Japanese folklore is said to be a young discipline constructed by agricultural politician Kunio Yanagita. However, its content is a new national studies (新国学), a history of the common people, and an agricultural policy for the well-being of people. Each has a variety of origins. The research methodology of Japanese folklore is really simple, as it is expressed as “walking, seeing, listening”, but it is the accumulation of the experience of folklore scholars so far. It is very useful in discovering the hidden value of rural areas. In this report, we discuss the usefulness of folk research based on the case of regional resource survey in rural Indonesia.
日本民俗学の研究内容は多様である.英訳はフォークロアとなるが,グローバルな学問としてのFolkloreの一部とされると違和感を持つ学会員も多い.近年は,ドイツやアメリカの民俗学会との連携が図られ,世界的なFolkloreの潮流の中に位置づけようとする動きもあるが,全体を巻き込むような動きでは必ずしもない.報告者自身も日本民俗学はFolkloreという英訳を便宜上用いるものの,日本独自の学問であると考えている.ただし,多様性を維持したまま緩やかに繋がり,そうしたなかでも理解の共有と議論が可能である関係性こそ,この学問の美点である.それが故に,報告者もFolkloreとしての日本民俗学を否定することはない.
日本民俗学はその内部が多様であるがゆえに複数の通り名を持ち,複雑な構造を持つ.新国学,庶民の歴史学,ヴァナキュラー等と自己を称し,内部,もしくは近隣に,民具学・口承文芸学・民俗芸能学・民間信仰学等の学問が展開する.これらは,民俗学を構成する部分であると同時に,時として別の学問ともなりうる.さらに,日本史や考古学と協働し,文化財学や博物館学を構成したりもする.というわけで,日本の民俗学を短い文字数で定義するのは難しく,定義付けしようとする行為そのものが,民俗学の本質から遠ざかる行為であるとすら感じる.
だが,報告者がこの学問の定義を論じ,地域農林経済学会で民俗学の説明をする資格があるのか自信はない.報告者は大学で民俗の教員を務めてはいるが,これまで大学で民俗学を学んだことがない.元々,10年ほど前までは農業経済職の公務員(農水技官)であった.しかし,日本民俗学を作り上げた柳田国男も元々は農政学者であり.農商務省職員だった.元々の民俗学は農政学と血のつながった兄弟なのである.資格あり?かもしれない.
柳田国男は『産業組合論』や『時代ト農政』等,農政研究の書を著している.横井時敬とも浅からぬ縁があり激しく対立していた.同時期に『後狩詞記』『遠野物語』,『石神問答』の民俗学初期三部作と言われる著述も残している.おそらく柳田は,地方の村々に住む普通の人々の「暮らし(生活)」の歴史と未来に深い関心があったのだろう.農政学が対象とする農業は,その普通の人々の「暮らし」を支える主たる幹ではあるが,部分である.柳田は「暮らし」を構成する多様な事象全てに関心を持ち,学知の対象とし,新しい学問研究を構築するに至った.それが民間伝承の学であり,後の日本民俗学である.
あえて,この学問全体に通ずる特質を挙げるとすれば.この学問の研究者たち(以降,民俗学徒)は,基本的に知りたいこと,学びたいことがあれば,その興味の対象に直接アプローチすることが多い.その対象とは,現在に生きて生活し,過去と未来を媒介する伝承者としての普通の人々(常民)である.その対象と直接対峙し,コミュニケーションをとり,時には呑み,唄い,喧嘩をし,共有理解を構成し,それを客観とする.少しく言葉を換えれば,全人的理解のもと,コミュニケーショナルに客観的真実を構成する,という方法こそが,日本の民俗学徒に共通する特質である.柳田はディルタイを読み込んでいた節がある.ディルタイはドイツ観念論の重鎮であるが,その最も大きな仕事は,全人的理解に基づく「史的認識論」にある.歴史学は文献資料を扱う.文献の先にある歴史的人物は,既にこの世に亡いが,あくまで人間であり,人間であるがゆえの感情や思い願いがある.それゆえ我々は同じ人間として,現存しない人間との相互理解が可能となる.即ち現代人は過去を認識し,歴史を構成することができる.
民俗学の場合,その対象は概ね生きた生活者である.この生活者に対する直接的アプローチと全人的理解という協働作業による客観の構築こそが,民俗学徒に共通する方法であり,特質である.それゆえに,民俗学における研究論文をめぐる議論はそもそも活発であった.提出された論文もコミュニケーションの一部である.盛んな議論が行われることによって,学会内で新たな共有理解を生み,新たな真実を構成しようとする.しかし多くの場合,なんとなく皆が理解したところで議論が収束してしまい,あまり形に残ってはいないようにも見える.
