三陸地域において,サケは水産重要種に位置づけられる.単に地域に対する経済的な貢献だけでなく,文化・社会的な貢献を果たしてきた.しかし,近年の極度のサケの不漁は,岩手県沿岸に展開されている定置網漁業の経営に深刻なダメージを与え,人工ふ化事業の存続が危惧されている.特に漁協経営上,非常に重要な位置づけにあったサケの不漁に伴い,岩手県沿岸の12自治体のうち7自治体では,これまでの定置網によるサケ漁業に加え,サーモン養殖が展開されている.岩手県においてサケは歴史的にも社会的に重要な役割を担ってきた魚種である.なかでも宮古市津軽石を流れる津軽石川は岩手県有数のサケの遡上河川として知られ,サケと密接な関係を築いてきた地域である.平成期には平均捕獲数が10万尾を超えていたものの,2023年シーズンには2,754尾まで落ち込んでおり,かつてない深刻な状況に陥りつつある.サケの不漁は,地域文化や経済活動全般に深刻な影響を及ぼしている.とりわけ,津軽石は県内の他地域と比べ,サケをめぐる信仰・伝統行事が多く見られ,様々な活動が津軽石鮭繁殖保護組合(以下,組合)を主体に行われてきている.例えば,11月30日に実施される又兵衛祭は津軽石に伝わる伝説に端を発する神事である.この神事には,県内の多数のメディアが訪れ,報道される.又兵衛祭の報道では,組合員がその年の豊漁を祈念する姿とともに,組合が運営する鮭直売所にも触れられることが多い.鮭直売所は又兵衛祭が行われる津軽石川の河畔で営業されている.鮭直売所では,人工ふ化事業のために採捕され,使用済みとなったサケが販売されている.定置網で捕られたサケより,安価に売られるため,県内外から客が足を運んでくる.2024年には,稀少なサケを求め,直売所には前日の夜から並ぶ購入客も散見された.加えて,サケの不漁により十分な供給量を確保できず,購入できない客からのクレームが相次ぎ,組合はイベントへのメディア取材を制限せざるを得ない事態となった.さらに,岩手県沿岸地域の初等・中等教育機関では地域学習の一環で行われる「新巻鮭作り体験」にも影響が及んでいる.新巻鮭は元来,保存性を高めるため,河川で採捕されたサケ(川サケ)が利用されてきたが,現代では定置網で捕られたサケを利用することが多くなっている.津軽石地区では,地域の歴史も踏まえて組合が川サケを提供することで,地域文化の継承を目指している.しかし,昨今のサケの不漁は,組合から小学校への川サケの提供本数にも影響が出ている.新巻鮭作り活動は,東日本大震災以降の住環境の変化により,各家庭での伝承が困難になる中で,地域文化の継承において重要な役割を果たしてきた.特に小学校での体験学習は,子どもたちが地域の歴史や文化を学ぶ貴重な機会となってきた.サケの不漁は,こうした地域学習においても影響がみられるようになっている.津軽石地区では,海洋環境の変化がもたらしたサケの不漁に加え,コロナウイルスや自然災害などの外的要因が地域文化の継承に大きな課題を投げかけている.特に,地域のアイデンティティ形成や文化継承において重要な役割を果たしてきた様々な活動が縮小を余儀なくされており,これは単なる経済的な問題を超えて,地域社会の持続可能性そのものに関わる重要な課題となっている.