アジア経済
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
資料
ワクフに関するエジプト最高憲法裁判所 2008年違憲判決の解題および全訳
竹村 和朗
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2020 年 61 巻 4 号 p. 32-51

詳細
《要約》

本稿は,エジプトの最高憲法裁判所が2008年に言い渡した,1952年法律第180号の第3条に関する違憲判決を解題し,その全文翻訳を提示するものである。同法は,一般に「家族ワクフ」と呼ばれていた寄進財制度を廃止し,その財産を関係者に分配することを定めた。これは,相続の取り分に関わるため,広汎な社会層に争いを生み出し,そのうちのひとつが最高憲法裁判所にまで至ったのである。同法が制定されてから半世紀以上の時間が経過した後に,なぜこのような展開が生じたのだろうか。判決の影響力はどこまで及ぶのだろうか。本稿の解題部では,判決の資料的側面(第Ⅰ節),判決文から読み取られる家族ワクフをめぐる争いの実相(第Ⅱ節),そして違憲の判断を下した裁判官の論理(第Ⅲ節)を明らかにする。本稿の資料部では,同判決の内容を原形式のまま全訳し,解題部の議論が実際の判決文でどのように表現されているかを確認できるようにした。

Abstract

This paper examines a 2008 decision by Egypt’s Supreme Constitutional Court (SCC) ruling unconstitutional Article 3 of Law No. 180 of 1952 on the abolition of non-charitable waqfs, commonly known as family waqfs. This law ended the well-known practice of family waqfs, that is, granting the right to use one’s property in perpetuity to one’s family members and their descendants, a practice that was widely popular in Egyptian society at the time. The law also modified the manner in which the erstwhile waqf property was divided among its beneficiaries, which had previously been dictated by Law No. 48 of 1946. Thus, the new law led to disputes over the distribution of old waqf property among family members because it related to shares of inheritances. Why was such a decision reached so many decades after the law was enacted, and what has its effect been? The first part of this paper consists of explanatory notes on the decision from three perspectives: (1) an examination of the form and composition of the decision; (2) the reconstitution of family disputes over family waqfs as a result of the decision; and (3) an investigation of the logic of the SCC judges regarding the unconstitutionality of this law. The second part of the paper presents a Japanese translation of the decision, which was originally written in Arabic, and gives Japanese readers an opportunity to review the discussions in this paper and provides insight into the Egyptian legal system.

 はじめに

Ⅰ 本判決の資料的性格

Ⅱ 本判決の家族事情

Ⅲ 違憲判決の論理

 おわりに

はじめに

本稿は,エジプトの「最高憲法裁判所」(almaḥkama al-dustūrīya al-‘ulyā)がイスラーム的寄進・財産処分制度である「ワクフ(注1)」(waqf)に関する制定法のひとつ,1952年法律第180号の第3条について言い渡した違憲判決の解題と全訳を提示するものである。

同法は,正式には「非慈善ワクフ制度の廃止に関する1952年法律第180号布告」(marsūm bi-qānūn al-raqm 180 li-sana 1952 bi-intihā’ al-niẓām al-waqf ‘alā ghayr al-khayrāt)と題され,ワクフのなかでも「非慈善ワクフ」――ワクフ設定者の子孫を受益者とする点で「慈善を対象としない」(‘alā ghayr al-khayrāt)とみなされたもので,一般には「家族ワクフ」(waqf ahlī)と呼ばれる――を廃止した。同法は,1952年7月のクーデタ(「1952年革命」)直後に打ち出された農地改革を補い,旧支配者層の大土地所有を制限するために制定されたが,家族ワクフは,財産細分化の回避策として,大土地所有者のみならず,わずかな財産をもつ一般民衆にも用いられていたため,その影響は広く及んだ。同法第3条により,家族ワクフの廃止時にこれを設定したワクフ設定者が生きていれば,その財産は当人に戻されるが,当人が死亡していれば,「現存する受益者たち」(al-mustaḥiqqūn al-ḥālīyūn)に分配されると定められたため,ワクフの受益者を他の相続人に対し二重に優遇するもの(ワクフ受益者に選ばれたこと自体が優遇である上,その持ち分に応じてワクフ財を得ることができる)として不満の声があげられていた[Baer 1969, 88-89]。しかし,クーデタ直後の命令であり,農地改革という大義名分をもつことから,また,古いワクフほど潜在的権利者が多いため,関係者全員への分配は困難かつ非合理的という判断[Fu’ād 1952, 36-38]から,同法第3条はこのように定められ,実行された。

同法以後もワクフ財分配をめぐる争いや調停に関する法令は制定され(たとえば,廃止されたワクフの分割方法を定めた1958年法律第18号,ワクフ財分割に関する異議申し立て委員会を設置した1960年法律第55号など[Ḥassān and ‘Abd al-Hādī 2002]),同法が引き起こした影響を収める努力が払われた。ただし,1952年法律第180号による非慈善ワクフの廃止の効果そのものを否定する法令はなく,現在でも法令上は,ワクフは「慈善ワクフ」(waqf khayrī)――昨今では個人がモスクを建て,それをワクフ省の管理下に移したものが多い[Ghānim 2007]――に限られ,近年の憲法(2012年憲法,2014年憲法)でも「慈善ワクフ」のみが憲法条文に取り上げられている。現代エジプトにおいて,非慈善(家族)ワクフは,法制度と実際面のいずれにおいても「すでに終わった話」であるはずであった。

ところが,エジプトの国立印刷局(al-maṭābi‘ al-amīrīya)から出版されている『ワクフ法令集』[al-Bayyūmī and Bakrī 2014]をみると,そのなかに収録される同法の第3条に註が付され,「2008年5月4日開廷の司法暦23年最高憲法裁判所第33号判決が言い渡され,1952年法律第180号布告の第3条を違憲(‘adam dustūrīya)とする判断が示された。2008年5月19日付の『官報』第20号(追加)に掲載。本書巻末222頁に収録。」と記されている。1952年の法律制定から半世紀も後の2008年に,なぜ,このような違憲判決が言い渡されたのか。これには,すでに廃止され,分配された非慈善(家族)ワクフの関係者に実質的な影響を及ぼす力はあるのだろうか。これらが,筆者がこの判決を最初に発見したときに感じた疑問であった。

判決内容を読み,関連する法令にあたることで,これらの疑問に対する当座の答えを得ることはできる。最高憲法裁判所の設置法(1979年法律第48号)の第49条によれば,同裁判所の判決は,「あらゆる国家権力およびすべての者に対し拘束力をもち(mulzima)」,「違憲判決が下された法令条文は,別に定めのない限り,判決の言い渡しの日の翌日から,これを適用することができない(‘adam jawāz taṭbīqi-hi)」とある。この判決の場合,2008年5月5日以降は,同法第3条に則った法的手続きを行うことができないことになる。無論,1952年の同法施行からかなりの時間が経過しているため,同法の適用対象となる非慈善(家族)ワクフはもはや存在していない。また,別の文脈で生じた憲法第2条「シャリーア(イスラーム法)は立法の源泉」をめぐる憲法判断から,最高憲法裁判所の判決は過去に遡及しない原則が確立されているため[Lombardi 2006],この判決を受けて過去のワクフ財分配や分割がやり直されることもないだろう。実際,判決後に国会で第3条や同法が改正される動きもみられない。最高憲法裁判所に訴え出ることは,1990年代の政治・社会運動の文脈では数少ない有効な戦略のひとつであったが[cf. Moustafa 2007],この訴訟にそうした目的があるようにもみえない。一見したところ,本判決は,実質的な力をもたない,形式的な判決のひとつのようであった。

