日本物理学会誌
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最近の研究から
大腸菌代謝における遅いダイナミクスの出現
姫岡 優介
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2025 年 80 巻 11 号 p. 633-637

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抄録

生物は,常に成長・増殖を続けるのではなく,環境に応じて活動を一時的に停止する能力を持つ.大腸菌といった単細胞の生物も同様であり,栄養が豊富な環境下では活発に増殖する一方,飢餓などのストレスに晒されると,細胞の活動を極度に抑えた休眠状態(ドーマント状態)へと移行することが知られている.休眠状態にある細胞はしばしば高いストレス耐性を伴い,抗生物質の効果を弱める要因となるため,基礎生物学から医療応用まで幅広く注目されている.さらに興味深いことに,栄養などの条件が全て揃った環境であっても,集団のごく一部が,あたかも自ら選ぶかのようにこの休眠状態にあることが,様々な実験から明らかになっている.この一見不可解な現象がどのような内部メカニズムによって引き起こされるのか,その詳しい仕組みの解明は重要な課題のひとつである.

生命現象を「システム」として捉え,定量的な理解を目指すのが「システム生物学」と呼ばれる分野である.システム生物学はこの30年ほどで,細胞内情報伝達,遺伝子回路,形態形成メカニズムなど,実験と理論の両輪で生命現象の数理的理解を発展させてきた.特に微生物の増殖や代謝を対象とする研究の発展は著しく,定常的に増殖している微生物の細胞内状態を数少ないデータから予測する手法や,環境条件・細菌株の詳細によらず成立するマクロ現象論が発見されている.

しかし近年,微生物の増殖や代謝状態について単純な法則が成立するためには,潤沢な栄養下で細胞がストレスなく増殖できていることが極めて重要であることが指摘されるようになった.潤沢な栄養・低ストレスというのは実験室環境では実現可能ではあるが,自然環境では滅多に遭遇できるものではない.乏しい栄養・高ストレス環境で進化をしてきたであろう生物の理解のためには,そのような環境下における,低増殖状態(増殖速度が低い状態)の微生物の振る舞いを深く理解する必要がある.

そうした文脈でしばしば取り上げられるのが,大腸菌をはじめとした微生物の増殖と休眠に関する現象である.大腸菌は至適条件下で約20分ごとに自己複製を遂げるという,他の生物と比べても極めて高速な増殖速度を誇る一方,飢餓や高温といったストレス環境下では細胞の代謝活性を抑えた休眠状態に移行できることが知られている.さらに興味深いことに,たとえ至適条件下であっても極微量の細胞が休眠状態にあることが,様々な実験から示唆されている.

この休眠状態への遷移が細胞内部で起こる代謝反応系の揺らぎを引き金として生じる可能性を探るため,大腸菌の中心代謝経路を常微分方程式系でモデル化し,数値シミュレーションが行われた.その結果,代謝物質濃度の変動が発端となり,一部の反応経路が大きく活性を失って成長速度がほぼゼロに近い状態へ移行する様子が確認された.低活性状態への移行のメカニズムを解析するためにモデルを段階的に縮約し,最終的に2変数で表される単純化モデルを得た.単純化モデルの解析により,ATPやADPなどのエネルギー補酵素とカップルする反応が鍵となっており,無益回路(Futile Cycle)の暴走がエネルギー資源を使い果たすことで代謝全体が低活性状態へと転移するという仕組みが明らかになった.

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