報告の背景と目的
現在も土地登記等で用いられる地番(土地地番)が明治後期に確定されるまで,それとは異なる地番が用いられていた地域は少なくない.そうした地番の存在は多くの地域で忘れ去られ,むしろ,土地台帳などの記載においてのちの地番と混用され,地籍混乱の原因ともなっている.その中で沖縄では,その名の通り,土地に対してではなく屋敷ごとに付与された「屋敷地番」が,1899(明治32)~1903(同36)年に近代土地調査である「土地整理事業」によって地番(土地地番)が付与されるまで用いられていた.
この沖縄の「屋敷地番」であるが,それとのちの地番(土地地番)といかなる対応関係があるのかについては,現地でもあまり知られていない.しかし,これら「屋敷地番」は,その付与目的に加えて,地番に先んじて付与され続けていたことで,明治30年代までの沖縄県内各地の状況を示す資料性を持ち合わせている可能性が期待される.そこで本報告では,「屋敷地番」の実態について,主に宮古諸島の多良間島においてと,沖縄本島のグシ宮城村,勝連南風原村などにおいても検討した結果を示す.
「屋敷地番」と地番(土地地番)の付与原則の違い
「屋敷地番」は,「土地整理事業」開始前の1898(明治31)年までは,世帯の増減に応じて,地番のくり下げやくり上げがなされていたが,「事業」以降は変更が加えられなくなって固定化したのち,廃された.今回,土地台帳上での記載関係などから,その最終的な「屋敷地番」と,「事業」後の地番(土地地番)との対応関係を把握した.そして,「事業」後に宅地地筆となったところの「屋敷地番」がほぼ全て確認できた.「戸籍地番」の並びを空間的に見ると,基本的に隣接した宅地地筆に付与されたものどうしは連番となっているものの,各所で飛び番が生じており,また,枝番の付いた「屋敷地番」が付与された宅地が挟まっていたところもある. 多良間島中心集落全体での「屋敷地番」の付与原則を見ると,同集落のうち西側の仲筋村においては,かつての番所(のちの役場)を起点とし,そこから南北方向の街路に沿って一気に北上するように順に付与され,集落北端で折り返すといったように,集落全体を南北方向に行き来する千鳥式となっていた.一方,東側の塩川村では,同じく街路に沿って集落全体(ただし仲筋村との村境まで)を,こちらは東西方向に行き来する千鳥式での付与であった.
これに対して地番(土地地番)は,島の北端の,両村境の東西をそれぞれ起点の地番1(1番地)としていた.そして,いくつかの街区をひとまとめにした「里」が設定された中で,地番は「里」内ごとに千鳥式に付与されていた形となる.また,「横一列」型街区が卓越する塩川村内の方が,比較的単純な配列となっていた.
両地番の違いが示す各屋敷地の状況
多良間島中心集落内では,「事業」開始以降に世帯が移動すると,「屋敷地番」は移動先の所在となる一方で,移動元の屋敷地の同地番は飛び番となったようである.一方で,同地番が付与された世帯が「事業」開始後に分家するなどして複数世帯となれば,その分家側の同地番は枝番を付けて処理したものとみられる.それらの,枝番の付いた「屋敷地番」となっていた世帯の屋敷地は,「事業」時には完全に独立した宅地地筆となっていた.
また,同集落では,原則からすれば「屋敷地番」が付与されているはずながらそこが飛び番となっていた宅地地筆などと,のちに「拝所」となったところとがしばしば一致した.これらの地筆の状況は,かつては特定の居住者のいる屋敷地であったのが,「事業」以降に無人化し,現地で言う「ムトゥ(沖縄本島などではムートゥヤー(元家))」として「拝所」化していった過程を示す可能性がある.
また,「事業」後の塩川村の範囲に一部,仲筋村の「屋敷地番」が付与された屋敷地がみられる(図2中央南寄り).この状況は,属人的であった本土各地の藩政村が行政村となった際の飛び地発生過程とよく似ている.
期待される分析視点と課題
いったん「屋敷地番」が付与されたであろうところが「拝所」化しやすい宮古諸島に対し,勝連南風原村などでは,最初から「拝所」に同地番が付与されていなかった.同地番の付与原則の違いは文化的差違にもよるのではないかといった,地域性の分析も期待される.
ただし前提として,「屋敷地番」が把握できる地域は限られる.また,同地番自体に時期的変化があり,把握には思いのほか労力を要する.