戦前の林学者・金平亮三(1882-1948)は木材解剖学を専門とし、当該分野の発展期において、木材識別技術の開発と識別実務への還元に貢献した(須藤2000)。また著、台湾・南洋の有用樹木や熱帯性植物の植物相解明に大いに貢献した。当時の林業に関連する研究者として、また、当時の知識人や研究者の流動・交流のあり方を知るうえで、興味が持たれている人物の一人である。本報告は、この金平に注目し、帝国時代の日本林業における学知の形成において、そのグローバルな人的交流がどのように形成され、学術や現場にどのような影響を与えたかを明らかにする一助とするものである。
台湾における初期の植物・植生研究としては、1890年代、栗田萬次郞、田代安定、牧野富太郎、早田文蔵などが個別に現地で調査・採集し、目録などを発表していた。しかし木材の樹種の識別同定を必要とする現場や業界では、樹木種を網羅し視覚的に理解できる図鑑的なのがより有効である。金平の台湾時代の植物誌編纂は、林業試験所の用務の一環として取り組んだことが窺える。一方、南洋の植物については、台湾総督府着任後まもなく東南アジア〜ミクロネシアの有用植物調査に派遣されたことが、後の九大時代におけるニューギニア〜ミクロネシアにおける植物誌研究の素地となっている。200種を超える新種記載を含め、10万点近いさく葉・果実・材鑑のコレクションは世界的に知られており、台湾・九大時代の知見を総括した植物誌は現在も評価が高い(金平1933)。
金平は、1907年の私留学から九大時代に至る度重なる国外視察や調査の過程で、多くの国外研究者らとの交流・通信し、協力や影響を受けていた。例えば金平は、1917年にアーノルド植物園のウィルソンの台湾調査に同行することにより、標本の充実と収蔵庫整備、およびより優れた植物誌編纂を決意している(金平1936)。本研究では、このような他国の研究者からの協力や幅広い交流は、金平の研究者としての質の高さのみならず、その人となりも大いに影響していることが示唆された。