情報を野帳に記録し,今後の調査のために小区ごとに備え置くことが指示された。
大阪市街の地租改正では,道路中心杭が埋め込まれ,ここを起点に道路幅が計測された。民有地図にも道路中心杭と道路幅が記されており,丁寧な調査が行われたことがうかがえる。明治10年8月29日に「市街地位等級調査心得書」が伝達され(同p547),土地等級の設定方法が示された。12年12月1日には市街地地価の確定が報告されており(同p851),市街地租改正の完了がうかがえる。

民有地図の資料的性格
各町の民有地図は,共通した表紙が添えられており,明治22年の大阪市制成立後の北区・東区・南区・西区に分けて整理されている。道路や水路などに彩色が与えられ,各筆には地番と反別が記され,一筆地の形状に合わせて間口と奥行が記されている。一筆地の中に三斜線が入ったものもある。見通すことができない宅地の中を三斜で区切っていることから,間口や道路幅などの丈量に加えて図上計算も併用していたことがうかがえる。付箋が貼られたり,追記された土地も多いが,明治18年の地押調査をはじめ後年の変更も反映されている。
大阪市は,明治30年に市域が拡張されたが,拡張した範囲の地図も含まれている。編入地域は村の地図が基になっており,市街地の地図とは基本的な性格が異なっている。各図には,土木局道路部管理課明示係の署名がある。現在の部局に伝来した系譜的関係がうかがえるが,全国的には税務課に引き継がれている場合が多い。 大阪市街では,江戸時代から家屋の突出によって道路敷が占有された場合が少なくなく,明治30年代末から本来の道路幅への回復が図られた(岡本2006)。土木局道路部は,この頃に編成された部局である。明治9年に地租改正が行われた際にも,道路敷の占有状況は府庁内で問題視されていたが,当時は回復を果たすことができず,道路中心杭と中心線の設定に留まった。しかし,後年に地租改正地引絵図を基にして道路敷の回復が試みられたようである。その場面で活用されたことから,一括して地租改正地引絵図が現存することになったのだと考えられる。

主な参考文献
岡本訓明(2006),「近代大阪における「軒切り」の展開について」,歴史地理学48-2,pp.19-40.
大阪府史編集室編(1971),『大阪府布令集』,大阪府.
大阪市(1944),『第一次大阪都市計画事業誌』,大阪市.
吉田高子・ 松口輝久(1996),「大坂船場南部地区の町割と街区構成について」,日本建築学会計画系論文報告集486, pp. 177-186.
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© 2017 公益社団法人 日本地理学会
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