柳田国男による「民俗資料の三分類」を否定する民俗学徒はいない.①有形文化,②言語芸術,③心意現象.簡単に解説すると,①目で見えるもの,②耳に聞こえるもの,③心で理解するもの,である.この三分類こそ民俗学の特徴的な方法論,対象への直接的アプローチと全人的理解という方法をよく表現している.調査のため,知らない村に入った.最初は目で様々なものを見る.知らないもの.違和感を覚えるもの.知識の外にあるもの.それこそが有形文化.しばらく歩いていると,今度は様々な音が聞こえてくる,見知らぬ道具を使った仕事の音,仕事唄,耳慣れない言葉,祭りがあれば芸能がある,聞いたことのない旋律があふれている.これが言語芸術.そしてその地域の家族・仕事仲間・若衆・娘組等々の小集団,あるいはその村の全員に,何かしら通じる心の符牒がある.それは同郷人として村に受け入れられた段階で覚知される.それは囲炉裏端で繰り返し語られることによって共有される,同郷人としての心といえば良いだろうか.それが心意現象である.この心意現象の解明こそ,民俗学の究極の目的であるわけだが,報告者はまだその境地に至ったことがない.これら三分類は,調査行動の各段階において立ち現れるものであり,調査実践の過程において収集すべき資料として位置づけられる.そしてその最終的な目的は,心の理解なのである.
『炉辺叢書』に見られるような同郷人による調査や,渋沢敬三によって提唱された「自民俗誌」活動,そして柳田が中心となった『山村生活調査』,戦後であれば『緊急民俗調査』や,地方誌史類における「民俗編」調査など,実は民俗調査は全国規模で何回も実施されている.同時に,日本民俗学会の他に,数多くの地方民俗学会が現在でも活動し,民俗学徒たちは全国で自発的に,直接的コミュニケーションによる調査を実施してきた.後年文化庁により,「民俗資料の11分類」が設定される.これは民俗学徒らの膨大な調査経験を元に抽出された民俗資料の要素群であり,新たに調査を行う際の調査項目といえる.即ち「①衣食住 ②生産・生業 ③交通・運輸・通信 ④交易 ⑤社会生活 ⑥信仰 ⑦民俗知識 ⑧民俗芸能・娯楽・遊戯 ⑨人の一生 ⑩年中行事 ⑪口頭伝承」であり,これが民俗文化財の分類や,市町村誌民俗編等の構成の下敷きとなっていく.先人たちの経験を元に,柳田の「民俗資料の三分類」を詳細に仕訳けた項目である.
そして,この調査項目による民俗調査の目的は,普通に生活する人々の心意を明らかにすることである.難しいことなのだけれども,その目的を意識することによって,民俗学は,柳田農政学,民間伝承の学と言われていた明治の時代から,インテリ層からはとるに足らないもの,迷信に満ちたものとして無視されがちであった,普通の人々の生活や思いを,学知の対象として取り上げてきた.
さて,ここで現代の農業・農村問題と民俗学との関連について,報告者自身の体験から説き起こす.
1996年,報告者は農林水産省中国農業試験場に赴任した.院生時代の研究(東洋史学)から離れ,日本の中国中山間地域に仕事の場を与えられた.右も左もわからなかったが,現地調査で赴いた農村の人々は親切であったし,心を開いてくれた.海があり山もあったため,様々な種類の産品に溢れ,美味だった.村の人々としばしば呑み食いをして,様々なことを教えてもらった.本当にお世話になった.
(1) 地域農業の組織化と「村がら」中国農試では経営管理研究室に配属され,農業の集団化についての研究を試みていた.調査では,それぞれの村が,どんな村なのか良く教えてくれた.
例えば,御剣神社というのは村の「草分け」と言われる家で祀られている.他の家も古く,町内会組織は,昔からある荒神組が幾つかまとまったものである.荒神組を構成する家々は,ヘソノオ荒神という擬制的血縁関係で結ばれ,何か決めごとがある際には,組内で時間をかけて話し合い,全員一致で決めていく.かつて若い衆には新開講という集団があり,薪炭地だった不在地主の山を切り拓き,畑地化し,組の家々で平等に分け合った.その新開講が,戦前に改農団に改組され,農業の改良に努め,その改農団が,近年地域営農集団と名前を変えた,というような事々を,のどかに話してくださる.
