抄録
Ⅰ はじめに
本年,調査により測量地図技術者,福田理軒(1815-1889),治軒(1849-1888)父子に関わる資料(福田家過去帳,福田治軒肖像写真)を福田家に繋がる家より発見した。本調査によって理軒には,治軒のほか2人の息子がおり,そのいずれも測量地図技術者として生涯を閉じていることが明らかとなった。本報告ではこれらの新出資料を紹介し,測量地図技術者を輩出した福田家を通じて近代地図測量史の一端を整理する。
Ⅱ 福田家について ―金塘,理軒,治軒―
福田家は美濃国を出自とし,理軒の父太兵衛は大阪天満樽屋町にて商いを行っていた。理軒の兄金塘(1806-1858)は,家業の商いを継がず学問の道へと進むと,1829(文政12)年大阪今橋に塾を開き和算家として多くの塾生を抱える程となった。兄に続き和算や天文暦学を学んだ理軒は,1834(天保5)年大阪南本町(麻田剛立の旧邸)に和算・測量・天文を専門とする順天堂塾を二十歳で開塾する。1858(安政5)年,治軒は,はじめ父に就いて学び,1866(慶応2)年から約1年間蘭学者で鉄道技術者の佐藤政養,1870年には鉄道寮御雇のジョン・イングランド(John England)に就いて数理測量の諸法を学んだ。またその間に,神戸海軍操練所の教官,父理軒も就いた治河局測量御用掛に任じられるなど,幕府から新政府へと変わっても測量などの技術,知識の高さから登用されている。1874(明治4)年,父子は東京に移り,神田区猿楽町にて「順天求合社」を開塾,この塾は多くの測量技術者を養成した。1876年,治軒は陸軍省に出仕し,陸軍参謀局地図課の草創期を作り上げている。
Ⅲ 測量地図技術者 池上休,福田素の履歴
本調査によって理軒の子,治軒の弟として,明らかとなった人物は池上休(いこう)と福田素(すなお)である。池上休は,明治元年生まれ,母方の池上家に養子に入っている。どこに学んだかは履歴から追うことが出来なかったが,二十歳で民間に勤めた後,大阪府庁に農産地図編製のため奉職している。その後,順天求合社測量部にて嘱託を勤め,岐阜県,岡山県の県職となったのち,宮内省御料局測量課に13年勤めた。1909(明治42)年,東京府内務部土木課に河川測量のための工手として奉職し,河川台帳調製に従事し,1921(大正10)年,東京府土木課第二道路測量事務所所長として定年を迎えた。福田素は,1870(明治3)年生まれ,官立外国語学校仏蘭西語学に学んだ後,陸地測量部修技生入学試験に及第するも入学せず,順天求合社土木科を卒業している。その後,大阪府,奈良県,香川県,鳥取県に於いて地籍測量に従事し,全国各地の道路改修測量事業に就いている。1904(明治37)年,兄休に先んじて東京府内務部第二課に工手として奉職し,1921(大正10)年,東京府土木課第一道路改修事務所所長として勤めている。
今回明らかとなった休,素の履歴からは,「地図売渡し事件」の影響も見える。報告ではこの点についても整理する。また,治軒が江華島事件後の朝鮮へ赴くに際して撮影したとされる肖像写真についても報告する。
文献
渡辺孝蔵編 1989.『順天百五十五年史』順天学園
坂本守央1967.『福田理軒』順天学園出版部
佐藤侊1992.陸軍参謀本部地図課・測量課の事蹟 - 参謀局の設置から陸地測量部の発足まで.地図 30(1), 37-44