日本地理学会発表要旨集
2022年度日本地理学会春季学術大会
セッションID: P056
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長野県開田高原における木曽馬文化を活用した草地保全の取組み
*浦山 佳恵須賀 丈畑中 健一郎
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抄録

近年,里山の自然環境を保全する方策の一つとして,里山の動植物を利用した伝統文化を観光等の地域づくりに活用することが期待されている。長野県木曽町開田高原では,2018年以降市民団体を中心に木曽馬文化を活用し草地を保全する取組みが始められた。本発表では,この取組みの経緯,主体,今後の見通し等を紹介する。開田高原は近世の木曽馬の主産地で,1955年頃も約700頭の馬が飼育され,5000haもの草地が広がっていた。馬は現金収入源であるとともに火山山麓での農業生産を支える厩肥を生産する上でも重要であった。馬の主な飼料は,夏は生草場から採取された生草,冬は干草山から採取された干草であった。草地の多くは隔年採草で,干草山は2分され,その年利用する草地には春先に火を入れ,育った良質なススキやカリヤスを9月以降刈り採った。刈草を方言で「ニゴ」という形に積み重ね,約1ヶ月間乾燥させたものが干草となった。翌年は,もう一方の草地が同様に利用された。1955年以降,馬は肉用牛に変化し,草地の森林化がすすんだ。しかし各集落の秣のための火入れは景観保全のための火入れに変化し,かつての干草山の一部でも続けられてきた。また,1戸の牛繁殖農家が,近年まで健康な牛と良質な堆肥を生産するために約0.5haの草地で隔年での干草利用を続けていた。そうしたなか開田高原には全国的にも希少とされる多くの植物や昆虫が生息する草地が残されてきた。伝統的干草山に最初に注目した神戸大学は,2010年植物相や昆虫相の調査をはじめ,周辺の様々な管理形態の草地と比較し,2016年に伝統的干草山では生物多様性が高いことを示した。2014年以降信州大学は県内で伝統的干草山にのみ生息する希少種チャマダラセセリの産卵場所と人の管理形態との関係を調査し,この蝶が人の草地管理に依存し生息していることをつきとめた。2014年県は牛農家の高齢化による干草利用中止を懸念し,伝統的干草山を希少野生動植物保護条例に基づく保護区に指定した。2015年に牛農家が草刈りを中止すると,草刈りは木曽町環境協議会によって行われるようになった。2017年,著者が1955年頃の干草山・生草山,現在の火入れ地・採草地の分布を調査したところ,保護区は開田高原で唯一残された干草山であった。さらに2018年にかけて地域住民に聞取りをし,草地利用には様々な伝統知があったこと,現在も多くの厩肥が用いられていることを確認した。Tさん(上松町・イラストレーター)は,2012年頃失われつつあった木曽馬飼育を個人的に記録していたところ,地方紙の取材の仕事で神戸大学の植生調査に出会い,木曽馬文化を活用した草地保全に関心を持ち,伝統的干草山での火入れや干草作りにも通うようになった。2018年頃干草文化と秋の七草が咲く美しい草地の消失を懸念したTさんは開田高原で木曽馬を飼育する移住者3名と「ニゴと草カッパの会」(以下ニゴの会)を設立し,保護区以外の3ヶ所の草地で干草利用を再開する活動をはじめた(現在4ヶ所,約2ha)。以降、秋に木曽馬文化の象徴である草地にニゴがある風景が各地でみられるようになった。2019年農家が保護区での干草利用も中止すると,保護区の刈草は環境協議会によって生ごみ堆肥化施設に搬入された。2020年著者は干草利用を継承することが望ましいと考え,一部の刈草でニゴを作り,干草を木曽馬保存施設「木曽馬の里」に利用してもらうことを試みた。2021年のニゴ作りにはニゴの会の協力を得た。木曽馬の里で生産された厩肥は,地域の農家によって特産品のトウモロコシ生産等に用いられている。その結果,伝統的干草山は多主体の協力によって現在もそれを維持してきた文化とともに保全されることになった。ニゴの会は多様な背景を持つ人々で構成されている。木曽馬を飼う移住者のNさんは「木曽馬の里」場長で,木曽馬の保存には馬が活躍する場を増やす必要があると考えていた。Kさんは木曽馬と暮らした体験があり,開田特有の麻織物の継承にも取組んできた。草地利用に関する重要な話者でもあった。Iさんは東京の環境調査会社で働いていたが,地元の環境保全に携わりたいとUターンした。Sさんは松本市在住の昆虫愛好家である。2020年には大学・環境保全研究所・ニゴの会によって,木曽馬文化と草地再生のための調査プログラムを都市住民に提供する事業がはじめられた。2021年町は「木曽馬保存計画」を策定し,木曽馬がいた頃の景観の観光活用,野草の活用,厩肥を用いた農作物のブランド化をすすめることになった。開田高原の草地保全は木曽馬文化の活用で多様な主体を取り込んできた。コロナ禍で観光活用にまでは至らないが,今後は町の木曽馬を軸とした地域づくりと連動しながらさらに展開していくことが期待される。

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