中国地域の山間農村は,どこもそうかと,同じ県内の他の村で聞くと全く異なる.好きなモン同士で自由に色々やる.炭焼きの復活やら,ヒマワリ転作やら.集落内ばかりではなく他の集落のモンとも一緒に特産品を作ったりしようる.最近,県外から来て役場に勤めているモンがおって,色々いうてくる.ちいとばあ生意気じゃと思うたこともあるが,言うことはもっとも.誰より熱心に一生懸命村のために働いてる.村はいい方向に行くじゃろう.
というように,素晴らしいことながら,まるで異なる話をしてくださるのである.
こうした経験を積んで,それぞれの村の「村がら」(村制・社会生活)が興味関心の対象となり,民俗学を学んだ.これが報告者にとっての民俗学の始まりである.結果から言えば農業・農村研究を推進する必要性から,民俗学を学修したと言える.
(2) 農耕儀礼と小麦作の再生その後,岡山民俗学会による苫田ダム水没地域民俗調査団に参加し,米麦等の主生業調査を担当した.そこで山間地の麦の儀礼を聞き及び,麦作の生業暦を調査し,中国農試の麦育種研究室に持ち込み,同年代の研究員と,激しく議論し,遅霜が頻発し梅雨が早い中国山地に適合する品種を見つけることにした.当時の場長から50万円研究費をもらって,標高等条件を異にする5圃場に,約40品種を播種時期を変え2反復試験栽培を行った.二人で3年間,播種から収穫まで実施し,転作物として適合する品種を見出し,地域の特産物として栽培することができた.大した成果ではないかもしれないが,同世代の研究員と,一緒に作業し,場長と談判し,出来た麦を試食し,乾麺に加工したり,家人に頼んでパンを作ってみたりもした.彼との友情と,今までお世話になってきた農家の方達に喜んでもらったことは,何よりも得難い財産である.
(3) 田の神サンバイと農村環境管理その後,2001年農村工学研究所へ異動し,島根県の2つの山村で圃場整備住民意向の調査を実施.意向は特に無く,様々なことを村の人と話していたら,古い田植え唄が残存しているという.田植え行事には,田の神サンバイを降ろすという.サンバイさんは,山のお宮から,ハエンゴ(川魚)の背に乗って降りていらっしゃる.ハエンゴについてさらに聞くと,多くの村人が川遊びがいかに楽しいかを語る.90歳近い方から30歳代の住民までもが,その楽しさを語り合う.結果,30年近く管理放棄された川について話が及ぶ.荒れた川では子供たちが川で遊べない,と住民による河川の管理活動が再生する.さらに,川から見る耕作放棄地が気になるということで,草刈りし,そばを植え,放棄地が解消した.
(4) 祭礼の伝承と村の再生もう一方の村は,地形が独特だった.聞くと,たたら製鉄の原料,砂鉄を採取する鉄穴流しの村だった.昭和40年頃まで採取していたという.その住民の屋敷は,集落へ上がる坂道から良く見える高台にあり,母親が洗濯物を干す姿が良く見えた.学校への登下校時,母親が手を振ってくれた.その当時の生活の様子を,古いカレンダーの裏に何枚も書いてくれた.それをもとに,シャギリコという祭礼を,都会に他出する若い家族を呼び寄せ40年ぶりに実施した.その村は,50歳代が2人しかいない.他の住民は70歳以上である.しかし,この祭礼後,10組もの若い家族が戻ってきた.
(5) 地域資源と民俗調査地域資源という言葉は,政策用語として定着しているものの,何が地域資源なのか現場で指し示すことは難しい.報告者は中国農試・農工研勤務15年間,現地で様々な試みをしてみたが,地域の主体たる住民の判断と活動が何より大切という当然の結論に至る.そして,民俗学という学問の方法が,自然と報告者の調査研究に入り込み,主要なものとなった.地域資源の発掘・活用・保全を実施しうる主体を構成するには,伝承調査を通じて,住民を地域の伝承を担う生活者として再構成する民俗学の方法論が最も有効だったのである(山下,2008).
前章で記したことは,もう10年以上も前に書籍化し公表している.古いネタだ.本報告にあたり,優秀な先輩に導かれ,民俗学徒として地域資源に取り組んだ事例を紹介したい.国際農林水産業研究センターの横山繁樹氏が研究代表を務める「ジャワ島中部ソロ川上中流域における地域資源適性利用による環境創造型農村空間の構築」(科研基盤研究A2011~2014)である.なんと海外だ.