しかしながら,本判決文には,現代エジプトの社会と司法の実態を知るための重要な手がかりが2つ隠されている。

第1に,最高憲法裁判所の判決文からは,これまで明らかにされてこなかった家族ワクフに関する訴訟の内容や原告の主張,裁判に至った具体的な状況を読み取ることができる。後述するように,もととなった家族ワクフは1923年に設定され,訴訟は1990年に起こされた。2008年の違憲判決まで,最初のワクフ設定から実に80年以上の時間が経過していることになる。エジプトにおいて,過去の家族ワクフの文書や判決を入手・閲覧することは容易ではない(注2)。本判決は,これらの資料にもとづき最高憲法裁判所の裁判官たちが書いたという意味では「二次資料」ではあるが,普段は窺い知ることができない家族ワクフの設定やその争いの実相を示している。この点で,本判決はエジプト社会と司法に接近するための窓口となる。

廃止された家族ワクフの財産をめぐって親族間の争いが数多く引き起こされたことは知られているが,個々の事例の詳細,すなわち誰が誰とどのような理由で争い,どのように解決され,または,解決されなかったかは,ほとんど公にされていない(注3)。本判決には,1920年代に設定された家族ワクフに関わる具体的な人名,当時の状況,後世の親族間の争いの様子が事細かに描かれている。問題となった家族ワクフは,ナイル川上流の上エジプト地方の小規模な土地で,家族ワクフ制度の利用がそこまで広がっていたことを示唆する。地方のありふれた家族ワクフが,1952年の廃止により財産分配の争いを生み,裁判,さらには憲法審査にまで至る過程を具体的に示したところに,本判決の第1の資料的価値がある。

第2に,本判決には,2000年代の最高憲法裁判所の裁判官がどのような論理で「憲法に反する」という判断を下したかをみることができる点に,司法研究資料としての価値がある。この訴訟を起こした原告またはその代理人は,その訴訟手続きの途上で,ワクフ財分配に関する不服の訴えから,ワクフ財分配に関する法律条文の瑕疵の訴えに切り替え,ついには最高憲法裁判所への上告を果たした。これにより,現代エジプト司法の最高峰のひとつである最高憲法裁判所の裁判官が,ワクフというイスラーム的制度に関わる法規定について判断を下さなければならなくなった。裁判官たちはワクフの意義や宗教的性格には一切触れることなく,第3条が憲法に則しているかどうかという憲法的観点のみから判断したが,彼らの判断をどのように評価できるだろうか。2000年代のエジプト司法の手続きと論理,法に対する考え方を示していることが,本判決の第2の資料的価値である。

これら2点を踏まえ,以下,本判決について3つの側面から解題を行う。第Ⅰ節では,本判決の資料的性格,すなわち資料の入手方法や翻訳の底本,内容構成を示す。第Ⅱ節では,判決に書かれた情報にもとづき,問題となった家族ワクフの状況を再構成する。第Ⅲ節では,最高憲法裁判所裁判官による違憲判断の論理を検証する。

Ⅰ 本判決の資料的性格

本判決には2つの「原本」がある。先述した通り,国立印刷局による『ワクフ法令集』の巻末に,その全文が掲載されている。こちらを「原本A」と呼ぼう。同局は官報を刊行する行政機構で,テーマごとに法令や最高憲法裁判決を集めて出版しており,その数は200を超える。『ワクフ法令集』もそのひとつである。筆者は,『ワクフ法令集』で原本Aを先に閲覧した。その後,これと細部が異なる版,「原本B」を,エジプトの民事・刑事事件を扱う通常裁判所の最高裁にあたる「破棄院」(maḥkama al-naqḍ)の公式ウェブサイトから入手した。同サイトでは,エジプト国内の法令,破棄院の判決,議会議事録や官報,最高憲法裁判所の判決を閲覧することができる(注4)。そこでは,「司法暦(注5)」(al-sana al-qaḍā’īya)と「事案番号」(raqm al-qaḍīya),「事案検索」(baḥth ‘an mawḍū‘ tashrī‘)の内容やキーワード,「公布日検索」(baḥth ‘an tārīkh al-nashr)から判決や法令を検索することができる。本判決の事案番号は「司法暦23年第33号」で,「2008年5月4日」(日曜日)に言い渡されたものであった。

理由は不明だが,これら2つの原本には順序や形式,文字フォントに若干の違いがある。たとえば,原本Bでは,裁判官の人員構成に続き,「違憲性の疑い」がある項目が列挙され,その後「手続き」(al-ijrā’āt)と「判決」(al-maḥkama),そして最後に「以上の理由をもって」(fa-li-hādhā al-asbāb)を見出しとして内容が記される。他方,原本Aには「違憲性の疑い」の項目がなく,裁判官の人員構成,司法暦と事案番号に続いて,原本Bにない「原告」と「被告」の実名入りの人員構成(各22名,計44名)が記載され,その後に「手続き」,「判決」,「以上の理由をもって」を見出しとする内容が続く。

どちらがオリジナルに近いかの判断は難しいが,翻訳にあたっては原本Aを「底本」とした。その理由は実名表記にある。一般にエジプト人の名前は,本人の名・父の名・祖父の名・曽祖父の名というように父方の祖先の名前を連ね,末尾に高名な先祖名や家名,部族名,出身地域名を組み合わせる形をとる。現代では,行政上の要請により名を3~4つに限定し,固定することが求められるが,社会的慣行としては複数の名や通称を用いたり,名前の組み合わせを変えたりすることがある。本判決の情報は裁判記録であるので行政的に確認された名前だと考えられる。そしてこの名前の並びから,原告や被告の家族関係を推定することができる。たとえば,原告の冒頭には,以下2人の名が挙げられる。

 故/イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュの相続人:

 1. ムスタファー・イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュ氏

 2. アズィーザ・イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュ氏

原告の1番と2番の名前は,頭の「ムスタファー」と「アズィーザ」以外,違いがない。つまり,この2人はともに被相続人である「イブラーヒーム」の子どもたちで,1番「ムスタファー」が男性名,2番「アズィーザ」が女性名なので,2人は男と女のキョウダイ(注6)であると推定される。「ジャーウィーシュ」が祖先名か,家名や一族名かは確定できないが,1番の名は,「ジャーウィーシュの息子のサアドの息子のムハンマドの息子のフサインの息子のイブラーヒームの息子のムスタファー」となる。本判決のもととなった家族ワクフの設定者は「フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュ」(以下,フサイン)であるので,1番と2番は,ワクフ設定者の息子の子,すなわち孫ということになる。

女性も父方の祖先の名をもち,婚姻時の変更もないので,人名から父子,キョウダイ,婚姻関係を推定することができる。たとえば,原告の第3~7番には以下の名が記されている。

 故/ファウズィーヤ・イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュの相続人:

