日本地理学会発表要旨集
2022年度日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 436
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発表要旨
宮古・八重山の御嶽と神社の位相
*大城 直樹
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抄録

琉球列島には御嶽(うたき,ワン,オン)と呼ばれる固有の宗教施設が存在する。これらは形態的には神社,とりわけ産土神や村の鎮守の神様と類似しているものの,ノロや根神(ニーガン)等の女性神官が祭祀を執り行っているという点に大きな差異を認めることが出来る。村落にあるのは御嶽であって,神社はほぼ存在しない。那覇にある波上宮や宜野湾の普天間宮のような前近代から存在するもの,また近代に造られた護国神社なども存在はするが,それらはむしろ例外的なものと言える。とはいえ,第二次大戦前には,村落にも御嶽を国家神道的な神社と読み替える動きがあった(大城1994)。村落の青年団が乃木大将夫妻の写真を御嶽の拝殿に飾って乃木神社としたものなどがそれである。今回は,皇紀二六〇〇年に併せて郡の振興を目的としてできた(御嶽を読み替えた)八重山神社と当初から神社として建造された宮古神社についてその異同を検討してみたい。

先稿(大城1998)で述べたが,八重山神社は八重山在住の民俗学者・喜舎場永珣(1885-1972)らの検討・検証によって,1939(S14)年1月に南海山権現堂の昇格運動として,またその移転拡張を目指すものとして八重山郷土研究会通常総会において決定された(永珣はこの総会で会長に就任)。「皇紀二千六百年を迎へるに当り石垣町では予而て十周年記念事業として神社造営を為すことになって居り,又郡振興期成会に於ても八重山神社設立することに協議決定」という記事も掲載される(先島朝日新聞:1939年2月2日)。この際,永珣は神社建設に関する準備事務を嘱託された。永珣は小学校の校長を1932年に辞めた後は,石垣町の町誌の執筆のみならず,金銭債務調停委員,町の社会教育委員,八重山郡の養蚕業組合議員件副組合長,また登野城の字長をも務めていた。権現堂は祭神は神社明細帳から脱漏していたため,永珣は諸文献を探索し,それを突き止め波上宮の末社として編入することを願い出たが,結局は大石垣御嶽の敷地に八重山神社が建てられることとなった。御嶽の神社への読み替えと言える。

宮古神社HPによると,1925(T14)年,平良町が町社・宮古神社を設立。公認の神社を目指すものの認可がなかなか下りず,宮古権現堂とともにシロアリや台風の被害を受け修繕が望まれていた。1940(S15)年にこの二つを合わせた新・宮古神社の建立が決定された。同年,神社明細帳に登録されていた権現堂を「宮古神社」へ改称し,旧宮古神社の祭神が合祀され,新しい敷地への移転計画も持ち上がった(大城2021)。この時にそれに意を唱える者が現れる。元県会議員の立津春方(1870-1943)である。僧籍をもつ元教員の彼は,権現は権現として別物であり一緒にしてはならない反対したのである。他方,宮古神社は段丘上にあるがその崖下に,宮古の創世神が祀られる漲水御嶽がある。先述したように御嶽と神社は相異なるものであるが,新・宮古神社と抱き合わせの行事が行われるようになり,漲水神社と呼称されることにもなった。

このように元々神社の存在が希薄な沖縄の地において,神仏習合的な「権現」を介して神社を建立しようという動きを宮古と八重山で確認することが出来た。興味深いのは,この二つの神社に関わる知識人としての元教員の役割である。学校教育に当初は従事していたものの,地域の社会教育も担うことになることから,その後はむしろ政治や行政に関与していく。そして今回見たように永珣と春方のスタンスは大きく異なるものであった。この先さらに場所の表象のポリティクスとそこに関わるエイジェントの絡み合いを明らかにしていきたいと考える。

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