当時,報告者は海外が未経験だった.実は外国語は全てにおいて苦手である.刻々と近づいてくるインドネシアへの現地調査.案内人兼通訳をつけてくださるというが,やはり不安である.なにしろ,民俗調査の持ち味はコミュニケーショナルな調査による共有理解の構築だ.通訳介して何とかなるものでもない.結局2週間ほどの調査を2回したのだが,暗中模索だった.だが,先に紹介した民俗資料分類は,文化庁11分類はじめ,これまでの民俗学徒たちの経験から,村の「暮らし」を構成する要素を抽出した質問項目である.我々は,全く知らない村々に入る際,その分類項目を現地の住民に問いかけ,応えてもらい現場を理解できる!はず.というわけで,初の海外,インドネシア.それも見知らぬ山間の村で,日本民俗学の資料分類という調査項目を引っ提げ,現地の人々の胸を借りることとした.
(1) 農業語彙調査まず,現地にいって驚いた.インドネシア共和国の公用語はインドネシア語である.そしてジャワ島ではジャワ語が話されている.知識としては知っていたが,現場で目の当たりにすると少なからず驚く.通訳は大変である,ジャワ語→インドネシア語→英語→日本語という経路をとる.報告者の質問は,当然この逆を辿る.通訳同士のやり取りを見て,インドネシア語とジャワ語は相当異なる言語であると気付く.言葉が異なれば,暮らしの内容も異なる.暮らしを知るには,それを支える言葉を調べることだ.民俗学でのこうした調査研究を語彙研究という.柳田の民俗資料分類によれば言語芸術の範疇に入る.『後狩詞記』がその最初の成果で,宮崎県椎葉村における暮らしの言葉の羅列的な解説である.羅列ではあるが,当地の暮らしぶりがありありと目に浮かぶ.論理的とは言いにくい著作だが,地域生活を理解するには効果的だ.人々の普通の暮らしは,必ずしも論理的ではなく,むしろ羅列的なのである.
この語彙研究で,インドネシア語とジャワ語の農業語彙の比較調査を実施した.ただし,インドネシア語は多民族国家インドネシア共和国をまとめるため人為的に公用語とされた言語である.生活言語であるジャワ語とは位相が異なる.しかし,ここでの語彙調査の目的は,暮らしの比較ではない.中山間地域直接支払制度等,国費の支出による農村維持政策の導入には,農業農村の多面的機能に関する国民的理解が必要で,相当な議論がまた必要である.インドネシアにおいて国政を支える言語がその議論に耐えうるかという疑問があった.また,農村の事象を地域資源としての見出し,活用するためにも言葉は重要となる.地域資源を一つの財としてみた時,その供給者はジャワ島の場合ジャワ語を主として話す農村の人々であり,需要者は都市生活者を中心としたインドネシア語を話す人々となる.語彙調査は両者の農業・農村に対する認識の違いを探る上でも重要な情報を提供してくれるだろう.
語彙調査の結果は(表1)のようになった.ジャワ語の農業語彙は豊富であるに対し,インドネシア語の農業語彙は少ない.両者同じものもあるが,ジャワ語由来のものと認識されている.また,インドネシア語に無い語彙は,水田雑草のクワイやヒエ,牛の引き綱,もみ殻,箕などであって水田作に関係するものが多い.ジャワではサワ(水田)を中心とした稲作が圧倒的に優越しているのに対し,それ以外のインドネシアは焼き畑を含む畑作が比較的広く展開している.そうした状況を反映しているようにも見受けられる.ともあれ,このような農業語彙の状況を見ると,農業・農村の多面的機能に関する国民的議論,また地域資源の抽出と都市住民への情報発信,そしてその維持活用に関しては,日本での方法とは異なる工夫が必要である.日本語は多くの農業語彙を有する公用語であり,日本人各々が想起する農村のイメージに文化的相違は少ない.これはライティングカルチャーの問題にも通ずるだろうが,当地において「農業・農村の多面的機能」や「地域資源」という認識は存在しえないかもしれない.少なくとも,生産増一辺倒にある現在のインドネシア農業において,この問題は重要であるとは認識されないだろう.多面的機能と地域資源と言う二つの問題は,グローバルな課題とは言えず,特有の文化的背景を持った地域における,ローカルな問題であるのかもしれない.