 3. アーティフ・ムスタファー・サブリー氏

 4. ヤフヤー・ムスタファー・サブリー氏

 5. フサイン・ムスタファー・サブリー氏

 6. フダー・ムスタファー・サブリー氏

 7. ムスタファー・サブリー・アブドゥルアズィーム氏

被相続人である「ファウズィーヤ」は名前の並びから,原告1・2番の女キョウダイであると考えられる。これに対して第3~7番の名は,原告1・2番や「ファウズィーヤ」と一致するものがなく,「ムスタファー・サブリー」という名のみが共通している。原告3~6番の「アーティフ」「ヤフヤー」「フサイン」「フダー」の3男1女はキョウダイで,おそらく原告7番に名を連ねている同名の「ムスタファー・サブリー」の子どもたちではないか。これら5人が「ファウズィーヤ」の相続人であることから,筆者は,原告7番が故人である「ファウズィーヤ」の夫で,原告3~6番が7番と故人の間の子だと推定した。

このようにして本判決に記された合計44名の名前から相互の家族関係を推定していき,作成した家系図が図1である。2008年の違憲判決の時点で死亡していると考えられる人間にはスラッシュを引き,婚姻関係が明らかなもの以外は,父子関係とした。

図1 判決から推定される家族関係

(出所)筆者作成。

この家系図が現実の家族関係を正確に反映している保証はない。名前の並びから関係性が想像できず,家系図に含められなかった者もいる。また,名前の並びから推定された情報であるため,母子情報が不足し,母親を特定できない点も大きな欠点である。エジプトでは法制上,一夫多妻が許されているため,父が同じでもキョウダイの母がひとりとは限らない。これらの点は本判決の考察に一定の留保を課すが,さしあたり図1からは,原告が右側に,被告が左側に偏っていることをみて取ることができるだろう。この家族ワクフをめぐる争いは,フサインの子孫,つまりフサイン一族の間の争いなのである。

Ⅱ 本判決の家族事情

まず,2008年の違憲判決から読み取られる家族ワクフの状況を整理する。

1923年に「ミンヤー(ミニヤ)・シャリーア区裁判所(注7)」(maḥkama al-minyā al-juz’īya al-shar‘īya)に登録された「ワクフ文書」(al-ḥujja)によれば,フサインは,3人の息子イブラーヒーム,アブドゥッラフマーン,ハサンを受益者として,彼らの間で平等に家族ワクフを設定した。管財人は自身とし,死後は3人の内の最も適した者に任せるよう定めた。ところが,翌年息子のひとりハサンが死亡したことで,フサインの心境に変化が生じたようである。フサインは条件を変更し,残る2人から2キーラートずつ取り上げ,死亡したハサンの分と合わせて取り上げた12キーラートについて自身を受益者と定め,自身の死後には,別の息子アブドゥルハミードとアブドゥルガニーに両者の間で平等に与えることにした。ハサンの死の原因が何だったのか,持ち分を取り上げられた2人の兄弟と,新たに与えられることになった2人の兄弟の関係がどのようなものかは,判決文からは読み取れない。

ここで言う「キーラート」(qīrāṭ)とは,エジプトの土地面積単位で,1フェッダーン(faddān, 4200.833m2)の1/24(175.035m2)に相当する。1923年のワクフ文書には「彼らの間で平等に」としか書かれていないので持ち分や規模は不明だが,1924年の変更時にフサインがイブラーヒームとアブドゥッラフマーンから2キーラートずつ取り上げ,死亡したハサン分と合わせて12キーラートを得たという記述から,息子たち3人は当初8キーラートずつ与えられていたことがわかる。仮にキーラートが文字通り土地面積であれば,ワクフ財全体は1フェッダーンの土地(農地または市街地)である。仮にこれが1/24という全体における比率を指すとすれば,1923年には3人の兄弟が8/24(つまり1/3)ずつもっていたが,1924年にフサインが12/24(1/2)を自身のものとし,死後は別の息子2人に6/24(1/4)ずつ与え,残りはイブラーヒームとアブドゥッラフマーンが6/24(1/4)ずつもっていたことになる。

3年後の1927年に話は急転する。フサインはワクフ文書を再び変更し,イブラーヒームとアブドゥッラフマーンから持ち分すべてを取り上げて自身のものとし,死後はアブドゥルハミードとアブドゥルガニーに15キーラート(5/8)と9キーラート(3/8)ずつ与えるようにした。フサインが最初の2人から持ち分を取り上げ,別の2人に移し,しかも15対9(5対3)という差をつけて与えた理由もまた,判決文からは読み取ることはできない。

翌年の1928年にフサインは死亡し,ワクフ文書の通り,アブドゥルハミードとアブドゥルガニーの2人が持ち分に応じた受益者となった。そして1952年法律第180号が施行され,フサインの家族ワクフも廃止された。同法第3条によれば,ワクフ設定者が死亡している場合には,「現存する受益者」が各自の持ち分に応じて当該ワクフ財の所有権を得る。判決の記述によれば,アブドゥルハミードとアブドゥルガニーの2人がその権利を得た。したがって,フサインの5人の息子の内,2人だけがワクフ財の権利を得ることができ,残る3人(とその相続人たち)はこれを得ることができなかった。この点が後の争いの原因となったのである。

1959年には受益者のアブドゥルハミードが死亡した。同年,受益者でなかったアブドゥッラフマーンも死亡し,その相続人も翌年死亡した。彼の血統はここで途絶えたようである。

訴訟が起こされたのは約30年後の1990年であった。その理由について判決文に記述はないが,原告の筆頭が,受益者でなかったイブラーヒームの息子ムスタファーであることから,おそらく親(イブラーヒーム)の死をきっかけに相続問題が蒸し返されたのではないかと推測される。原告らは,日本でいう地方裁判所にあたる「ミンヤー始審裁判所」(maḥkama al-minyā al-ibtidā’īya)の身分関係部(注8)に訴え,フサインの家族ワクフが5人の息子に公平に分配されなかったとして,受益者であったアブドゥルハミードの息子のアブドゥッラウーフ(ただし訴訟後に死亡したようで,2008年の違憲判決では被告の筆頭はアブドゥッラウーフの息子のアブドゥルハミードに代わっている)を相手取り,「フサインのワクフ財全体の1/5」と「アブドゥッラフマーン分の1/4」を請求した。「フサインのワクフ財全体の1/5」とは,ワクフ財を5人兄弟全員で平等に分けたときの1人分で,自身の父イブラーヒームの持ち分を求めたものであろう。「アブドゥッラフマーン分の1/4」とは,彼が相続人を残さなかったので,その分を残った兄弟4人で均等に分けたイブラーヒームの持ち分と考えられる。これらを合わせると全体の1/4に相当する。つまり原告は,フサインのワクフ財を残った兄弟4人で均等に分けた場合と同様の取り分を請求したのである。

7年後,同裁判所は原告の主張を棄却した。しかし原告はただちに「バニー・スワイフ(ベニー・スウェーフ)控訴院」(maḥkama al-isti’nāf banī suwayf)に控訴した。その過程で,本事案は最高憲法裁判所に送付されることになった。原告は,どのような経緯からかわからないが,「私の相続権を保障せよ」という自己権益の主張から,「個人の相続権を守らない法律に不備がある」という法律の瑕疵に関する主張に切り替えたようである。この変更は功を奏し,最高憲法裁判所の裁判官がその判断に取り組むことになった。

Ⅲ 違憲判決の論理

エジプトの最高憲法裁判所は,1971年憲法の第174~178条で言及され,1979年法律第48号により設置された,同国では比較的新しい裁判所である。エジプト司法は,民事・刑事事件を扱う通常裁判所と,行政訴訟を扱う行政裁判所の二系統に大別されるが,最高憲法裁判所はこれら二系統のいずれにも属さず,「法令の合憲性判断」のみを管轄とする。統治基本法である憲法に即して法律の審理を行うため,国内政治への影響力は小さくなく,エジプト司法機関の最高峰のひとつに数えられる。

