日本地理学会発表要旨集
2025年日本地理学会春季学術大会
セッションID: 613
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紫雲丸事故(1955年)における分極的な追悼空間の形成
*宰川 玲
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抄録

はじめに 1988年開通の瀬戸大橋は,日本の科学技術の結晶とも評されるが,1955年5月11日に高松市沖で発生し,4校の修学旅行関係者108人を含む168人が亡くなった宇高連絡船紫雲丸の沈没事故が架橋の機運を高めたとする言説もみられる.ただ,そのような語りに包括されない多様な追悼の営為が紫雲丸事故をめぐって実施されてきたとともに,追悼空間という形で現出してきた.人為的災害をめぐる研究では,事故現場のモニュメントに注目する場合が多いが,紫雲丸事故では,事故海域を望む地点や児童生徒が犠牲となった遭難校など複数地点に追悼空間が形成された.本報告は,現地調査,文献調査に基づき,追悼空間の形成過程を整理し,個々の追悼空間に込められた意図やその差異を明らかにするものである.

事故海域周辺の事例 事故海域においては,1周忌におこなわれた海上供養を嚆矢として,瀬戸大橋が開通し,国鉄宇高連絡船が廃止となるまで,船上からの供花や読経がなされていた.また,事故海域を望む地点にも,いくつかの追悼空間が形成された.高松市の西方寺にある「紫雲丸遭難者慰霊碑」は,1957年に建立された.事故海域を望む形で,遺族会主導で建立された観音像である.事故海域の北側に位置する女木島では,地域住民によって,犠牲者の霊をまつる地蔵が建立された.同じく高松市内の「厄除不動明王院」は,事故当事者である乗組員らが中心となって,1958年に建立された.不動明王像の中には,事故死者を弔う般若心経が納められた.以上の3事例に共通する特徴として,仏教に由来する形象が採用されるとともに,事故海域を望むような配置がなされているという点が挙げられる.また,国鉄の再発防止策の一環で整備された「女木島灯台」でも,その建設時に,事故死者を悼むための納経がなされ,白い墓標とも称された.

遭難校における事例 事故後,各遭難校周辺で20人近くの葬儀が開かれた.その異様な光景や遺品のようなモノを通じて,生存者や地域住民は,犠牲者という「不在の存在」を痛感した.高知市立南海中学校の「紫雲丸遭難記念碑」は,最も早く当年の9月に除幕式が実施された事例であった.事故当時の遺族と学校関係者の間の心理的な和解が,学校内での追悼空間の促進要因となっていた.松江市立川津小学校の「紫雲丸遭難記念碑」は,事故翌年の3月に完成したものであるが,「記念碑」という用語を,建立に携わった教員陣が意図的に選択したものである.広島県木江町立南小学校では,慰霊碑ではなく,図書館を兼ねた「紫雲丸記念館」が翌年に建設された.そこには,事故に対する悲しみからの感情面での切り替えを図る意図があった.愛媛県三芳町立庄内小学校の「みたまの塔」は,造形美術家の設計で,翌年の3月に建立された.学校所蔵の設計図には,設計者が込めた意図が書き込まれていた.その中では,人々から隔絶された従来の記念碑に対する反省を踏まえて,児童による清掃などの継続的なパフォーマンスの実施を求めていた.

分極的な追悼空間と非線形的な時間軸 紫雲丸事故の追悼空間は,建立主体や建立動機が異なる中で,分極的に立ち現われたといえる.追悼する側は,それぞれのバックグラウンドに基づき,折々のタイミングで,参与する追悼空間(仏壇・墓・遭難校の碑・事故海域の碑)を使い分けていたといえる.そのため,追悼する主体のパフォーマンスや感情に重点を置いた分析が求められる.また,本報告の事例,特に遭難校の追悼空間に対しては,未来を見据えた意図が込められていた.そのように考えると,追悼空間は,過去が保存される空間や過去が現在的に構築される空間としてだけではなく,過去―現在―未来の非線形的な時間が流れ込む空間とみなすべきだろう.そして,このような追悼空間をめぐる非線形的な時間感覚は,その後の追悼空間の継承にも影響を及ぼしたと考えられる.Jones(2011)は,より親密に,関係論的に,パフォーマティブに,生物文化的に「記憶」へアプローチすることで,記憶研究と非表象的な地理学を結び付けることを目指した.分極的な性質と非線形的な時間性がそれぞれ指摘される追悼空間の分析においても,そのような見方を援用する意義が認められるのではないだろうか.以上を踏まえることで,特定の地点において,追悼空間が現在に至るまで立ち現われ続けた機制についての更なる考察が展開されていくことになるだろう.

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