2018~22年度に実施した本科研費研究会は,東日本大震災の被災地岩手県陸前高田市に焦点を当て,「復興」の課題を,被災地の人々の感情・身体・ジェンダー,場所や風土などの視点から考察してきた.研究方法の中核をなすのは,現地の住民との対話的なフィールドワークである.
陸前高田市は,1955(昭和30)年,高田町,気仙町,広田町,小友村,米崎村,竹駒村,矢作村,横田村の8町村の合併によって生まれた.藩政時代からの中心地で古い街並みがあった気仙町,昭和以降行政・商業の中心地となった高田町,漁業が盛んな広田・小友,漁業と果樹栽培が盛んな米崎,気仙川と山に囲まれた横田など,旧8町村は,生業や文化を異にし,独自の風土を持っている. 気仙川が作り出した沖積低地の上に市街地が展開し,三陸海岸では珍しい長大な砂浜に連なる松林(高田松原)は,県内外から海水浴客を集める観光地でもあった. 同僚教員と学生と共に2011年から通ってきた米崎小学校仮設住宅の元自治会長佐藤一男氏は「陸前高田はエンゲル係数の低い町だった」と言う.それは海産物や農産物の交換が地域社会の中で頻繁に行なわれ,食費が少なくても豊かに暮らせたことを意味する.震災が奪ったのは,数量化できる産業基盤だけではなく.交換経済(菜園なども重要な基盤)と社会関係もまた大きな打撃を受けた.
「原風景」については,様々な論考がある(奥野1989ほか).私は原風景を「個人の心に深く刻み込まれ,繰り返しあるいは時折,強い情感をともなって喚起される風景」と捉える(熊谷1997).どのような心情とともに「原風景」が刻まれるかを考察すると,温かさ」や「安心」の感情,「自由さ」や「解放感」とともに,「寂しさ」や「孤独」「不安」の感情が浮かび上がってきた.原風景が,単なる懐かしさや,幼少期の幸福な記憶によってのみ彩られるものではなく,それがもはや手の届かないものになった喪失感とも結びつくとすれば,震災は,陸前高田の人々に失った風景を原風景として刻み込む契機ともなったと想像する. 「原風景」調査の概要 私は2019年12月末~2020年2月に,陸前高田の人々に,原風景調査を行なった.回答を得たのは,19名(男14名,女5名)で,年齢は,80代1名,70代5名,60代5名,50代3名,40代3名,30代と20代が各1名である.これまで私が関わりを持った人に依頼したこともあり,比較的高齢の人,また男性が多くなった. 具体的な原風景として多く挙げられたのは,1)子供時代の生業・遊びと自然;2)祭;3)高田松原;そして4)震災前後の街の風景;だった. 陸前高田の人々は,2011年3月11日の津波で一時に親密な人,家,街並み,日常,風景,それらとの関係性を奪われた.今回の原風景調査から浮かび上がってきたのは,「場所喪失」(displacement)の心情の具体的意味と重さだった(熊谷2020).