最高憲法裁判所に上告する経路は2つある。第1は,訴訟当事者が個人的利害関係を有する法律の審査を要求する方法であり,こちらが事案の大半を占めると言われる[El-Morr, Nossier, and Sherif 1996, 47-48]。第2は,個人の請求によらず,裁判所が職権により合憲性判断を行う方法である。本判決は,第1の経路と考えられる。本判決には受理の年が書かれていないが,事案番号が司法暦23年であるので,司法暦元年が1979年9月からとすれば2003年頃であろう。それから約5年後の2008年に,違憲判決が言い渡された。

判決では,まず1946年法律第48号の第17・18条と第56条,1952年法律第180号の第3・5・9条に関する違憲性の有無が検討された。

1946年法律第48号は,「ワクフの規定に関する1946年法律第48号」(qānūn raqm 48 li-sana 1946 bi-aḥkām al-waqf)と題し,エジプトにおけるワクフの手続きや効果を定めた法律で,現在でも有効である。同法によって「慈善ワクフ」と「非慈善ワクフ」が区別された。イスラーム法学上,ワクフは「無期」とされていたが,非慈善(家族)ワクフを制限するため1946年法律第48号の第5条では,非慈善(家族)ワクフは必ず有期とし,その上限は「受益者の2世代または60年まで」と定めた。他方,慈善ワクフの設定者は期間の有無を選ぶことができるが,モスクは必ず無期とされた。この期間規定から「ワクフの終了」が想定され(第16条),「終了したワクフ財」の返還規定が作られた(第17条)。

第17条によれば,終了したワクフ財は設定者が生きていれば,設定者本人に返還される。当人が死亡している場合には,受益者が同法第24条で規定される「遺留分権利者」(dhawī al-ḥiṣaṣ al-wājiba),すなわち設定者の相続人である子,配偶者,父母であるかどうかにより返還先が異なる。受益者が遺留分権利者であるときには,ワクフ財の権利はまずその受益者またはその後二代目までの子孫に移り,これらの者がいなければ他の相続人に移転し,これもいなければ国庫に入る(第17条第1項)。受益者が遺留分権利者でないときは,ワクフ財は設定者の相続人に移り,これらがいなければ国庫に入る(同条第2項)。同法第24条によれば,設定者の全財産の「1/3」を超える規模のワクフについては,「請求権」(al-istiḥqāq)が遺留分権利者に認められる。この点は相続規定と関係がある。

エジプト相続法(1943年法律第77号)の第4条によれば,相続対象となる財産は,被相続人の葬儀費用や負債,遺贈指定分を差し引いた残余である。「遺贈」(waṣīya)とは,遺贈法(1946年法律第71号)の第76条によれば,遺言により被相続人の死亡後に効力が発生する贈与で,遺産分割より先に執行されるが,遺贈指定分が法的に保護されるのは全財産の「1/3」までである[Buḥayrī and Abū Dunyā 2015]。1946年法律第48号の起草時の議論によれば,「個人の死後の財産処分は,ワクフと遺贈を合わせて全財産の1/3までとすることがイスラーム法で決まっている」とされ,この範囲を超えた場合には,「子,配偶者,父母」という近しい相続人に請求権が与えられた[Anderson 1952, 267]。第17条は,ワクフ財の返還において受益者とその他のすべての相続人のいずれを優先するかという問題を,「1/3までは自由に処分できる」という相続規定と適合する形をとったことになる。

1952年法律第180号の第3条の規定はこれとは異なる。第3条では,設定者がすでに死亡している場合には,当該ワクフ財の権利は,「現存する受益者」に各自の持ち分に応じて移り,これらが死亡しているときは,その相続人に移転すると定められた。これにより,1946年法律第48号のように受益者が「遺留分権利者」かどうかを考慮する必要がなくなり,いわば「現存する受益者」以外の多くの者の権利を無視して,迅速に,ワクフ財の返還と分配を行うことが可能になった。1952年法律第180号の第3条の規定が先行する1946年法律第48号の第17条と異なることは知られていたが,手続きの迅速さを重視し,「現存する受益者」が優先された。立法者のこの判断が,半世紀後に改めて問われることになったのである。

その他に検討された1946年法律第48号の第56条は,同法規定が同法施行前に設定されたあらゆるワクフにも適用されるが,同法第5条の第1・2・3項,第8条,第11・12条,第16・17条は適用を除外するという内容である。これによれば,1923年に設定されたフサインの家族ワクフには,1946年法律第48号の第17条が適用されないので,1952年法律第180号が判断基準となる。1952年法律第180号の第5条はシャリーア裁判所に保管されるワクフ財の返還方法を記すものであったため,本件との関連性が薄いとみなされた。同法第9条は「本法に反するすべての規定は無効である」というもので,憲法判断の根拠とはならないとみなされた。これらすべてを検討した後に疑いが残ったのが,終了したワクフ財の返還先を「現存する受益者」のみに限定した1952年法律第180号の第3条であった。

判決では,裁判官は違憲審査手続きに則り,裁判で国家の代理人を務める「訟務検事庁」(hay’a qaḍāyā al-dawla)による弁護を検討した上ですべて退けた後,審理の対象となる1952年法律第180号の第3条が,憲法第34条に定められる私的所有権の保護に反すると指摘した。当時の憲法は1971年憲法で,その第34条には,私的所有権の保護と強制収用の濫用の禁止,相続権の保障が明記されていた。私的所有権の上に立つ相続権の保護を1952年法の第3条の違憲判断の理由として,判決は以下のように述べる。

相続権に関する憲法の保障は,被相続人の遺産に対する法定相続人の権利が,過不足なく各自の持ち分によりすべての権利者に移転されることを意味する。同様にこれは,被相続人が,相続人――またはその他の者――に対する遺贈が認められる範囲を除き,遺産について認められた権利を侵害するほどの持ち分を単一の相続人に与えることができないことを意味する。よって,立法者がこれに反した場合には,すべての相続人に認められる遺産を得る権利を保護する私的所有権への敵対行為であり,相続権を保障する憲法第34条に対する違反となる。[al-Bayyūmī and Bakrī 2014, 232, 下線は引用者による]

ここには,私的所有権と相続権が憲法によって保障される基本的権利であること,そして被相続人が自由に処分できるのはワクフと遺贈を合わせて遺産の1/3までという相続規定を超える権限をワクフ受益者に与えたのは,1952年法律第180号の立法者の過ちであり,立法権の濫用,すなわち憲法違反であるという論理が示されている。こうして最高憲法裁判所の裁判官たちは,第3条が憲法によって保障された相続権を侵害するものとみなし,これを違憲とする判断を下した。「法令の合憲性判断」を担う同裁判所としては,適切な理由と論理にもとづく,妥当な判断だったと言えるかもしれない。しかしながら,その判断の傍らで語られなかったいくつかの事柄がある。これらについて指摘しておきたい。

第1に,違憲判決は,当該規定の以後の執行を妨げるが,過去には遡及しない。また,原告は,1952年法律第180号の第3条が憲法に反しているという主張を勝ち取ったが,当初求めていたワクフ財分配のやり直しに関する勝訴判決を得たわけではない。したがって,原告には,本判決から得られる直接的な法的効果はない。本判決文のなかでも原裁判に与える影響は何ら言及されていなかった。原告は,言わば「試合に勝って勝負に負けた」のである。

