日本地理学会発表要旨集
2025年日本地理学会春季学術大会
セッションID: 638
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高度経済成長は現代中国の自然環境をどう変えたのか?
*原 裕太
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抄録

Ⅰ.はじめに

 筆者らは,中国ではこれまで一般に用いられてこなかった「高度経済成長」という概念を用い,毎年高い経済成長がみられた1990年代(もしくは1980年代)から2010年代前半頃までの約20~30年間の中国社会・文化の多様な変容を,地理学的に明らかにしようとプロジェクトを進めている(基盤研究A.代表:小島泰雄).

 本研究では諸文献および統計情報のレビューから,高度経済成長が中国の自然環境に及ぼした多面的な影響を整理,評価し(図1),自然環境からみた高度経済成長の概念の意味を検討する.

Ⅱ.高度経済成長と公害の深刻化というセオリー

 日本では高度経済成長期(1950年代半ば~1973年頃)を通して四大公害に代表される大気,水,土壌の汚染が深刻化した.

 中国も同様で,鉱工業,都市化,人口や廃棄物の増加,農薬と化学肥料に依存した農業,水産養殖業等によって環境汚染と健康被害が広がった.1980年代には酸性雨とスモッグが認識され,米国で世界初となる微小粒子状物質(PM2.5)の排出基準が制定されてから2年後の1999年には,清華大学の研究グループの観測によって北京のPM2.5濃度が米国基準の約10倍に上ることも明らかになった.大気質や水質は2010年代前半まで悪化を続けた.太湖での富栄養化と無錫の水危機(2007年),「癌村」の顕在化(2000年代~),大気汚染に警鐘を鳴らす元国営放送キャスターによる自費製作動画「穹頂之下」の波紋(2015年)等は,その代表である.

 その後,SO2,NOX,PM2.5,河川水の数値等の多くは全国的に改善へ向かい,一部指標は1990年よりも好転している.背景には2010年代の対策強化がある.2015年には環境保護法が改正され,行政拘留や生産停止等の厳しい罰則をともなう法執行権限の大幅な強化が図られた.食品安全に関する認証やルールも設けられた.

Ⅲ.高度経済成長が促した生態系の修復と再生

 興味深いのは,中国の高度経済成長は,必ずしも自然環境を悪化させる側面だけではなかったことである.とくに,1998年を境に,その前後で様相は大きく異なる.具体的には,森林伐採を全面禁止する「天然林保護」,農牧地を緑化する「退耕還林」「退牧還草」,干拓田を湿地や湖沼に戻す「退田還湖」等が進められ,2000~2005年を中心に自然保護区の数,面積も急増,急拡大した.

 契機となったのは1998年の大水害であるが,その背景として筆者は,高度経済成長と食料生産の拡大が,生態系の修復・再生の本格化を可能にしたと考えている.その結果,森林環境は近現代を通じて最大規模に回復,中国は世界最大の森林増加国となり,「昆明・モントリオール生物多様性枠組」採択(2022年)の主導等,環境分野における国際条裡での積極的な活動に繋がった.

 防災(風水害)の観点でも1998年がもつ意味は大きく,生態系と防災の接近,土地利用の再検討という流れがここで生まれた.

Ⅳ.安定成長にともなう新たな課題の発生

 しかし,高度経済成長と生態系保全策の間の正の関係は,経済成長率の鈍化にともなって新たな課題に直面している.地圏,気圏,水圏の汚染が改善される一方,403もの自然保護区が指定を解除され,2007年を境に保護区の面積は減少に転じている.大半は地方政府が開発のため一方的に解除したと指摘されており,背景には管区の景気を刺激したい地方政府の思惑があると推察される.食料自給の低下から,近年では「退林還耕」の言葉も聞かれる.

 加えて,生物多様性は高度経済成長の間,損失が続いてきた.これには生態系の対策とのタイムラグや環境汚染の継続等が影響していると推察される.環境汚染は改善へ向かっていることから,今後,生物多様性の回復軌道への移行,いわゆる「ネイチャーポジティブ」の実現が求められるが,保護区の動向や食料事情の変化等からは,安定成長期の社会経済がその障壁となる可能性も懸念される.

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