1.研究の目的 本報告は,インドにおけるサニテーションの特徴と地域的特性を明らかにするとともに,家畜排泄物,とりわけ牛糞の実利的利用について紹介し,同国における循環型社会の一端を提示することを目的とする.
2.インドにおけるサニテーションの特性 インドは世界最大の野外排泄人口を抱えるが,同国のトイレ普及をめぐる状況は近年急速に改善しており,その変化に注目が集まっている(佐藤 2020).2000年時点で,野外排泄をおこなっていた人は世界で約13億人にのぼり,このうちインドが7.8億人と半数以上を占めていた.ところが,2022年時点では同国における野外排泄人口が1.6億人にまで減少し,世界に占める割合も38.8%にまで低下した.
インドにおいて,サニテーションをめぐる状況は同国の社会構造と密接に関わっている.まず,ヒンドゥー教の世界観は浄・不浄の観念と深く結びついている.カースト(ジャーティ)の序列においては,浄性の高さと上下の位階に正の相関関係がみられる.そのため,トイレの清掃や動物の屍体処理等に従事する人々は不可触民に属し,ヒンドゥー社会の最下層に位置付けられる.し尿処理カーストに関しては,イギリス植民地時代に都市自治が展開された際に乾式便所が普及し,これに伴い,し尿処理人が創出されたのではないかという見解があるほか,地域によって,し尿処理のカースト構成は異なる.
そうしたなか,2014年に就任したナレンドラ・モディ首相は,就任早々にスワッチ・バーラト(Clean Indiaの意味)政策を掲げ,衛生環境の改善を推進した.また,国内外の民間企業・公益法人,NPO,社会活動家等の支援による公衆・家庭用トイレの設置等が進められたことにより,衛生環境に改善がみられた.さらに,トイレ・排泄物は不浄であるといった国民の意識も変化の兆しを見せているという.
インドでは,農村部よりも都市部においてトイレへのアクセス割合が高いが,近年急速な改善がみられるのは,野外排泄人口が多くトイレ設置率の低い農村部である.世帯別のトイレ設置率を州別にみると,北インドのウッタル・プラーデシュ州やラージャスターン州などの後進地域や農村地域を広く含んだ州で低く,デリー連邦直轄地やパンジャーブ州,小規模州などで高い.こうした分布傾向は,人間開発指数など各種の社会経済指標と類似している.
3.家畜排泄物の活用にみる循環型社会 インドにおいて排泄とその処理に関わる特性を考察する際,家畜排泄物の活用を抜きにして語ることはできない.同国ではとりわけ牛糞が様々な用途に用いられ,それらは実利的利用と儀礼的利用に分けられる(小磯 2015).前者については,収集された牛糞を(場合によって作物残渣や藁を加えて)屋外の地面や壁などに張り付けて乾燥させた牛糞ケーキ(cow dung cake)を調理用燃料として使用したり,壁材,虫除け等に用いたりしてきた.バイオガスとしての利用もある.こうした利用の多くは,牛に由来する物が聖なるものであり,浄化作用をもつとする考えに基づいている(小磯 2015).牛糞ケーキの製作は専ら女性が担うほか,牛糞ケーキにPM2.5が含まれることで,調理を主に担う女性に健康被害が生じることが報告されている.一方で,牛糞の灰が傷の治癒効果をもたらす報告もある.
牛糞ケーキに用いられるのは主にコブウシとスイギュウである(遠藤 2015).これらの家畜は乳製品需要の増加を背景に頭数が増加しており,同時に牛糞も増加する.農家では牛糞ケーキを製作しないと糞の処理に困るという事情もあり,日々牛糞が製作されている.農村家庭で調理用燃料として牛糞ケーキが用いられている割合は,2005-06年で14.4%と薪(61.7%)に次ぐ重要な地位を占めていた(全国家族健康調査).2019-20年には5.7%にまで低下したが,木材の調達が困難な乾燥帯や農家などでは重要な燃料源となっている.アルナーチャル・ヒマラヤのチベット系民族居住地域では,スワッチ・バーラト政策によるトイレの新設が進められた一方,高床式トイレが戸内に設置され,トイレ下で飼育されているブタがヒト排泄物とコナラの落葉を攪拌することで堆肥ができる伝統的な形態もみられる(水野 2024).インドにおいて,排泄物を利用した燃料や肥料は依然として重要な位置を占めており,現代インドの循環型社会を特徴付けている.
文献
遠藤 仁 2015.インド北西部における家畜糞利用の現状と課題.砂漠研究. 25-2, 53-58.
小磯 学 2015. ヒンドゥー教における牛の神聖視と糞の利用.砂漠研究. 25-2, 43-51.
佐藤大介 2020. 『13億人のトイレ』角川新書.
水野一晴 2024. 『京大地理学者,なにを調べに辺境へ?』ベレ出版.