第2に,本判決では,憲法上の私的所有権の保護を重視し,1952年法律第180号の第3条の規定を「私的所有権への敵対行為」,「憲法に対する違反」と呼んだ。しかし文中には,同法の立法者に対する批判はもとより,半世紀以上にわたり憲法違反の状態が続いてきたことへの批判や反省,立法府に対する法改正の期待は,一切書かれていない。この点において,裁判官たちは非常に自制的であり,非政治的な立場を保っていた。最高憲法裁判所の判決の政治的影響力は小さくないが,ここではむしろ最小化されている。

第3に,本判決ではワクフというイスラーム的制度が扱われたが,法的解釈の中心は,憲法上の私的所有権や相続法の問題であった。この訴訟がワクフに含まれる宗教的要素を直接問うものではなかったという点を差し引いても,ワクフに関するこのような「世俗的」な議論が可能になったのは,ワクフがすでに1946年法律第48号という制定法によって規定され,1952年法律第180号という別の制定法によって一部が変更されているという,制定法の積み重ねの上に成り立っているからである。この意味で本判決は,現代エジプトにおける法の議論が,「宗教か世俗か」という文明論的二項対立をはるかに超えて,複雑に展開していることを示している。

おわりに

本稿は,エジプト最高憲法裁判所が2008年に言い渡した1952年法律第180号の第3条に対する違憲判決を解題したものである。資料部には判決の全訳を付した。第Ⅰ節では,本判決の資料的性格を検討し,関係者の実名が含まれる原本を底本として訴訟当事者の親族関係を推定した。第Ⅱ節では,判決文の記述をもとに1920年代の家族ワクフ設定の事情とその後の経過,そして1990年の訴えから控訴審,最高憲法裁判所に至る道筋を辿った。第Ⅲ節では,最高憲法裁判所が訴えを検討し,1952年法律第180号の第3条に憲法上の「相続権の保障」に反する点があることを見出した論理とその含意を論じた。

本判決は,家族ワクフの用いられ方,1952年法による廃止とそれによって起きた親族間の争いの様子,最高憲法裁判所裁判官の思考など,ワクフ法の運用実態について多くを伝える。原告が訴訟を起こし,その中で憲法上の問題を主張することがなければ,そして最高憲法裁判所の裁判官がそれを真摯に受け止め,検討することがなければ,この貴重な資料が世に出ることはなかっただろう。エジプト司法における情報公開は未だ限定的であるが,その内部では多くの事例が積み重ねられてきている。これらを掘り起し,繙いていくことで,現代エジプトの社会と司法の実態解明をさらに進めていきたいと考えている。

(高千穂大学人間科学部准教授,2019年3月14日受領,2020年6月12日レフェリーの審査を経て掲載決定)

資料 エジプト最高憲法裁判所による2008年違憲判決の全文翻訳

 人民の名において最高憲法裁判所は(*)

西暦2008年5月4日,日曜日,ヒジュラ暦1429年ラビーウ・アーハル月28日に開廷された公開の裁判において,

  • 裁判長……判事/マーヒル・アブドゥルワーヒド氏
  • 裁判官……判事/マーヒル・ブハイリー氏,判事/アンワル・ラシャード・アースィー氏,判事/マーヒル・サーミー・ユースフ氏,判事/ムハンマド・ハイリー・ターハー氏,判事/サイード・マルイー・アムル氏および判事/タハーニー・ムハンマド・ジバーリー氏
  • 調査局局長……判事/ハムダーン・ハサン・ファフミー博士の臨席により
  • 書記官……ナースィル・イマーム・ムハンマド・ハサン氏の臨席により

 以下の判決を言い渡す

バニー・スワイフ控訴院「ミンヤー管区」における「個人」司法暦23年第84号控訴から移送され,「憲法」司法暦23年第33号として最高憲法裁判所台帳に登録された本件において,

 〔訴えは〕以下の者により提起された

故/イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュの相続人:

  • 1. ムスタファー・イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュ氏
  • 2. アズィーザ・イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュ氏

故/ファウズィーヤ・イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュの相続人:

  • 3. アーティフ・ムスタファー・サブリー氏
  • 4. ヤフヤー・ムスタファー・サブリー氏
  • 5. フサイン・ムスタファー・サブリー氏
  • 6. フダー・ムスタファー・サブリー氏
  • 7. ムスタファー・サブリー・アブドゥルアズィーム氏
  • 8. アミーナ・イブラーヒーム・フサイン・サアド・ジャーウィーシュ氏
  • 9. アフマド・イブラーヒーム・フサイン・サアド・ジャーウィーシュ氏
  • 10. ムハンマド・イブラーヒーム・フサイン・サアド・ジャーウィーシュ氏
  • 11. アリー・イブラーヒーム・フサイン・サアド・ジャーウィーシュ氏

故/バヒーヤ・アリー・ハサンの相続人:

  • 12. ムハンマド・イブラーヒーム・フサイン氏
  • 13. スアード・アブドゥッラフマーン・アリー氏

故/スアード・イブラーヒーム・フサインの相続人:

  • 14. ファーティマ・ムハンマド・バダウィー・ドゥスーキー氏
  • 15. ムニーラ・ムハンマド・バダウィー・ドゥスーキー氏
  • 16. ナビーラ・ムハンマド・バダウィー・ドゥスーキー氏
  • 17. リダー・ムハンマド・バダウィー・ドゥスーキー氏
  • 18. アリー・ムハンマド・バダウィー・ドゥスーキー氏
  • 19. ザイナブ・ムハンマド・バダウィー・ドゥスーキー氏
  • 20. ムハンマド・ムハンマド・バダウィー・ドゥスーキー氏
  • 21. ウィダード・ハサン・イブラーヒーム氏
  • 22. ナイーマ・ハサン・イブラーヒーム氏

 以下の者に対して

故/アブドゥッラウーフ・アブドゥルハミード・ジャーウィーシュ氏の相続人:

  • 1. アブドゥルハミード・アブドゥッラウーフ・アブドゥルハミード・ジャーウィーシュ氏,本人および故/フサイン・ムハンマド・サアド〔・ジャーウィーシュ〕の遺産管理者として
  • 2. アラーウッディーン・アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー氏
  • 3. アーイシャ・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏
  • 4. アリーヤ・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏
  • 5. アブドゥルガニー・アブドゥルファッターフ氏
  • 6. ワクフ大臣
  • 7. ミンヤー郡・市議会における地方単位長
  • 8. 初等教育省次官
  • 9. カミリヤー・フサイン・イブラーヒーム氏
  • 10. ムハンマド・ハーズィム・フサイン・イブラーヒーム氏
  • 11. ハサン・フサイン・イブラーヒーム氏
  • 12. ワクフ庁長官

故/フサイン・アブドゥルハミード・ジャーウィーシュの相続人:

  • 13. ライニーヤ・ファヒーム・サラーマ氏
  • 14. ターミル・フサイン・フサイン・アブドゥルハミード・ジャーウィーシュ氏
  • 15. 綿花商業開発株式会社代表取締役
  • 16. ザキーヤ・サイイド・ムハンマド氏

故/アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュの相続人:

