日本地理学会発表要旨集
2018年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 813
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発表要旨
奈良県下における地籍編製地籍地図
*古関 大樹福永 正光
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抄録

はじめに

 明治期に作成された地籍図には,壬申地券地引絵図・地租改正地引絵図・地籍編製地籍地図・地押調査・更正地図の5つの段階がある。このうち,地籍編製地籍地図は内務省が主導したもので,官有地を含めた土地の調査や接続村の境界画定を主な目的とした。ほかの事業は,租税改革に伴って大蔵省が主導したもので,民有地が主な対象であった。

 このように,地籍編製事業は,ほかの明治の地籍図と異なる背景で作られたが,明治23年に未完成のままに中断しており,その実態や全体像は定かでない。明治期の地籍図の作成は府県に委ねられ,時期や方法が府県ごとで再調整された。そのため,政府の方針や全国各地に残る地図の性格を知るためには,地域ごとの検証の積み重ねが不可欠となる。

 奈良県については,明治20年(1887)11月の奈良県再設置後に独自の方式で地籍編製地籍地図が進められ,明治24年に『奈良県大和国地籍一覧表』が完成したことを島津2008年が指摘している。本発表でも同じ結論を得ているが,同論文では,奈良県が伝達した布達の具体的な内容の考察は行われていない。奈良県の地籍編製地籍地図は,「実測全図」という題が与えられており,主に市町村役場に伝来している。本発表では,奈良県の地籍編製事業の展開と地図の資料的性格を検証したい。



奈良県の「地籍編纂心得書」と地籍編製地籍地図

 奈良県は明治9年に堺県に,同県は明治14年に大阪府に編入された。明治15年に大阪府下で地籍編製事業の実施が指示されたが,大和国では本格的に実施されなかったようで,明治21年に「地籍編纂心得」(奈良県訓令甲第1号,計14条,県立図書情報館蔵)が伝達された。第2条では,町村の境界は接続町村総代と戸長が立会踏査すべしとある。接続町村の署名押印を添えた境界の確認は,滋賀・京都・大阪・兵庫など,近隣の地籍編製地籍地図でも見られる特徴であり,内務省の方針によるものと考えることができる。

 第6条では,「地租改正及地押調査ノ際実地丈量セシケ所ハ,渾テ其反別ニ拠り,別ニ実測ヲ要セス」とあり,地租改正(同6~14年)や地押調査(同18~21年)の成果が流用されたことがわかる。しかし,その但し書きには「国縣道及一等二等里道ハ実測スベシ」とある。第7条や10条では,道路・堤塘・井溝・河川・官用地・官林などについて新規の土地調査が行うよう指示している一方で,民有地の一筆界や字界,地番や反別などは既存の成果の流用を認めている。官有地の調査に重点を置き,民有地は既存の成果を流用した方針も他府県で認められる。

 第10条と地図の雛型では,一筆までを描いた一村全図の作成を指示しており,縮尺は1/2000とある。11条では,本町村と接続町村の戸長・総代・測量者・製図者の署名捺印,町村境界測量着手・終了の年月,測量に使用した機械名,色分・符号の凡例,高低度の差・旧名山岳の高度を図の端に記入するようにとあるが,実見できる地図にもこれらが具体的に記されている。14条では地籍図と地籍帳を2部県庁に進達し,検査に合格した場合は,1部を下戻して町村か戸長役場に微置するとある。現在,市町村役場に伝来した地籍図には,「奈良県地籍検査済証」という角印が押され,その上に年紀が朱書きされている。これは,検査に合格した際に付されたものと考えることができる。



地籍編製地籍地図の作成者と作成時期

 明治21年の『年管内事務一件』(県立図書情報館蔵)の「地籍編纂」によると,地籍編纂請負人を募り,79名の出願者の中から技術や資金を審査し,合格者11名に各自1社を組織させ,測量技術を伝習して精巧な機械を備えて事業に従事したとある。実見できる地図にも,会社の名前が見え,トランシットやセオドライトなどの西洋式の測量器具が記されている。町村界は,特に丁寧に測量されたようで外周の測量値が細かく記されている。図の中心と町村界の複数地点を結んだ交会法による補正も行われており,現在の地形図と比べても比較的誤差が少ない。
 このように奈良県では専門家の手によって土地調査と地図作成が進められた。明治23年の奈良県引継目録(奈良県立図書情報館蔵)では,県下の大部分で地籍の検査が終了していたことがうかがえるが,他府県と比べて短期間で精巧な成果が得られたと評価することができる。

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