| 日本語 | インドネシア語 | ジャワ語 | |
|---|---|---|---|
| ジャワ語のみ | ひえ(雑草) | Dasundan | |
| 牛の引き綱 | Keluang | ||
| くわい(雑草) | Krokot | ||
| 空もみ | Sangit | ||
| 足踏み脱穀機 | Iles | ||
| 丸い箕 | Tampah | ||
| 早く育ってね | Ilir-Ilir | ||
| インドネシア語説明的 | いもち | Mama(ウンカ 害虫) | Wereng |
| 山草刈り | Pencari(探す人) Rumput(草) | Ngaret | |
| 除草 | Cabut(抜く) Rumput(草) liar(荒れた) | Matun | |
| 籾殻 | Kuit(皮) Padi(米) | Rambut | |
| 籾摺り機 | Penggiingan(擦る) Padi(稲) | Slep | |
| 川遊び | Mandi(入る) di Sungai(川) | Jeguran | |
| かつぎ棒 | Tongkat(棒) Pemikul(担ぐ) | Dipepe | |
| 鎌 | Alat(用具) Pemanen Padi(稲) | Ani-Ani | |
| うるち粉 | Tepung(粉) Beras(米) | Glepung | |
| 両者同じ | 稲の神 | Dewi(王女) Sri | Dewi Sri |
| 馬鍬 | Garu | Garu | |
| やしの葉の繊維 | Janur | Janor | |
| 籾摺りの舟 | Lesung | Lesung | |
| 杵 | Alu | Alu | |
| 両者異なる | 種まき | Menyebar | Nyebar |
| 稲 | Padi | Pari | |
| 田 | Sawah | Saben | |
| 畑 | Ladang | Kebun | |
| 稲藁 | Jerami | Damen | |
| 植える | Tanam | Tandur | |
| 田植え | Tanam Padi | Mandur Pari | |
| お米 | Beras | Wos | |
| ごはん | Nasi | Sego | |
| むち(牛追い用) | Cemeti | Pecut | |
| 牛鍬 | Bajak | Luku |
民俗資料分類に「子供の遊び」という項目はないが,実は文化庁11分類における「遊戯」の下の細目に「児戯」がある.かつて,明治から大正にかけての地方改良運動下に作成された村是には田植え時や稲刈り時の「カイボリ」,「アユかけ」の禁止が記されており,当時は大人も随分遊びに熱中していたことが伺えるが,時代が下るにつれ大人は生真面目になり遊ばなくなる.羽目を外すとしたら村外の繁華街で,村の自然や環境の中で遊び惚けるのはもっぱら子供たちとなる.少し昔の子供たちは,村内の自然や環境,人間関係のなかで,それらを巧みに利用し,またその規制を受けながら遊んでいく.児戯の調査は,その地域の自然環境,社会関係の真実を垣間見せる重要な調査項目である.
実は,調査当初,「以前と村の環境は変わりましたか?」という普通の質問項目をもって調査に臨んだ.だが結果は散々だった.村の集会所に呼び出された住民の方々に聞いても「40年も50年も前から村の自然は変わらない」と回答される.そんなはずはない!スハルト政権下における地方開発は村の環境を一変させているはずだ.地域資源の状況も大きく変化を遂げていることだろう.しかし,聞き取りの結果は永久不変の農村環境なのである.
あまりの事に,田の畦でへたり込んでいると,高齢だが真っ黒に日焼けしてとても元気そうな老人が声をかけてきた.そして,アップテンポな君が代を熱唱してくれた.この日本の統治時代を知るおじいさんに聞いてみた.すると「色々変わったよ.昔は色々なことして遊んだ.川に飛び込んで泳いだり,月のない夜には森で一晩かくれんぼをした,今では川は汚れて浅くなったし,森も全部切られてしまった.残ってる木も,必ず持ち主がいる.今は勝手に木登りなんかしたら怒られるよ.」とのことである.環境は大きく変化していた.
その後,70歳代の老夫婦のお宅にお邪魔して話を伺った.夫婦ともその村の出身である.子供時分家は貧しく,両親は働きづめで帰宅は遅かった.貧しい家の子供は一緒に留守番しながら生活していたという.皆で様々な遊びをしたが,村内を流れる川は,当時とてもきれいで,水草や藻が繁茂していた.川に入り,笊を藻や水草にあてがって,手や足で追い込むと,小魚や川エビ,そしてヤゴといった生き物が沢山とれたという.それらをすりつぶしてバナナの葉にくるみ,蒸して食事にしていた.
