1.研究の背景と目的
観光振興は,地域社会に経済的利潤をもたらす一方で,自然環境への負荷や社会・経済的な不安定性の増大といった副作用も引き起こしうるため,これらのバランスを取ることが持続可能な観光の観点から求められている。しかしながら昨今,観光産業が急成長を遂げた地域では,地価や物価の上昇といった経済的圧力や,交通渋滞や騒音問題,水不足など生活環境の悪化が,労働者層に深刻な影響を及ぼしており,その結果,地域労働市場の脆弱性が顕在化している。
本発表における報告者の問題関心は,観光振興が観光産業に従事する地域住民の生活に及ぼす影響を明らかにし,これらの影響が就業継続や生活の維持とどのように関わっているのか,またこれらが就業や定住の障壁になっているのかを探求することである。このことを通じて,近年盛んに議論されている,いわゆるオーバーツーリズムや新自由主義の影響が顕著な観光目的地において,過度な観光振興が社会的安定性や地域労働市場の持続可能性を脅かしているかどうかを検討する。とくに観光振興によって引き起こされる諸問題は,観光産業を支える当事者やその世帯に対して,生活条件を悪化させるだけでなく,就業継続や定住に対する深刻な障壁となっており,この問題が観光産業の持続性そのものにも影響を与えていると考えられる。
2.観光振興と就業先としてのサムイ島
ASEAN諸国で最も多くの外国人観光客を受け入れているタイでは,首都バンコクの近郊や南部の著名な海浜リゾート地域において,オーバーツーリズムの兆候が確認されている。本発表で対象とするサムイ島は,新自由主義的な政策や市場主導の観光開発のもと,1990年代以降,かつてココナッツ農業が主要な生計手段であった島から,ASEAN有数の海浜リゾート地域へと変貌を遂げた。実際,2023年における観光客数は354.2万人に達し,COVID-19の発生以前と比較しても右肩上がりに増加している。島内では,国際的なホテルチェーンが続々と参入しており,国内外から多数の観光事業者を受け入れている。その結果,同島の地域労働市場は既存住民による労働力供給だけでは不足しており,島外からの労働力流入に依存した構造を呈している。タイが少子高齢化に直面する中,サムイ島の賃金水準は,国内の大都市圏や,プーケットなどの国際リゾート地域と並んで高い水準にあり,不足する地元の雇用を補うためにASEAN諸国などからの外国人就業者を引き寄せる状況にある。
3.就業継続と定住の障壁
本発表では,サムイ島において観光産業に従事する地域住民を主にスノーボールサンプリングによって選定し,2024年8月以降,個別に半構造化インタビューを実施することで,質的分析を試みた。対象者の分類にあたっては,サムイ島で就業する「目的」を手がかりに,属性やライフステージ,職業キャリアなどの要素と紐付けて整理し,報告者が過去にカナダの山岳リゾート地域で得た,キャリア構築,アメニティ,経済移民の3分類の就業者群の知見(小室,2020)と照らし合わせて検討した。
サムイ島における経済的圧力や生活環境による変化は,欧米諸国から島内で観光関連事業を営む経営者群や,アメニティ志向の就業者群に比べ,相対的に所得が低い国内北東部やASEAN諸国からの出稼ぎの就業者群にとって,島内で働き続ける上で確かな障壁となっている点が見出される。さらに,出稼ぎ就業者群の中には,島内の子育て環境に懸念を示し,地元地域に家族を残し単身赴任することを決断した場合もある。地域労働市場は短期的には,相対的な賃金の高さに支えられている側面があるものの,世帯単位での長期的な定住を阻害し,世代を超えた再生産が困難な状況であることが示された。
付記: 本研究は,JSPS科研費 (若手研究,23K17123)「レジリエントな国土縁辺部の観光地構築に向けた地域労働市場研究」の成果の一部である。
【参考文献】 小室 譲 2020. ウィスラーにおける能動的国際移動者の実態―国際山岳リゾートにおける地域労働市場構造解明 にむけて―. 経済地理学年報 . 66: 161-176.