  • 17. アッザ・アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏
  • 18. アーディル・アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏
  • 19. マフムード・サギール・ハムディー・アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏
  • 20. ファーティマ・アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏
  • 21. サイイド・アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏
  • 22. ムハンマド・アブドゥッサラーム・アブドゥルガニー・フサイン・ジャーウィーシュ氏

 “手続き”

2001年1月24日に,身分関係「個人」司法暦33年控訴第84号に関する上告書が,本〔最高憲法〕裁判所事務局に受理された。これは,バニー・スワイフ控訴院「ミンヤー管区」が非慈善ワクフの廃止に関する1952年法律第180号の第3・5・9条,およびワクフ規定に関する1946年法律第48号の第17・18条に関する控訴審の停止と最高憲法裁判所への書類移送を定めた後のことである。

上告人は,事実関係の訴えにおいて2つの覚書を提出し,そのなかで前出条文の違憲判決を請求した。他方,訟務検事は覚書を提出し,そのなかで一義的に上告の却下の判断を,予備的に上告の棄却の判断を請求した。

本件の〔書類〕準備後,〔最高憲法裁判所〕調査局は,その見解を報告書にまとめた。

本件は,裁判議事録に記された方法により審理された。〔最高憲法〕裁判所は,本日の法廷において本件の判決言い渡しを決定した。

 “判決”

書類および証拠の検討後,

本件の事実関係は――〔最高憲法裁判所への〕移送決定および全書類の内容によれば――以下の通りである。故/イブラーヒーム・フサイン・ムハンマド・ジャーウィーシュ,故/ハサン・イブラーヒーム・フサイン,および故/スアード・イブラーヒーム・フサインの相続人は,身分関係「個人」に関する1990年訴状第243号をミンヤー始審裁判所に提出し,故/アブドゥッラウーフ・アブドゥルハミード・ジャーウィーシュ――本人および故/フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュの遺産管理者として――,ワクフ大臣,ならびにワクフ庁長官に対し,訴状に記されたワクフ財全体の5分の1の権利,および故/アブドゥッラフマーン・フサイン・ムハンマド・ジャーウィーシュ分の4分の1の権利,ならびに,これら二つの取り分けおよび引き渡しを請求した。訴状は以下の通りである。原告団および被告1番の被相続人である故/フサイン・ムハンマド・サアド・ジャーウィーシュは,1923年12月16日にミンヤー・シャリーア区裁判所〔ワクフ〕文書第8号により,同文書および本件訴状に記された財産を,息子イブラーヒーム,アブドゥッラフマーン,ハサンの3人を受益者とするワクフとして設定した。そこでは,3人を平等な受益者とし,次いで彼らの息子および子孫に対し,世代から世代へ,子孫から子孫へ,上の世代から下の世代へと移るようにした。フサインは,自身の生存中は自らワクフ管財人となり,死後はこれら息子の中の最も適した者を管財人とする条件を設定した。受益者の最後〔ハサン〕が1924年に死亡すると,設定者〔フサイン〕はワクフ文書を変更し,2人から2/24ずつを取り上げ,12/24を自らを受益者とするワクフとして設定し,死後は息子アブドゥルハミードとアブドゥルガニーの2人を平等な受益者とするようにした。後にフサインは,1927年同裁判所〔ワクフ〕文書第15号により,息子イブラーヒームとアブドゥッラフマーンの持ち分を完全に取り上げた。これにより,同ワクフは――設定者の死後――,彼の2人の息子アブドゥルハミードとアブドゥルガニーに15/24と9/24ずつ権利を与えるものとなった。その後1928年1月26日に設定者〔フサイン〕は死亡した。非慈善ワクフの廃止に関する1952年法律第180号布告により,同ワクフの所有権は同法公布時に現存する受益者〔アブドゥルハミードとアブドゥルガニー〕に持ち分に応じて移転されることになった。その後,1959年にアブドゥルハミードが死亡した。彼は,被告1番〔アブドゥルハミード・アブドゥッラウーフ・アブドゥルハミード〕の被相続人である。同じく1959年にアブドゥッラフマーンが死亡し,1960年には彼の相続人が死亡した。原告の権利,および彼らとワクフ設定者との関係性が合法的な相続規定により立証される場合には,原告にはこれらの相続を請求する権利がある。すでに彼らはその趣旨の判決を求めて訴えを起こした。〔ミンヤー始審〕裁判所は,1997年5月26日の法廷において,この訴えを棄却した。設定者が1927年の文書第15号により原告の被相続人〔イブラーヒーム〕をワクフ受益者から外したため,原告にはワクフ財に対する権利がないこと,また原告が権利を請求するワクフは,ワクフ廃止リストの登録で確認された通り,すでに被告の占有下にあるからである。原告はバニー・スワイフ控訴院「ミンヤー管区」に対し,「身分関係・個人」司法暦33年控訴第84号を申し立てた。同控訴院は,非慈善ワクフの廃止に関する1952年法律第180号の第3・5・9条,およびワクフ規定に関する1946年法律第48号の第17・18条に,違憲性の疑いを見出した。そこで同控訴院は,2001年1月16日に開かれた法廷において,控訴審の停止および条文審理のための最高憲法裁判所への移送を定めた。

ワクフ規定に関する1946年法律第48号の第17条は,以下のように定める。

  •  第24条により遺留分権利者を受益者とするワクフの全部または一部が終了した場合には,終了したワクフは,設定者が生存しているときにはその者の所有物となり,生存していないときには,状況により,受益者またはその第一・第二世代の子孫の所有物となる。いずれも生存していないときには,設定者の死亡の日におけるその相続人の所有物となる。相続人がいないときには,国庫に属する。

     遺留分権利者以外の者を受益者とするワクフの全部または一部が終了した場合には,終了したワクフは,設定者が生存しているときにはその者の所有物となり,生存していないときには,設定者の死亡の日におけるその相続人の所有物となる。設定者に相続人がいないとき,または相続人がいたが途絶したときには,国庫に属する。

同法第18条は,以下のように定める。

  •  ワクフ財の全部または一部が損傷し,損傷の営繕または買い替えが明らかに不可能である場合には,受益者は,収益における些少でない持ち分権が保障され,ワクフが終了するまでの長い期間中に収益を得られないことを理由に損害を被らないようにする。いずれかの受益者の持ち分においてワクフが終了した場合には,収益からの取り分は少額になる。

     ワクフの終了は,申し立て人の請求にもとづき,裁判所の決定による。

     終了したワクフは,設定者が生存している場合には,設定者の所有物となる。設定者が生存していない場合には,ワクフ終了の規定に従い,受益者の所有物となる。

同法第56条は,以下のように定める。

  •  本法の規定は,第5条第3項,第8条,および第11条における変更の有効性に関する条件,第12条における10条件の有効性,ならびに第16・17条の規定を除き,本法の施行より前に設定されたすべてのワクフに適用される。

非慈善ワクフの廃止に関する1952年法律第180号の第3条は,以下のように定める。

  •  前条に記された状況により終了したワクフは,設定者が生存し,かつワクフの撤回権を有する場合には,その者の所有物となる。設定者が生存していない場合には,ワクフの所有権は,現存する権利者に,各自の権利上の持ち分に応じて移される。ワクフ〔の権利者〕が複数世代にわたる場合には,所有権は,現存する権利者,およびすでに死亡した権利者の子孫に,各自の持ち分または各自の元本の持ち分に応じて移される。