しかし,村を流れる川は調査時において濁り淀んでいた.水草や藻は一切存在していない.だが,岸から見ているだけでは分からない.日本からウェーダーとガサガサ用のたも網,魚やカニの捕獲用罠を持ち込んで,水田の用排水路になっている川に入り検証した.大体水田域で見る河川の全てで水草や藻はみられない.そのため,たも網によるガサガサでもKuthukというきれいなメダカを一尾採取できただけである.この実地調査は,同一河川(用排水路)の上流域(標高507m)と下流域(標高330m)の二か所で行った.どちらも周囲は水田である.その二か所に2個ずつの罠を24時間仕掛けた.日本の水路での調査では,罠がドジョウやハエ(オイカワ)等で一杯になったが,このインドネシアの小河川では表2のとおり,芳しい成果は得られなかった.
| 魚類名言語 | 鯉鮒餌 | ハエ餌 | 計 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| ジャワ | インドネシア | 日本 | Net1 | Net2 | ||
| 下流標高330m | Wader | モロコ系 | 15 | 18 | 33 | |
| Yuyu | Kepiting | カニ | 3 | 1 | 4 | |
| Urang | Udang | エビ | 0 | 2 | 2 | |
| Kuthuk | Gabus | メダカ系 | 1 | 0 | 1 | |
| 上流標高507m | Wader | モロコ系 | 10 | 22 | 32 | |
| Yuyu | Kepiting | カニ | 5 | 3 | 8 | |
| Urang | Udang | エビ | 3 | 7 | 10 | |
| Kuthuk | Gabus | メダカ系 | 1 | 0 | 1 | |
| 水路 | Cethol | 雷魚 | 1 | 0 | 1 | |
こうした河川環境の変化については,住民もよく認識していた.老夫婦も,「川は大きく変わってしまった.以前のように魚やエビは取れません.」と話す.その原因については「農薬を使った川漁のせい」とする.魚毒性の高い除草剤などの農薬を川に投入し,麻痺した魚を捕まえるのだ.その川漁は地方政府によって7年前に禁止された.だが,河川に植物は無く,生物の数も貧弱である.当地では稲の二期作,三期作が行われる.栽培される品種は農薬や肥料を必要とするハイブリット品種だ.現在の河川環境は,本当に毒漁のせいなのだろうか?また,上流域と下流域,約200m弱の標高差があるにもかかわらず両地点で採取できた生き物の数に変化はあまりない.総数で見ると上流域の方が多い.少なくとも生物多様性保全という多面的機能は,当地の農業において確認することは難しい.
その後,我々は,さらに上流域の水源地まで遡った.標高1170m地点で,水田が畑に切り替わる.水源地である湧水池はその少し上流の1200m地点にある.その湧水池の上部にはまた延々と畑が拓かれ,葉物野菜やコーン,ニンジンなどが栽培されている.そして,屋根の抜けた堆肥舎が散在している.付近の村では牛の飼育頭数が増えているという.その目的は畜力利用ではなく,堆肥の確保にあるという.水源地では農薬散布用の噴霧器を洗浄する農家の姿もあった.また,水源は湧水である.本来なら低栄養状態に適応した水草や藻,苔が少々生えているはずが,イネ科とみられる雑草が一面に繁茂していた.上流域は葉物野菜やコーンなどの畑,そして屋根の抜けた堆肥舎.別の村の村長さんは,この川の水を利用している下流の村人に貧血が増えていると言う.硝酸体窒素の影響は十二分に考えられる.
聞き取りで得られた「子供の遊び」が成立していた時代からみて,報告者が参与観察によって体感した当地域の環境は農業という営為により悪化の一途をたどっているようにも見える.そこに多面的機能は確認できず,地域資源としての価値を認めるには難しい.だが,それは責められるべきことではない,農業生産へ労働投下することによって生産量をあげ,豊かになろうと皆が苦心している.いわば現代型インボルーションの最中にいるのだ.
(3) 農村伝統芸能調査民俗学関係の農村地域資源と言えば,まさに伝統芸能を想起される方が多かろう.日本においてこうした祭礼や芸能の観光事業等への活用は,かなり前から法制化され事業化されている.平成4年の「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」(通称「お祭り法」)がそれだ.後に農林水産行政でも,農村の信仰や祭礼,芸能を地域資源に位置付け,積極的に活用しようする動きになる.こうした日本の現象は,インドネシアにも起こりうるものだろうか?
ジャワ島を代表する伝統芸能を対象に調べてみることにした.ユネスコの世界文化遺産にも指定されているワヤン・クリ(牛の皮で作られた人形による影絵芝居)である.3ヶ所の農村において,このワヤン・クリの指揮者であるダランに聞き取り調査を行った.私自身は経済伝承が専門であり,信仰や芸能の調査は専門外なのだが,多くの不思議な話を聞くこととなり,不思議な目にもあうことになる.
