東京都多摩市は、1960年代から東京の西部多摩丘陵を開発して作られた“多摩ニュータウン”の中心に位置する。多摩ニュータウンは当時全国に次々と作られた大規模ニュータウンの中でも最大級のものであったため、新時代の大規模住宅開発として各方面から注目を集め、都市計画、社会学、地理学など様々な観点から多くの論考が加えられてきた。発表者は1987年よりこの地に暮らしているが、これらの論考がほとんど外側からの視線によるもので、そこに生活するものの認識とはどこかずれているような気がしてならなかった。今回“市民学芸員”となったことから、一住民としてこの地域を見つめ、この“ずれ”が何かを確かめてみようと思い立った。
多摩市には多くの橋があり、特に丘陵地に開かれたニュータウン地域の陸橋の多さが目立っている。比較可能なデータが乏しいために他の市町村との比較は難しいが、多摩ニュータウン地域の橋に注目した「多摩ニュータウンの橋」(1983)や「Bridge Town」(1989, 1995, 2001)などこの地区の橋についてのパンフレットが次々と発行されたことからも、この地域において橋の存在が大きいことがうかがえる。開発当初は全面買収した丘陵地を平坦な土地に変えて大規模な宅地とする計画であったようであるが、谷戸に住居や耕作地を持つ地元住民の反対もあって大きめの谷戸は土地区画整理事業地となり、その他の丘陵地が新住宅市街地開発法に基づく全面買収方式の開発事業の対象となった。その後、自然地形を生かした案も考えられたようだが、結局、採算の問題から丘陵の尾根部を切り細かい谷を埋める中規模開発となり(木下,根本,2006)、尾根部に建設された住区をつなぐ橋を中心に多くの陸橋が建設されることとなった。また、これに呼応するかのように、土地区画整理事業地区やニュータウン以外の市内の河川や水路にも橋の建設が進んだようである。これら多摩市を特徴づけるようになった多くの橋を住民目線で観察・記載して行くことで、この地域に向けられる自らと外からのまなざしの違いについて気づくことがあるのではないかと考えた。
一般的には橋梁として建設されたものが「橋」とされており、民俗学などでは橋は建設構造物というだけでなく異界との“境界”を示すと考えられることもある。しかし、日常的に橋を通行する多摩市の住民にとって橋は、その構造はもとより境界とも関係なく、単に河川、水路、谷、道路などを越えて“こちら側”から“あちら側”に渡るための交通路にすぎない。さらにニュータウン地区に多い陸橋では、橋がなくともあちら側に行くことに大きな困難はなく、河川や水路を渡る橋や境界の意味を持つ橋に比べてこちら側とあちら側の区別が明確でない。このようなところで住民が橋と認識するには、“渡る”という意識が得られることが重要で、この“渡る感”がなければ主観的には橋ではないことになる。そんな観点から、多摩市内で橋と思われるものを見て歩き、橋と認識できるかどうかを判断することから始めた。見て歩いた400本近くの橋らしきもののうち228本を「橋」と認定し、プロジェクトチームを作って冊子にまとめて公表することになった。これら一連の活動から地域認識のずれを感じたことがいくつかあり、ここで簡単に報告しておきたい。
・各種資料に載っている橋は、例外なく橋梁として建設された建築構造物である。しかし、なかには住民として橋とは認識できないものがあるし、住民目線で橋と見なしたものが資料には入っていないことも多い。外からの視線と内からの視線によって見えるものあるいは認識するものが異なるということは明らかだろう。
・ニュータウンの開発者は丘陵地の開発において橋が“人間尊重の街の表徴”であると強調したが、住民とっては、隣の住区に行き来する用事もそれほどなく、谷部に配された主要道路を通るバス路線の停留所までは坂や階段を上り下りする必要があったりして、「橋」の多さ=「人間尊重」とは感じにくい。
・ニュータウン開発以前から長くこの地に居住している“旧住民”とニュータウンに移住してきた“新住民”とでこの地域に対する意識に大きな隔たりがあることに改めて気づかされた。旧住民は地域への強い結びつき意識を持っているのに対して、発表者のような新住民にそのような意識は希薄である。旧住民の持つ地域への意識は何代にもわたってこの地で生活を営んできたことによって培われたもので、一代限りかそれ以下にすぎないニュータウンでの生活から同じような意識を持つことは不可能であろう。昨今よく言われる“コミュニティの再生”などを考えるにあたってはこの点に留意する必要がある。
<文献>
木下剛・根本哲夫 2006. 多摩ニュータウンの自然地形案とは何か. 『10+1』 No.42:124-127. (LIXIL出版)