1 はじめに
近代日本における植民地期朝鮮をめぐる研究は意義深い。植民地期朝鮮において、沿岸には多くの漁村が存在した。それらのなかには水産加工業が発展し、港湾都市として成長した地域も少なくない。それらの地域は、外地である朝鮮、ならびに内地である日本との結節点として重要な役割を果たした。このように、近代日本における海域の拡大にともなって、水産加工業とそれに関わる流通産業は、主要産業のひとつとして看過できない。
本発表では、植民地期朝鮮の南方に位置する済州島と日本海に浮かぶ鬱陵島で操業された竹中缶詰製造所を事例に、在朝日本人のネットワークと水産加工業の展開について考察する。
2 竹中缶詰製造所の済州島での展開
1869年(明治2)京都府深草町に生誕した竹中仙太郎は、1883年(明治15)京都・縄手通り新橋にて青果商・八百伊開業した。1902年(明治35)缶詰製造開始し、1916年(大正5)には個人会社・竹中缶詰製造所が創立された。その後、1922年(大正11)深草北新町へ工場移転、株式会社へ再編されたものの、1923年(大正12)には、関東大震災にて横浜の輸出用缶詰倉庫が被災した。
これを契機に株式会社として再編された竹中缶詰製造所は、1928年(昭和3)済州島北西部に位置する翁浦里の牛肉缶詰工場を買収し、1930年(昭和5)には周辺の電燈事業にも着手した。そして、同年に死去した仙太郎に代わって、長男・新太郎が継続した。当初は牛肉缶詰が主要製品であったが、老廃牛の計画的な屠殺により、えんどう豆や魚介類なども材料とする済州分工場は、総合的な缶詰工場であった。
朝鮮半島の西南部に位置し、日本海、東シナ海、黄海の間にある済州島は、日本本土と朝鮮半島、大陸との結節点として重要であった。さらに、当時における離島ゆえの未開発、その発展性が注目されていたのである。
3 鬱陵島における缶詰工場の統合
竹中缶詰製造所に関する朝鮮新興産業株式会社として組織された缶詰工場として、鬱陵島における道洞と、その北側に位置する荢洞の工場がある。1930(昭和5)年以降の『朝鮮 工場名簿』を時系列的に精査すると、道洞工場は1907(明治40)年5月に奥村缶詰工場として開業している。1940(昭和15)年になると、それは朝鮮新興株式会社の鬱陵島工場として記録され、代表者として竹中新太郎の名前が記されている。『全国工場通覧』(昭和16年版)によれば、鳥取県米子の奥村平太郎は1907(明治40)年5月に鬱陵島南面道洞(現・鬱陵邑)に奥村缶詰工場を設立している。半島部からの船舶が到着する鬱陵島の玄関港にあたる道洞工場が、奥村缶詰工場の中心であったにちがいない。 そして最終的に、これらの缶詰工場は、竹中缶詰製造所に統合されたのである。
鬱陵島役場に残る日本植民地期に作成された土地台帳には、次の記録がある。島南西部に位置する台霧洞634-1番地の地目は、1913(大正2)年7月1日には雑種地であり、そこは内田喜代松なる人物が所有していた。やがて、1918(大正7)年8月2日の浜忠市を経て1936(昭和11)年10月19日には奥村平太郎、さらに1939(昭和14)年5月18日には奥村亮へ所有権が移転している。そして、1941(昭和16)年1月18日には朝鮮興産業株式会社へ所有権が移っている 。
4 おわりに
1933(昭和18)年における竹中缶詰製造所の組織図からは、大阪・神戸方面の総合商社や薬品会社からの役員も散見される。同製造所はその販売だけでなく、缶詰材料としての農作物、さらに軍需利用された除虫菊栽培にまで関わっていた。第二次世界大戦下で統制経済制度が敷かれると、竹中缶詰会社京都工場の操業は必ずしも芳しくなかった。それに対し、済州島だけでなく、朝鮮各地においても事業は拡大した。
前述した鬱陵島の他にも、1937(昭和12)年に全羅南道・羅州に缶詰工場が操業された。1933年(昭和8)、朝鮮総督府総監・宇垣一成が黄桃缶詰製造を竹中缶詰製造所に打診した。調査の結果、まずは翌年に水害による被害農家の救済として漬物工場が計画され、地元農家と大根、えんどう豆や黄桃の栽培契約が成立した。1935年(昭和10)に工場操業したものの、作物の収穫ができず、本格的な操業は翌年からになった。当地には、伝統的な家畜市場があったため、羅州分工場は牛肉缶詰を主要製品としつつも、農作物も材料に選ばれた。
さらに1938(昭和13)年頃には京城(ソウル)南大門に事務所、1940(昭和15)年頃に釜山に出張所、1943(昭和18)年に束草など、朝鮮各地に工場・事務所が開設されたのである。