まず,最初のダランは,報告者を見るなり言った.「お前は心が真っ黒だ!」なんということだ!動揺を抑え,どういうことか聞き直したら,怒りのため心が真っ黒になっていると仰る.確かに事業仕分けにより転出せざるを得なかった当時の状況と,これ幸いと農学部以外の研究勢力を追い出した当時の理事長には憤っている.そしてダランは私に一体のワヤン・クリ(人形の方)を差し出した.「これを君にやる.そっくりだから.」それは黒いワヤン・クリだった.美男の王子であり,マハーバーラタ,ラーマーヤナの主人公アルジュナの漆黒ヴァージョンである.なぜ黒いのか,それは悪である敵に恋人?妻?を攫われてしまったため,怒りのあまり心が無慈悲に真っ黒になったそうだ.美男・王子・「漆黒」(中二病).報告者に似てると言っている.
どす黒い心を持ってんだろう報告者に,そのダランは色々と話してくれた.「ダランはワヤン・クリを操ることによって神の世界と現実の世界をつなぐ」「ワヤン・クリには魂が宿る」「ワヤン・クリはジャワ人の心である」そして,そのダランはワヤン・クリを含むジャワの伝統芸能を後世に伝承しようと様々な努力をされている.だが辛いこともある.インドネシア共和国はイスラム教を主たる宗教とする国である.しかし,ワヤン・クリが説くのは,多くの神々がいるヒンドゥーの世界だ.ダラン自身もムスリムなのだが,ジャワ人としての精神を大事にもしている.これまでは全く問題なく代々ダランの家は続いていたのだが,近年,原理主義的な傾向がジャワにもあり,村人の一部がダランの家に嫌がらせをするようになったという.そのため,かつて村内に住んでいたが,郊外に移転せざるを得なくなったそうだ.報告者は辛そうにしているダランに,今の原理主義的な傾向は,欧米のイスラム圏への攻撃に反発してのことだ.そもそもイスラム教は大らかな宗教なのであって,税金を払えばどんな宗教も認めていた.きっとまた本来の姿になって,元の村に戻れますよ!と通訳を介し熱烈に励ました.すると,ダランは報告者をじっと見ていった.「(真っ黒な)お前の中にわずかな光明が見える!」「こちらの方が君にふさわしいだろう」.そして金色のアルジュナ(通常ヴァージョン)を手渡してくれた.似ている部分から「真っ黒」が除外され,美男と王子が残ったのである.
実は,大変だったのはその後だった.タクシー運転手が異常に興奮している.「ただごとではない!」ということをジャワ語で繰り返し言い続けている.ホテルに帰ると,大勢の人が部屋に押し掛けてきた.ホテル滞在客のタクシー運転手たちである.「お前はダランからワヤン・クリをもらったって?ただ事ではない!」というようなことを多分(通訳はもういない)言われ,連れ出され,屋台で皆一緒に食事をした.少々崇められ,代金は全て払わされた.
さて,次に会ったダランは,近くの都市部で外国人相手にワヤン・クリを演じているダランである.家に赴くと古いワヤン・クリが沢山飾ってあった.だがその理由を彼は「外国人に高く売れるから」と説明する,通訳を頼んだイスラム・エリートの大学生も「(ワヤン・クリは)ただの物語だ」と盛んに言ってくる.この村は彼の故郷であり,彼の父親は有力者らしい.その聞き取りの場には大勢の大人たちがいて,ダランは緊張しているようだった.しかし,古いワヤン・クリが高く売れるなら売ってしまえばいいのに.売れば飾ることもないだろう.そこでは,ワヤン・クリは海外観光客相手の観光資源であり,またパーティー等のお祝い事で演じられる芸事と説明された.難しい場であった.
3人目のダランは,堂々とした風格の老人だった.代々ダランを務めていた家柄だという.だが本人に霊能力はないそうだ.そこで若い頃に断食修行をし,その結果,能力を持っていた2代前と4代前の先祖の魂が常に耳元に浮かんで,様々なアドバイスをくれるようになった.面会するなり,彼は我々に言った,「ご先祖様に皆一人一人を診てもらおう」.そして端から順番に穏やかにアドバイスをくれた.「頭がいい.頑張りなさい.」「とても良い人だ.このまま行きなさい.」とかである.しかし,報告者の番になり,ダランは急に呻吟し始めた.顔を歪めながら先祖の語る言葉に耳を傾ける.そして言った「とてつもなく変な人間だ」.そして,こう言い放った「心が黒い!」.二代前,四代前の先祖がそれぞれに報告者の異常性を訴える.身に覚えは全くないが,日本での扱いも大差ないので,気にしないようしていたのだが,今度はそのダラン,非常に古いワヤン・クリを六つばかり持ってきて差し出す.先の調査で古いワヤン・クリは外国人に高く売れると聞いた.大金を持たない報告者は身構えたが,君しかいない.持って行ってくれと言う.無料だそうだ.すっかり色が抜けた状態ではあったが,古いワヤン・クリである.大体においてここでまた頂いてしまったら「ただごとではない!」が始まる.6体だから「ただごとではない!」も6倍になる.
