日本地理学会発表要旨集
2023年日本地理学会秋季学術大会
セッションID: 332
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群馬県富岡市の事例からみる産業としての蚕糸業の可能性
*加藤 寛樹
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抄録

Ⅰ はじめに

 明治期以降に輸出産業として隆盛を誇った蚕糸業は,第二次世界大戦後もしばらくの間勢いを保ち,昭和40年代までは器械製糸工場や養蚕農家が全国に広域的に所在していた.しかし昭和50年代以降,絹需要の減少の影響を強く受けたことにより著しく衰退した.近年は織物以外にもバイオケミカル分野でシルクが再評価され,高品質な国産生糸を再評価する流れも出てきたが,足下で蚕糸業を支える養蚕農家や製糸工場は,経営を安定的に続けていく上で,高齢化による後継者問題や収益の維持など多くの課題を抱えていると考えられる.

 本研究では,研究の中核をなす2022年10月に群馬県富岡市で実施した蚕糸業に携わる主体へのインタビュー調査の内容を報告し,現在の蚕糸業の存立基盤や課題を明らかにした上で,今後日本国内で蚕糸業が存立し新たな展開を遂げていく可能性について考察を行う.

Ⅱ インタビュー調査の概要

 本研究では,富岡市の協力のもと,2015年に新規就農した養蚕農家(以下A氏),古くから養蚕を続けてきた農家(以下B氏),富岡ブランドのシルクの販売促進に取り組む一般社団法人富岡シルク推進機構,シルクを原料とした化粧品の製造・販売を主事業として手掛け,2016年から企業養蚕にも取り組む株式会社絹工房,群馬県内で唯一現在も稼働中で,全国の年間生糸生産高の60%を占める碓氷製糸にお話を伺った.

Ⅲ 現在の蚕糸業の存立基盤

 A氏,B氏はいずれも,養蚕を行わない冬季を中心に他の作物を栽培している.A氏は養蚕が終了した12月に下仁田ネギ・長ネギの栽培を行い,B氏は養蚕の他に,タマネギ・シイタケの栽培,稲作を行う.富岡市内の養蚕農家のほとんどが複合経営農家である.

 現在も養蚕を続けている農家は養蚕や蚕糸業文化そのものに対して熱意を持っているため,収入が少なく収益性に劣るとしてもあくまで春から秋は養蚕を行うことを前提として作業暦を組む.これは,阿部(1961)や大迫(1961)らの論文で語られていた「自給的作物の栽培を前提に,さらなる収益確保のために経済性や労働配分の兼ね合いを考慮した上で,養蚕の導入が検討される」という1960年代の養蚕に対する考え方からは大きく乖離している.養蚕の文化的価値が改めて見直されてきたことが経済性や労働配分の考え方と矛盾する状況を創り出している.

 養蚕農家の経営収支についてもA氏からお話を伺った.養蚕では電気代,灯油代,人件費,蚕種費を差し引くと粗収益(販売額)のおよそ7割が手元に残る.長ネギに関しては農協手数料の負担が大きく,他にも苗代,肥料代,農薬代などが経費として支出されることで,手元に残るのは粗収益の約6割となっている. 建物費や農蚕具費などの固定費支出は,大日本蚕糸会や群馬県,富岡市が提供する補助金制度により減少しており,補助金の恩恵を受けつつ他作物との複合経営を行うことで養蚕農家が経営を維持している.

Ⅳ 現在の蚕糸業が抱える課題

 養蚕農家が抱える課題としては,繁忙期における人手の確保,養蚕を行っていない近隣農家による薬害の発生,新規就農者の育成,養蚕農家同士が繋がるコミュニティの形成などが挙げられる.絹製品やシルク関連製品の販売を行う企業は企業規模が小さいため大きな宣伝を打てないことが課題として挙げられる.

 しかし最大の課題は蚕糸業そのものが「1980年代以降続く根本的な構造不況」と「需要減少による繭余り」という深刻な課題を長年克服できずにいることだ.最終製品である着物が洋装化の進展や不景気の影響で売れなくなった結果,サプライチェーン上流に位置する蚕糸業への利益還元も大きく減少し,養蚕農家や製糸会社の廃業により蚕糸業の規模が縮小していく悪循環に陥ってしまい,現在でもそこから抜け出せずにいる.絹・繭需要の創出は今後の蚕糸業の存続に関わるため急務である.

Ⅴ 蚕糸業は産業として存続可能なのか?

 蚕糸業と類似した事例として,新井・永田(2006)が研究対象とした沖縄県石垣島のパイン生産が挙げられる.石垣島のパイン産業は加工工場停止により加工用生産から生果用生産に切り替えることを余儀なくされたという事情はあるものの,加工用として用途を切り替え,高品質の生果用パインを生産するための適応的技術変化を行ったことで活力を取り戻した. 本発表ではこの新井・永田(2006)の研究を参考にしつつ,現在危機的な状況に置かれている蚕糸業がパイン生産と同様に技術革新や繭需要の創出,後者は言い換えれば新たな用途への転換によって再生可能か,あるいは新しい形態の産業へと生まれ変わっていくのかについて議論する.

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