抄録
「大海の一滴」,あるいは「滄海の一粟」ということわざがある.大海原のように広大なところに,きわめて小さな
ものがあることの譬えである.近代日本の文学界で白樺派を代表する作家のひとり志賀直哉は,これらに類する「ナ
イルの水の一滴」という短い作品を残した.この作品のなかで志賀が注視しているのは微小な「一滴」ではなく,む
しろ大河である「ナイル」のほうである.それは,時空を超越した何らかの常なる存在のことである.
同様の世界観は,近代の日本で博物学者として活躍した南方熊楠や哲学者の西田幾多郎,あるいは神智学の創始者として知られるロシア生まれのH・P・ブラバッツキーらの記述に見ることができる.他方で,近代日本の思想家
である中江兆民や,英国の数学者であり哲学者であったB・ラッセル,あるいはW・K・クリフォードらは物質主義に
傾倒し,志賀のいう「ナイル」の存在を否定した.彼らは果敢にも,自身を微小な「一滴」あるいは「一粟」だけの存在
に見立て,現実世界に立ち向かう生涯を選んだのである.個々の人間は,孤立する一粒の意識体にすぎないのか,
あるいはそれを包含する極大の意識を想定しうるのか――これまで数多くの宗教家や哲学者が考察してきたこの問
いに,誰しも納得する答えを用意することができない.それでも「ナイル」の流れをいつでも身近に感じて生きるこ
とは,人生に希望を見出し,感謝や慈悲の念を抱かしめる指針となるだろう.