主催: 公益社団法人 日本地理学会
会議名: 2024年日本地理学会秋季学術大会
開催日: 2024/09/14 - 2024/09/21
I 研究の背景
日本における個別の苗字の地域的分布については従来多くの関心が寄せられてきたが,苗字分布の総体的な地域性を歴史・文化的文脈に即して説明したものは乏しい。本研究では,農村社会学・歴史学・人類学等における家制度研究の知見に依拠しつつ,苗字の地域内での集中度に基づいて地域差を析出・説明するための量的分析を試みた。
苗字は家ないしその外延的拡張としての同族の標識であり,中世に端を発するが,その一般庶民への普及は,特に近世中・後期にかけての全国的な庶民の家の成立と関わっている。ここでの家とは,家名・家産・家業などの世代継承を志向する,主として父系直系の血縁に基づく組織である。また同族とは,家相互の系譜関係の認知に基づいて,本家の権威を中心に結合する家の連合体と措定する。一般に,東北日本の村落は同族組織が発達する一方,西南日本では同族の結合が弱く,同族関係も数世代限りで消滅する事例が多いことが知られる。村落内での同姓と同族関係は必ずしも同一視できるものではないが,過去の家・村落構造の地域差を大まかに把握する指標として苗字構成をみることは有用と考える。
II 分析手法
以上の前提に基づき,本研究では,全国的な苗字データと既往の調査資料に基づく量的分析を行った。使用する材料は,①2007年の電子電話帳(ハローページ)から抽出・加工した2,300万件あまりの苗字データと,②北海道・沖縄を除く全国1,113ヶ所の大字における明治時代の村落社会の様相を収集した,1960年代の大規模アンケート調査「日本文化の地域性調査」である。①のデータについては,ハローページの原資料および住宅地図等を参照してデータクレンジングを施したうえで,2000年時点の旧市区町村単位に整理して分析した。また,②のデータとの比較対照のため,アドレス・ベース・レジストリ(2024年時点)等に基づく住所正規化を実施し,現在の大字町丁目単位の苗字データセットを作成した。②の資料についても報告書(Nagashima and Tomoeda eds.1984)を電子化し,調査対象地を現在の町字に比定する作業を行った。
III 分析結果
苗字分布から同族関係の強さを推定するにあたり,地域内での上位の苗字の集中度(すなわち同姓の多さ)を表す統計量として,ハーフィンダール・ハーシュマン指数(HH指数)を採用した。旧市区町村単位でHH指数を算出した結果,全体として東日本で苗字の集中度が高く,西日本の多くの地域や,明治時代以降の移民が多い北海道・都市圏などで苗字の多様性の高いことが確認された。「日本文化の地域性調査」の調査項目と対象地域のHH指数の相関をみると,「本家・分家関係の持続性」が永続的な事例を含む大字では,そうでない大字に比べてHH指数が高い傾向がある。また「伝承による集落の成立年代」が中世に遡る大字はHH指数が有意に高く,近世や古代に成立したと推定される村落に比べて同族の凝集性が高いことが示唆される。
IV 考察
中世以来の旧家筋を中核とする家格制身分秩序が発達していた畿内周辺地域においては,近世中後期にかけての新興中間層百姓の台頭にともなって身分秩序が弛緩し,新たな同族・苗字が創出されたのに対し,同族組織が強固な東日本にあっては,新興百姓が新たな苗字を派生するのではなく,世代間の通名慣行が家の名を代替した。その結果,中世以来の同族の名が温存されたと解釈される。また東日本の中でも,青森・岩手両県の南部地方は苗字の多様性が特異に高い。当地方では,低い生産性とそれに起因する名子小作慣行が下層百姓の自立を抑制し,近代まで家の確立をみなかったことが,かかる分布の一要因と考えられる。同様に,分割相続慣行と島津氏の門割制度の影響下に家が成立しなかったとされる南九州では,百姓の編成単位である門の名が明治期に苗字に転化した結果,小苗字が分立することとなった。以上のように,現代の苗字分布は歴史的文脈を多分に内包するものと考えられるが,その地域性を十全に説明するためには,それぞれの地域における個別の検討を待たねばならない。