主催: 公益社団法人 日本地理学会
会議名: 2020年度日本地理学会春季学術大会
開催日: 2020/03/27 - 2020/03/29
1980年代末以降、ブラジルの日系人たちの間で「デカセギ」と呼ばれる日本での就労は、広く一般化したと言える。日系ブラジル人労働市場の特徴としては、労働者と雇用者の間に派遣会社、日系旅行社、プロモーターと呼ばれるブローカーなど多様な「媒介項」(中澤2014)の存在が挙げられよう。ただし、媒介項は決して労働者と雇用者を結びつけるだけの中立的な存在ではない(Peck and Theodore 2002)。派遣会社は日本で労働力供給先を、日系旅行社やプロモーターはブラジルで労働力供給源を開拓することで、日系ブラジル人労働市場の拡大に積極的な役割を果たしていると言えよう。
この労働市場の拡大はまた、地理的なスケールの再編を伴う。Smith(1993)が言うように、地理的スケールが単なる社会関係の表出や反映ではなく、社会関係そのものに介入し、創りかえていくのであるとすれば、日系ブラジル人労働市場の動態もまた、いかなる主体によって、いかなるスケールが生み出され、創り変えられていくのかという視点からの分析が必要となろう。
そこで本報告では、とりわけブラジルでの媒介項である日系旅行社によるデカセギ斡旋ネットワークの拡大に着目し、その過程にどのようなスケールの生産が伴うのかを明らかにしたい。資料としては、2018年5月から10月の間に断続的に行ったサンパウロ市・サンパウロ州内日系人集住都市・サンパウロ州外日系人非集住都市においてデカセギ斡旋を行う旅行社の経営者・社員に対する聞き取り調査結果を用いる。
日系旅行社とは、ブラジルの日系人が営む旅行会社であり、もともとデカセギ斡旋のために作られた機関ではない。丹野(2007)によれば、ブラジルの日系旅行社は1950年代にはすでに4社存在したという。1970年代に入ると、一世の訪日ブームが起こったことに加え、ブラジル進出企業の駐在員向けの事業を展開したことで、旅行社数は急増した。ところが、1980年代日系企業が相次いで撤退したことを受け、日系旅行業界も縮小する。そのような状況下で始まったのが、日本の派遣会社に対する労働者の斡旋業務であった(丹野2007)。
ブラジルの日系企業のみが掲載された電話帳『日系職業住所案内』およびその後続に当たる『サンパウロなんでも便利帳』を確認すると、邦字紙に初のデカセギ募集広告が掲載される前年にあたる1984年には、旅行社数は33社であった。しかしながら、1991年には99社に急増しており、ピーク時の2006年には223社になっていた。2009年を境に減少しているものの、最終号である2011年には147社が掲載されていた。
この旅行社数の変化には、集中と分散という二つの空間的過程が伴っていたと言える。まず、当初の掲載旅行社はサンパウロ市内大小の日系人集住地区に分散していたが、旅行社数が増加するにつれてリベルダージへ集中する傾向があった。一方で、同時にサンパウロ州内、サンパウロ州外、海外へと立地が多様化していく傾向も見られた。
本報告では、さらにデカセギ斡旋業に関わる人びとの語りから、上記した過程がいかに生じたのかを明らかにしていく。とりわけ注目したいのは、空間的戦略に関する語りである。求人媒体がオンラインへと移行した現在、デカセギ希望者は一度も旅行社を訪れることなく日本へと渡航することもできる。しかしながら、デカセギ斡旋は、実のところ物理的な取引なしに完結することはできない。その取引は空間をまたぐため、必ず輸送や連絡のための時間や費用が発生する。それゆえデカセギ斡旋業では、様々な空間的戦略を用いることになる。
旅行社の空間的戦略においては、例えば取引費用と時間が最小限になるリベルダージへの事務所移転というような動きの一方で、労働力供給源開拓のためプロモーター配置や他都市の旅行社訪問というような動きが見られた。この地理的集中と地理的限界の克服(Harvey 2010)とも言うべき矛盾した過程を通じて、デカセギ斡旋ネットワークがリベルダージを中心としつつブラジルの隅々へと拡大したと考えられよう。