     持ち分の特定は,前出の1946年法律第36・37・38・39条に記される規定に従う。

同法の第5条は,以下のように定める。

  •  前出の諸条項に記された原則は,裁判所倉庫に預託された代替財,および営繕または改善のため取り分けられたワクフの純収益に適用される。

     これら財物および受益者のためにワクフ設定されていた財物は,受益者のいずれかの請求にもとづき引き渡される。受益者の収益,および追奪請求権における持ち分は,引き渡し請求におけるワクフ管財人に対する証書となる。ワクフ財のなかに慈善を目的とする部分がある場合には,ワクフ管財人は,そのワクフ財の引き渡しにおいて,残りの所有者と協同する。

     ワクフ財は,引き渡しが完了するまで,その保持および運営のため,ワクフ管財人の占有化に置かれる。ワクフ管財人は管理者の資格を得る。

     あらゆる場合において,民法第825条から第850条における共有の規定は,前出の諸条項を遵守し,適用される。

同法第9条は,以下のように定める。

  •  本法の規定に反するすべての条文は取り消される。

直接的な個人的利益は――〔最高〕憲法〔裁判所〕における上告受理の要件であるが――,事実関係の争いを引き起こす他者の利益との間に論理的関連性をもつことを条件とする。よって,本裁判所が判断を求められる憲法問題の審理は,個人的利益と事実関係の求めが結びついた事件の審理において必要となる。事実関係の訴えにおける原告の求めの核心は,設定者が1923年に文書を登録し,1927年に変更し,1928年に死亡した際に生じた相続分の請求にある。原告は,非慈善ワクフの廃止後,自身の相続分を得る権利を奪われ,ワクフ財の権利はその時点で権利をもつ者に渡り,設定者の残りの相続人には渡らなかった〔と原告は主張した〕。原告の利益は,1952年法律第180号の第3条の規定と関わる。そこでは,終了したワクフ財の権利は――設定者が死亡していた場合には――現存する受益者およびすでに死亡したその受益者の子孫に,各自の持ち分比率に従って分配されると記されていた。これは前出の条文が保障する他の規定にはみられない。原告の利益は,その他の条文に対する申し立てのなかでも否定された。1946年法律第48号の第17条は,同法第56条に記されたように,同法公布前に設定されたワクフには適用されない。事実関係の訴えには,ワクフ財の全部またはその一部がすでに荒廃しているか,交換財が裁判所倉庫に預託されている旨が記されていない。よって,本件に前出の1946年法律第48号の第18条を適用することは許されず,――これにより――1952年法律第180号の第5条の規定は事実関係の争いにかけられる。同法第9条の規定もまた,憲法的観点から事実関係の評価に服することを正当化する効果を保障されない。

訟務検事による冒頭弁論では,以下3点の理由から上告の却下が請求された。第1に,違憲性が訴えられる憲法条文が存在しない。すなわち,本件はすでに廃止された1923年憲法第9条〔所有権の不可侵〕に対する違憲性のために移送されたものである〔と主張された〕。第2に,1946年法律第48号の第24条は,1949年のワクフ設定者の死亡時の規定を定めている。第3に,最高憲法裁判所は,1996年6月7日に開廷された「憲法」司法暦17年上告第67・68号において1952年法律第180号の第3条の違憲性の訴えをすでに棄却している。

第1の点の答えはすでに得られている。すなわち――本裁判所の司法において――,最高憲法裁判所法の第30条に記されているように,事実審は,憲法上の問題または憲法からの逸脱を引き起こす法律条文の適用に関する審理のため,本裁判所への憲法問題の移送の決定を下すことができる。よって,条文の無効性または適正性についての審理の求めのために提出された訴状は,憲法に反すると訴えられた法律条文,およびその無効性の箇所に関する情報を含まなければならない。ただしこの決定は,訴状がその審理を本裁判所に求める憲法問題を知悉することを条件とし,その限界を十分に定め,保障と内容の明確化を保障し――その内実と範囲において――隠匿が生じないようにし,最高憲法裁判所法の第37条に定められた期日内に最も明らかな形によりそれを弁護するために,すべての本件関係者が――政府関係者も含め――準備を尽くさなければならない。むしろ,訴状の情報は,〔最高憲法裁判所〕調査官が――所定の期日の経過後に――手続きを準備し,関係する憲法的・法律的規定から導き出される中立的見解の表明の職務を実行するにあたって不可欠のものである。もし憲法問題についての無知がみられたときには,その情報は事実上隠匿されており,理性は説明を妨げられる。ここに――実際に生じた事実と理論的観点の結合を通じて――審理が準備された場合には,その真実について,すなわち上告人または〔最高憲法裁判所への〕移送の決定が意図した真理の追究が求められる。よって,前出の〔最高憲法裁判所法〕第30条の条文に反するという〔訟務検事の〕弁論は誤りである。また――先に述べたように――,1952年法律第180号の第3条こそが,原告と,原告が非慈善ワクフの廃止後の相続持ち分の所有権について事実審に訴え得た回答との間を分かつものである。この点から,事実審はこの条文が――同法の公布時に施行されていた――1923年憲法の第9条に記された所有権を侵害するものではないかと考えたのであり,移送を受けた司法〔当局である最高憲法裁判所〕は,事実審がみなした憲法上の欠陥の真実を明らかにするものとなる。その後のあらゆるエジプト憲法が――その最新のものが現行〔1971年〕憲法であるが――,私的所有権の保護の確立に努め,私的所有権の侵害は,例外的な状況に限り,かつ憲法に示された範囲と制限のなかに限られるよう,努力を重ねてきた。加えて訴えの争点となる違憲性が,現行憲法の第34条に記された私的所有権の保護の原則の侵害という点であることが明らかにされた。これにより――第1の点において――弁論は棄却される。

第2の点は適正でない。ワクフ設定者が死亡したのは,1928年であり,弁論で述べられた1949年ではない。よって,弁論は根拠のない議論にもとづいている。

第3の点は的を射ていない。1996年9月7日に開廷された「憲法」司法暦17年上告第67・第68号における最高憲法裁判所の判決は,1952年法律第180号がイスラームのシャリーアの原則に反しているのではないかという批判に向けられたものであり,同裁判所はこれを単一の申し立てにもとづくものとしてすでに棄却した。〔1971年〕憲法の第2条で定められたことは,1980年5月22日の〔憲法〕改正を含め,イスラームのシャリーアの原則に反しないことが立法者の義務であることを保障するが,憲法公布に先立つ法律を〔遡及して〕問うものではない。前出の条文〔第3条〕は,1952年9月14日に公布された非慈善ワクフの廃止に関する1952年法律第180号の一部であり,これには同法の施行日以降のいかなる改正も付着しない。よって,同条文が憲法第2条に違反するという批判は当を得ていない。他方,この訴えに関して本裁判所が理解し,本裁判所の裁判官が決したところによれば,当該条文はその他の欠点から潔白とはみなされない。すべての利害関係者の間を取りもつことも,本裁判所への移送を見直すこともできない。

〔最高憲法裁判所への〕移送の決定は,〔1971年〕憲法の第34条に定められた所有権の保護を侵害するとして訴えが起こされた条文――および先述した範囲において――に対して行われたものである。

憲法は――とりわけ私的所有権は社会的安定に資するものとして高く評価されるが――,個人1人ひとりに対する保護を保障し,その適用が定められる例外を除き,権利の侵害を認めない。このため憲法は,第34条において,法律に記された状況下で,かつ司法命令による場合を除き,強制収用を禁じている。また,これが行われる場合にも,所有者から権利を取り上げることは,公共の利益があり,かつ法律に則った補償がなされる場合に限られる。同様に,憲法の保護の範囲は所有権全般に及び,そのなかで相続権は保障される。

