抄録
放送100年を契機に、新たな史料などに基づいて放送の歴史を多角的に検証するシリーズ「新史料で振り返る放送100年」。第4回は、戦前から戦時期にかけて、日本の内地から外地や大陸に向けて送信されたラジオの「東亜放送」に焦点を当てる。
戦前、日本の統治下にあった朝鮮や台湾、勢力下に置いた満洲では、それぞれ設立された事業者によって順次、ラジオ放送局が開設された。そして、短波中継によって、日本放送協会が制作した内地の番組も放送されるようになった。日中戦争以降、華北・華中など中国大陸の各地に放送局が開設されていくと、中継の範囲はさらに拡大し、現地住民向けの番組とあわせて、内地からの番組が放送の主要な部分を占めることとなった。そうした放送は「東亜放送」などと呼ばれた(時期によって名称は変化)。
東亜放送に関しては、その方向性をめぐって、内地と同じ番組を放送すればよいとする考え方(内地延長論)と、「大東亜」の理念のもと、内地向けとは別に独自の番組を放送すべきという考え方(独自編成論)が存在していた。前者は日本放送協会の基本的な立場で、これに対して外地・大陸の事業者からは、日本放送協会は東亜向けの番組を別途、編成すべきとする主張が次第に強まっていった。
しかし、大陸や外地の聴取者数は内地に比べてきわめて少なく、日本放送協会にとっては、内地の番組とは別に、東亜向けの番組を独自に編成することは現実的ではなかった。また、監督官庁である逓信省や内閣直属の情報局も日本放送協会の方針に異議を唱えなかった。太平洋戦争の開戦後、東亜放送のための独自編成番組は設けられたものの、基本的には、内地からの番組に依存する状況が続いた。東亜放送は、番組の方向性に関する関係者間の意思統一が十分になされないまま、その時々の状況に応じて放送エリアを拡大させ、日本の敗戦とともに終焉を迎えたことになる。