日本地理学会発表要旨集
2019年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: P021
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発表要旨
帝国日本における気象観測ネットワークの構築
朝鮮総督府 1
*山本 晴彦
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抄録
1.近世における気象観測

1874年にフランス人司祭のクロード・シャルル・ダレが記した『Histoire de L'Eglise de Coree』の序論を翻訳した『朝鮮事情(朝鮮教会史序論)』には「Climat」(気候)に関する記述が見られる。「(前略)北緯35度以北では、宣教師たちは温度が零下15℃以下に下がることを経験しなかった。しかし、北緯37度30分あるいは北緯38度以北ではしばしば零下25℃以下に下るのを経験した。(後略)」と記されおり、温度計を用いた簡易な気温観測が宣教師により行われていたことがわかる。ロシア公使シー・ウエーバーは、1887年4月から京城(ソウル)で毎日9時、15時、21時の気温、雨量、積雪、風向、風力、雷電、霧、雹、露等の観測を行っていた。さらに1889年4月からは晴雨計を用いて気圧の観測も開始しており、本格的な気象観測であったことがわかる。この3年半の観測記録はサンクトペテルブルクにあるロシア中央気象台の台長であったウイルドが発刊した気象年報にも掲載されている。海関では、朝鮮政府に雇われたドイツ人外交官メレンドルフが、ヨーロッパ人を中心に職員を雇用し、仁川では1883年6月、元山では同年10月、釜山でも同年11月に海関を開設して気象観測を実施している。また、日本領事館(釜山、仁川、元山、鎮南浦、平壌)においても気象観測が行われ、1881年からの漢城(京城、現在のソウル)の気象観測記録「朝鮮国漢城日本公使館気候経験録」については、大阪大学名誉教授の小林茂氏が紹介している。なお、朝鮮王朝の時代に実施された「測雨器」による雨量観測については省略する。

2.臨時観測所の創設と朝鮮統監府観測所・韓国政府への移管

日露戦争における軍事ならびに航路保護の目的で、1904年3月に勅令第60号を発令して臨時気象観測所(第一~第五、技手15人)を開設し、中央気象台に臨時観測課を設けて和田雄治技師が課長に就き、朝鮮での臨時観測所の開設業務を任せられた。和田は朝鮮に派遣され、位置の選定、庁舎の借入等の検討に当たり、自ら初代所長に就任した。第三臨時観測所の仁川は、事務開始が1904年4月6日で、日本居留地第四十一号 民家を借入使用し、用地買収計画を待たずに気象観測が開始している。仁川の第三臨時観測所は翌年1月1日、鷹烽峴山頂に新庁舎が完成し、移転している。1907年4月には『朝鮮統監府観測所官制』により文部省の中央気象台(臨時観測課)の所管から朝鮮統監府に移管され、仁川の第三臨時観測所を朝鮮統監府観測所に改称し、釜山、木浦、龍巌浦、元山、城津の臨時観測所を支所とする本所・5支所の体制へと改編された。しかし、翌1908年3月には『朝鮮統監府観測所官制』が廃止され、4月より韓国政府が勅令第十八号『観測所官制』を発令し、農商工部告示第六号により観測所及同附属測候所の位置・名称を定めた。これにより、韓国政府は1907年に開設した農商工部所管の京城・平壌・大邱の測候観測所、そして朝鮮統監府観測所の本所・支所を韓国政府に移管させ、仁川の観測所を本所とし、釜山・元山・京城・平壌・大邱・木浦・城津・龍巌浦の8か所の測候所を管轄する体制が韓国政府により構築された。だが、実質的には中央気象台から派遣された和田所長以下の技手によって気象業務が実施されていた。

3.朝鮮総督府観測所の創設

2年後の1910年8月には韓国併合に関する条約(日韓併合条約)により韓国が日本に併合される。9月には勅令第三百六十号『朝鮮総督府通信官署官制』が発布され、観測所は通信局所管となり、再び中央気象台の気象観測ネットワークに組み込まれ、外地(台湾・朝鮮・満洲・関東州・樺太)での気象業務が展開していくこととなる。
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