相続権に関する憲法の保障は,被相続人の遺産に対する法定相続人の権利が,過不足なく,各自の持ち分に則って,すべての権利保有者に移転されなければならないことを意味する。同様にこれは,被相続人は,相続人――またはその他の者――に対する遺贈において認められる範囲である場合を除き,遺産について認められた権利を侵害するほどの持ち分を,単一の相続人に与えることができないことを意味する。よって,立法者がこれに反した場合には,すべての相続人に認められる遺産を得る権利を保護する私的所有権への敵対行為であり,相続権を保障する憲法第34条に対する違反となる。

1952年法律第180号布告の第3条は――先述した範囲において――,終了したワクフ財の権利が――設定者の死後――現存する受益者および死亡した受益者の子孫に,各自の持ち分比率に従って分配されると定めている。これは,ワクフの受益者ではない相続人に関して,相続権の権利剥奪に相当し,憲法第34条に違反する。

 以上の理由をもって

最高憲法裁判所は,非慈善ワクフの廃止に関する1952年法律第180号の第3条を違憲と判決する。同条が,ワクフ財の権利は――設定者の死後――,現存する受益者および死亡した受益者の子孫に各自の持ち分比率に従って分配されると定め,設定者の残りの相続人に〔相続権を認め〕ない〔からである〕。

 書記官 裁判長

(*)2008年5月19日付『官報』第20号(追加)に掲載。

〔原本には,官報掲載日の誤植とその訂正を伝える注記が付されていたが,割愛した。〕

(注1)  ワクフは,人が自らの財産の処分権を「停止」(waqf)し,その使用利益権を指名した特定の個人またはカテゴリーに属する人たち(「何某の子孫」「貧者」)に与える制度である。他者のために財産を放棄する点で「寄進」的性格をもち,使用利益権を自らの子孫に与えることができる点で「財産継承」の側面も併せもつ。歴史的なムスリム諸社会において広く実施が観察されてきたが,近代になると各地で制度の廃止や制限が行われるようになった。ワクフを行う者を「ワクフ設定者」(al-wāqif),ワクフのために供出された財(農地や宅地,建物など)を「ワクフ財」(al-mawqūf),使用利益を与えられた者を「ワクフ受益者」(al-mawqūf ‘alay-hi, mustaḥiqq),ワクフ財を管理する者を「管財人」(nāẓir)と呼ぶ[cf. 柳橋 2012]。

(注2)  一例だが,筆者は本稿で扱うワクフ文書を閲覧するために,2017年にワクフ省に閲覧申請を出したが,1年以上後に「治安許可」が出ないという理由で,申請は却下された。

(注3)  ワクフ訴訟に関する判例集『ワクフ法令全集』[Ḥassān and ‘Abd al-Hādī 2002]は,ワクフ財の分割に関する判例を含むが,判決の趣旨が短くまとめられているだけで,本稿で扱う最高憲法裁判所判決のように全文を記したものはない。

(注4)  最高憲法裁判所の判決は,2019年までは破棄院ウェブサイト(http://www.cc.gov.eg/ 2019年3月12日最終閲覧)でのみ閲覧できたが,2020年に最高憲法裁判所ウェブサイトが改修され,こちらでも閲覧できるようになった(http://www.sccourt.gov.eg/ 2020年8月9日最終閲覧)。本稿の内容は,破棄院ウェブサイトでの調査にもとづくものである。

(注5)  最高憲法裁判所設置法の官報掲載日が1979年8月29日なので,最高憲法裁判所の司法暦初年度は1979年9月年度または西暦1980年であると推測される。ウェブサイト上で閲覧できる最古の判決は,司法暦1年第3号の事案であった。その判決言い渡しの日は1983年6月25日であるので,上告が受理された時点で事案番号が付けられているのだろう。

(注6)  エジプトのアラビア語の人名は,男女の区別は比較的容易だが,長幼は名前からはわからないため,このキョウダイが兄妹と姉弟のいずれかは,名前からだけでは判別できない。

(注7)  「シャリーア裁判所」(maḥkama shar‘īya)は,1955年に廃止され通常裁判所に統合されるまで,エジプト国内のムスリム同士の家族関係訴訟を扱っていた。

(注8)  婚姻や相続,遺贈,ワクフ等のいわゆる「家族法」は,イスラーム法規定にもとづく「身分関係」(al-aḥwāl al-shakhṣīya)と呼ばれ,その事案は「民事」「刑事」と区別される。

文献リスト
  • 柳橋博之 2012. 『イスラーム財産法』 東京大学出版会.
  • Anderson, J.N.D. 1952. “Recent Developments in Sharī‘a Law IX: The Waqf System.” The Muslim World 42(4): 257-276.
  • Baer, Gabriel 1969. Studies in the Social History of Modern Egypt. Chicago and London: The University of Chicago Press.
  • El-Morr, Awad Mohammad, Abd El-Rahman Nossier and Adel Omar Sherif 1996. “The Supreme Constitutional Court and Its Role in the Egyptian Judicial System.” In Human Rights and Democracy: The Role of the Supreme Constitutional Court of Egypt. eds. Kevin Boyle and Adel Omar Sherif. London, The Hague and Boston: Kluwer Law International.
  • Lombardi, Clark B. 2006. State Law as Islamic Law in Modern Egypt: The Incorporation of the Sharī‘a into Egyptian Constitutional Law. Leiden: Brill.
  • Moustafa, Tamer. 2007. The Struggle for Constitutional Power: Law, Politics, and Economic Development in Egypt. Cambridge: Cambridge University Press.
  • al-Bayyūmī, Islām Muḥammad and ‘Ādil ‘Abd al-Tawwāb Bakrī eds. 2014. Qawānīn al-Waqf wa-al-Ḥikr: wa-al-Qarārāt al-Tanfīdhīya [ワクフ法令集]. 7th ed. Cairo: al-Maṭābi‘ al-Amīrīya.
  • Buḥayrī, Aḥmad and ‘Alī Sulaymān Abū Dunyā eds. 2015. Qawānīn al-Mīrāth wa-al-Waṣīya: wa-al-Wilāya ‘alā al-Nafs wa-al-Māl [相続・遺贈・後見法令集]. 12th ed. Cairo: al-Maṭābi‘ al-Amīrīya.
  • Fu’ād, Aḥmad Maḥmūd 1952. Sharḥ Aḥkām al-Waqf al-Ahlī ba‘d Intihā’-hi [廃止後の家族ワクフ規定解説]. Cairo: Maṭba‘a al-Naṣr.
  • Ghānim, Ibrāhīm al-Bayyūmī 2007. Wizāra al-Awqāf (Silsila al-Wizārāt al-Miṣrīya) [ワクフ省(エジプト省シリーズ)]. Cairo: Markaz al-Dirāsāt al-Siyāsīya wa-al-Istirātījīya.
  • Ḥassān, Aḥmad Amīn and Fatḥī ‘Abd al-Hādī eds. 2002. Mawsū‘a al-Awqāf: Tashrī‘āt al-Awqāf, 1895-1997 [ワクフ法令全集:1895-1997]. Alexandria: Munsha’a al-Ma‘ārif.
 
© 2020 日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top