抄録
【はじめに、目的】 あらゆる運動が生じる際には、その主動作に先行した予測的な姿勢制御の機能が求められると報告されており、これを先行随伴性姿勢調節(以下、APA )という。日常生活の場面では肘関節や手関節のような上肢遠位部の関節運動時に姿勢を安定させるために、APA が作用していると考えられる。しかしながら、上肢遠位部の関節運動時におけるAPA に着目した報告は見当たらない。そこで本研究では肩関節屈曲位を保持した状態からの肘関節伸展運動という上肢遠位部の関節運動時COPの前後方向移動パターンに着目し、APAについて検討した。【方法】 対象は整形外科学的および神経学的に問題のない健常男性10名とした。平均年齢は23.8±1.9歳であった。まず、両足底を重心バランスシステムJK-310(ユニメック社製、以下重心計)上に置き、立位姿勢を保持した。運動課題の開始姿勢は右肩関節・肘関節120°屈曲位とし、右示指を側頭部に触れる肢位とした。次に運動課題として、任意のタイミングで右肩関節屈曲位を保持したまま右肘関節を伸展し、前方の対象物に指尖を触れた。このとき右示指の先端に添付した自作のスイッチに対象物が接触することにより動作の開始と終了を判断した。動作課題は、5秒以上開始姿勢を保持したのち、任意のタイミングで1)出来るだけ速い速度で肘関節を伸展する(以下、速い課題)、 2)1秒以上2秒未満で肘関節を伸展する (以下、遅い課題)の2種類の課題を3回ずつ施行した。このとき、重心計よりCOP移動を計測し、それぞれの課題時におけるCOP移動パターンを分析した。【倫理的配慮、説明と同意】 対象者には実験の目的および概要、結果の公表の有無と形式、個人情報の取り扱いについて説明し、同意を得た。【結果】 速い課題において、COPが動作開始直前にX軸方向(左右方向)は正の方向(右側)、Y軸方向(前後方向)は負の方向(後方)に同時に移動し始めるパターンが速い課題全30試行のうち16試行であった。その他、速い課題においてはCOP動作開始直前に右側・前方に移動するものが8試行、左側・後方に移動するものが6試行であった。以上のことから、30試行中、COPが後方に移動するのは22試行であった。遅い課題では、COPが動作開始直前に右側・後方へ移動するものが、全30試行のうち5試行であった。その他、遅い課題においては、右側・前方に移動するものが18試行、左側・後方に移動するものが3試行、左側・前方に移動するものが4試行であった。以上のことから、30施行中、COPが後方に移動するのは8試行であった。【考察】 速い課題では、動作開始直前COPが後方に移動するパターンは22試行と最も多く観察された。また、遅い課題において動作開始直前にCOPが後方に移動するパターンは8試行であった。健常者においては一側上肢を高速に挙上した場合、急速な重心の前方化を制御するために動作開始直前にCOPが後方に移動するAPAが生じると報告されている(高木 2007)。また、高木らの報告では、高速に上肢を挙上した場合このようなCOPの移動は測定した対象者全例の全試行で見られたと報告している。本研究の速い課題においても急速に肘関節伸展を行うため、身体重心が急速に前方に変位すると考えられる。そのため、動作開始前に重心を後方に移動させることで、動作開始後の過度な重心の前方移動を予め中和していると推察された。しかしながら、高木らの報告と異なり、速い課題においてはCOPが前方へ移動するパターンが見られた。これは本研究で用いた開始姿勢より肘関節を伸展するという上肢遠位関節の運動では、立位姿勢からの重心の前方化が少ないため、APAの必要性が少なくなったためと考えられた。遅い課題では速い課題と比較して動作開始直前のCOP移動パターンに一貫性はなく、同じ対象者の試行間でもばらつきが認められていた。このことから遅い動作課題は速い課題と比較して肘関節の伸展動作が遅いため、身体重心の変位に対して姿勢の安定化のためのAPAの必要性が低いと推察される。つまり、遠位関節運動を遅い速度で行う課題は、身体にとって容易に支持基底面内に重心を保持することができる課題であると考えられる。以上のCOPの移動パターンの分類により、健常者では高速に上肢遠位関節の運動を行う場合においても、動作遂行に伴う姿勢の不安定を動作開始直前に予め制御するためのAPAが存在することが示唆された。【理学療法学研究としての意義】 本研究より立位において上肢遠位関節の運動を高速に行うような動作(前方にものを投げる等)においては、動作開始直前のCOP移動を配慮した理学療法評価や治療が必要と考えられた。