1. 研究背景・目的
第二次世界大戦末期の日本では,空襲による火災の延焼防止や避難場所の確保といった目的により,あらかじめ都市部の建物を解体して空地を作る「建物疎開」が行われた。この政策は第二次改正防空法に基づき,1943年12月の「都市疎開実施要綱」閣議決定以降,1945年8月の敗戦まで実行され,当時日本統治下の台湾や朝鮮でも実施された。しかし,日本本土以外の建物疎開に着目した研究は不足している。本研究は,台湾で実施された建物疎開事業を対象とし,日本統治時代末期に発行された史料を用いて,その指定実態の解明を目的とする。
2. 台湾における建物疎開の政策的過程
建物疎開の実施根拠である防空法は,同法は「防空法台湾施行令」(昭和12年11月4日勅令第643号)により,一部の条項を台湾の行政制度に合わせた上で適用された。
台湾総督府内では,1944年前半には建物疎開に対しては消極的であり,1944年4月に黒澤平八郎(台湾総督府防空課長)が台湾で人員疎開を行う方針を表明した際,「内地とは大分事情を異にしてゐる本島では,現在内地で相当思ひきつて行はれてゐる生産疎開,防火都市構成のための建物の疎開は原則として行はない。」と述べている。内地と異なる「事情」が何であるかの記述はないが,同時期の『台湾新報』(1944年4月16日,6月28日)は,台湾ではレンガ造りの家屋が多く,また湿度の高い気候のため火事が起こりにくいこと,さらにレンガ造りの建築は木造やコンクリート造りと比較して爆撃に脆弱であることを指摘した上で,都市部の人口を地方に移す人員疎開の必要性を主張しており,「事情」とはこういった台湾の建築様式や地理的条件の違いを指しているものと考えられる。
しかしながら,1944年8月23日に台湾総督府内で開かれた防空協議会においては一転して建物疎開を実施することが決まり,「防空空地造成要綱」が決定された。1944年11月から1945年5月にかけて,台北市・基隆市・台南市・高雄市・台中市・彰化市の計6都市で指定が行われた。
3. 台湾における建物疎開の事例
防空空地造成要綱では,一空地の面積は0.3 ha(約1,000 坪)前後を標準とし,必要ある場合幅員20 m程度の空地帯を設けるものとされた。また,空地の配置基準としては約110 haごとに1か所を配置し,「なるべく危険家屋,不良住宅の密集せる地域を選ぶ」ものとされた。この基準は避難・消防路線の確保を念頭に置いたものと考えられる。1944年11月から12月にかけて指定された都市では概ねこの基準に沿って指定されていたが,1945年4月に台北市で第二次指定が行われた際は規模が拡大され,その全てが空地帯として指定され,幅員もほとんどが40-70 m程度に広がった。指定の理由について『台湾新報』(1945年4月27日)は,「台南,嘉義両市の焼夷弾による被害状況に鑑み,さらに徹底した空地帯を増設する必要がある」と報じており,実際の空襲被害の状況からさらなる規模拡大の必要性が認識されたとみられる。
また,この第2次指定の空地帯は1932年の都市計画「台北市区計画」との関連がみられ,建物疎開の機会を利用して都市計画を前進させようとする意図があったことも示唆される。
引用文献
黒澤平八郎 1944. 臺灣でも都市疎開 防空非常措置 さあ急がう.新建設 3(4): 8-9.