日本地理学会発表要旨集
2020年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: 804
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発表要旨
植民地台湾における手押台車軌道の発展過程と地域社会において果たした役割に関する検討
―台湾軌道株式会社を事例に―
*廣野 聡子
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抄録

1.はじめに

植民地台湾の鉄道網は、総督府鉄道が総延長883kmを経営していたのに対し、私設鉄道営業線の総延長が543km、私設軌道が1327kmとなっていた(1930年時点)。日本がかつて支配した外地(朝鮮・台湾・樺太)における鉄道ネットワークは、鉄道延長に対する運営主体の割合で内地・朝鮮・樺太では国有鉄道が6〜7割を占めるが、植民地台湾の鉄道運輸は私設鉄道の割合が高い点、また全体に占める軌道延長の割合が4割を超えている点が大きな特徴である。

植民地台湾における先行研究は、主に台湾総督府鉄道に関するものが中心であり、地域交通に関する検討はほとんどなされていない。本研究は特に台湾で特徴的に発達した軌道に着目し、台湾各地に路線を持った台湾軌道株式会社の軌道について検討することを通し、植民地台湾における地域交通発展の過程と地域社会とのかかわりを考察することを目的とする。

2.植民地台湾の鉄道ネットワーク

植民地台湾において、鉄道とは機関車を動力としたもの、軌道とは動力を用いない(多くが人間がトロッコを押す人車軌道であり、手押台車軌道とよばれた)ものを指す。

植民地台湾の鉄道網は、基隆と高雄を結ぶ縦貫鉄道が台湾総督府によって建設され、段階的に東部方面へ延伸されていった。また南部を中心に製糖鉄道が発達し、プランテーションのない地域には手押台車軌道が張り巡らされていた。植民地台湾において専業で鉄道事業を営む私設鉄道会社は2社に留まった。特に、台北で総督府鉄道と同様の規格(軌間1067mm)で敷設された台北鉄道は炭鉱開発と台北の市街地拡大を背景に、総督府の全面的な支援のもと資本金100万円で設立され1921年に開業したが、建設・開業が第1次大戦から戦後不況に跨ったため、建設費が高騰した一方、開業後の利益が予期したものとならず、経営状況は極めて不良であった。

加えて、島の3分の2が丘陵地・山岳で、可住地は南北に延び、かつ中央山脈から東西方向に流れる大河川によって平野が分断されて営業範囲と路線距離が狭い範囲に限定されるため、製糖鉄道を除き植民地台湾において専業私設鉄道敷設の機運は高まらなかった。そのため、1910〜30年代初頭までの地方交通は主に手押台車軌道が担っていた。

手押台車軌道は建設費用が鉄道の1/30ほどで済み、在地民間資本の参入が容易であったため、台湾系資本・日系資本の双方が参入し、1910〜30年代にかけて特に台湾西半部に広く普及し、1920年代半ばから1930年代初頭にかけて路線延長では官設鉄道を超え、地方交通の要となっていた。

3.台湾軌道株式会社の路線と地域社会

台湾島内の各地に路線を持った台湾軌道株式会社は、1920年に日台双方の実業家による出資により設立され、最盛期には総延長120kmを超える軌道路線を経営していた。経営状況は概ね安定しており、収支も良好であった。1920年代後半からはバス輸送にも参入している。輸送実態を見ると、地域経済・資源の様子をよく反映し、地域の物資の搬出にとどまらず生活物資も輸送していたことが分かる。手押台車軌道は、地域と密接な関わりを持ちながら、地域社会に交通インフラを提供する重要な存在であった。

1930年代以降、自動車交通の発展で手押台車軌道は急速に衰退していくが、軌道会社は時勢の変化に柔軟に対応し、台湾軌道も自ら自動車運輸に進出して次第に手押台車軌道から軸足を自動車に移して業態を転換させていった。それにより斜陽となった手押台車軌道路線がバス路線へ転換して、結果的に地域における交通ネットワークは維持された。

三木(1991)は日本の軽便鉄道ブームは初期の民間活力による社会資本整備事業として位置づけられることと、地域社会にとっては 「郡是的」事業の性格をもつことを指摘しているが、植民地台湾における民間による地域社会資本整備の役割は、軌道会社が担っていた点が指摘できる。

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