抄録
【目的】
一側の上肢および下肢においてスキル学習や筋力トレーニングなどを行うことにより,全く訓練を行っていない反対側の上肢および下肢においても,そのスキルや筋力などが向上する現象(以下,両肢間転移と略記)が多く報告されている(Obayashi et al., 2004; Lee et al., 2007)が,運動速度においても両肢間転移が生じるかどうかは明らかにされていない.本研究では,運動速度の向上のみを要求する介入課題として右手関節の背屈運動を用い,その介入が(全く訓練を行っていない)左手関節の背屈運動速度(以下,左手背屈速度と略記)を向上させるかどうかを検討した.
【方法】
対象:上肢に整形外科疾患や神経学的疾患のない若年成人31名であった.これらの被験者のうち,除外基準に該当しなかった22名を,訓練群11名(男性2名,女性9名,平均年齢25.5歳),コントロール群11名(男性3名,女性8名,平均年齢27.2歳)に割り付けた.
課題:訓練群に対しては,介入課題として,手指伸展位での右手の背屈運動(被験者の最大速度で遂行)を,3秒間に1回のペースで10回×10セット(計100回)行わせた.この100回の背屈運動を1セッションとし,これを2回行った.この介入による左手背屈速度の変化を明らかにするため,介入前の左手背屈速度,介入第1セッション後の左手背屈速度,及び介入第2セッション後の左手背屈速度を計測した.左手背屈速度の計測には光ファイバーと光電センサ(オムロン社製)を用いた手関節背屈運動速度測定装置を利用した.これは,光ファイバーの光軸を手関節背屈可動域内の任意の2点に設定し,被験者の手背面がこの光軸を遮ったタイミングを記録するものである.今回は手関節背屈0度および60度の位置に光軸を設定し,この2点間を通過するのに要した時間を運動速度に対応するものとみなした.速度計測の際には,左手背屈運動を10回行わせ,平均所要時間を求めた.
コントロール群は訓練群と同様のスケジュールで実験を行ったが,介入課題として,運動に関連する事象を想起せずに安静にすることを指示した.左手背屈速度の計測は,訓練群と同様に行った.
解析:左手背屈速度のデータは介入前の運動速度に対する比率(介入前を100%とした値)に変換した.この比率を用いて,「群」(被験者間要因)および「計測時期」(被験者内要因)を要因とする反復測定二元配置分散分析を行った.解析にはSPSS version 15.0を用い,有意水準は5%未満とした.
【説明と同意】
被験者へは書面及び口頭にて十分に説明し,同意を得た.
【結果】
介入前における左手背屈0度から60度までの平均所要時間は,訓練群94.4±28.4ms(平均値±標準偏差),コントロール群92.2±34.7msであり,群間に有意差はなかった(独立した2標本のt検定(t(20)=-0.158,p=0.876).第1セッション後の計測では,訓練群75.5±21.9ms,コントロール群93.2±38.9msであり,第2セッション後では,訓練群70.0±22.3ms,コントロール群87.4±28.7msであった.介入前の平均所要時間を100%とした比率は,第1セッション後では,訓練群81.3±16.1%,コントロール群103.9±34.7%であり,第2セッション後では,訓練群75.8±19.8%,コントロール群98.6±27.1%であった.分散分析を行ったところ,「群」の主効果が有意であった(F(1,20)=4.782,p=0.041).一方,「計測時期」の主効果は有意でなく(F(1,20)=2.904,p=0.104),また「群」×「計測時期」の交互作用も有意ではなかった(F(1,20)<0.001,p=0.984).すなわち,訓練群とコントロール群を比較すると,訓練群で左手背屈速度の有意な向上が認められた.
【考察】
右手関節の瞬発的な運動訓練を100回以上行うことが,運動訓練を全く行っていない左手関節の運動速度を向上させることが明らかとなった.このことは,運動速度において右手から左手への両肢間転移が生じていることを意味する.先行研究では達成速度と正確性を同時に求める課題の学習効果において両肢間転移が生じることが報告されている(Thut et al., 1997)が,その現象には運動速度の転移も含まれている可能性が示唆された.
【理学療法学研究としての意義】
整形外科術後や脳卒中後などのように上肢および下肢が一側性に長期間不動もしくは寡動の状態におかれる場合,その肢の廃用の予防や治療の手段として,健側肢の運動訓練が有効に作用する可能性を示唆する.