とりあえず理由をきいてみた.するとあっさり白状した.「これらは呪いのワヤン・クリだ.手元に置いておきたくない.君なら大丈夫.」なんでも,昔,家に不幸が続いたそうで,他のダランから「あの古いワヤン・クリが原因だ.祟っているから手放せ」と言われたという.そこで一番近くの大河(ブンガワン・ソロ)にそのワヤン・クリを流してしまった.だがその一週間後の朝,家の床に濡れた足跡がついている.ワヤン・クリの収蔵庫までつながっている.扉を開けるとその呪いのワヤン・クリは自分で歩いて戻ってきたのだという.そのダランは言う「ジャワに神は存在し,先祖も我々を守っている.不思議な世界はある.」「ワヤン・クリ(人形)には何らかの魂が宿る.普通の事だ.」その剣呑なワヤン・クリの譲渡は申し訳ないけれども,丁重にお断りした.タクシーの運転手たちも「呪い」と「呪い」以上に心が黒い報告者に恐れをなしたのだろう.その日,部屋に押し掛けてくることはなかった.
ワヤン・クリはユネスコ世界文化遺産である.しかし,ジャワの人々はそれを遺産や資源として扱っていない.外国人からは金銭を取り披露するが,同じジャワ人にとっては神秘的な信仰儀礼であり,国内の主流となっている宗教とは少し深刻な緊張関係にもある.都市農村交流等のイベントの出し物にされるものではない.この点,日本人は特殊である,宗教と信仰と娯楽の関係性が曖昧であり,宗教や信仰のための行事や芸能を資源化することに大らかだ.独特と言える.インドネシアで伝統的な民俗芸能を地域資源として活用することはやはり難しい.
本報告の主題は,民俗調査の効用であった.民俗調査はその方法論の根本に,民俗資料分類を有している.調査者である民俗学徒は,柳田の三分類を教え込まれ,民俗誌を読み,民俗誌調査を分担し,執筆・編集したりする.その経験を通じ,詳細な資料分類とその意味を身の内に取り入れる.そうして困難な調査地を前にしたとき,民俗学徒は魔剣目録のごとき文化庁11分類から,有効な道具を選び出し,現場に切り込み,住民と話をし,議論し,飲み食いしながら喧嘩し,翌朝仲直りし,全人的な理解力をもって客観である共有理解を構築する.その共有理解はまた学徒同志の議論により客観性が高められる.それゆえに,机上の知識しかもっていなかった漢文読みが中国中山間地域の村々に受け入れてもらえ,英語も出来ず,心が黒い引き籠り研究者だろうと,インドネシア共和国の山村で調査ができる.
民俗学の調査方法は,簡便に農村現場に入るための方法であり,調査者と住民の協働による相互理解をもたらす調査方法であるから,住民に受け入れられ,喜ばれる調査たりえる.そして意外に困難に対する打開策をもたらしてくれる.地域資源の発掘活用とは困難な課題である.農村現場の住民でさえ地域資源なんてそうそう分からない.民俗学の調査は,これまで学者は勿論,地域住民でさえ些末で下らないことと無視していた事柄を,学問研究の俎上に載せる.さらに卑近で切実な問題の解決のため,活用の俎上にも運ぶ.昔からそうだ.民俗学は様々な小さくも大切なことを学知の対象に取り上げ,日本人が暮らす自分自身の世界に対する認識を拡大し続けてきた.そのような学問として設計したのは柳田国男である.だからこそ,柳田は高校の公民の教科書にも掲載され,若き日本人たちに学ばなければならない人とされている.
とはいえ,何故柳田が優れていたのか.それは民俗学者であったからではない.古今東西様々な学問に精通していたともいわれるが,特に農政学である農業経済学・経営学,農村計画学の領域では研究の当事者であった.民俗学と農政学,共に良く理解していたからこそ優れていたのである.今現在,これらの学問領域は分断している.お互いがお互いを本当に理解し,是々非々の議論を遠慮なく行うことができれば,また新しい理解の扉を開くことができ,学問全体,そして農業・農村そのものが,より良くなるのではなかろうか.おこがましいとは自覚するが,心からそう思う.