抄録
【はじめに、目的】 疼痛は患者個人の内的経験に基づく感覚であり,客観的に定量化することが困難である.そのため,関連する研究の多くは,疼痛によって起こる生体反応について,血液や唾液,尿といった検体を用いて,化学物質の濃度変化を数値化・定量化している.その中で我々は,検体採取自体が簡便で非侵襲的なため,比較的臨床応用が容易な唾液に着目し実験を行った.唾液中には,自律神経活動によって分泌が調節される消化酵素である唾液αアミラーゼ(sAA)や糖タンパク質であるChromogranin A(CgA)などが含まれており,sAA活性は疼痛関連ストレスを反映する痛みのバイオマーカーとして近年注目されている.一方,CgAは騒音や悪臭などといった精神的ストレスを反映するバイオマーカーとして知られている.このことからCgAは,不快を伴う情動体験である痛みによって強く影響を受けることが予測される.しかし,痛みとCgAの関係について検討している報告は我々の知る限りない.そこで,本研究では骨格筋の駆血に伴う収縮痛とCgAの関係性について検討した.【方法】 健常若年男性17名(平均年齢20.9±1.5歳,平均身長172.9±9.5cm,平均体重66.9±10.5kg)を対象に以下の実験を行った.すなわち,各対象者は30分間の安静後に,上腕部へ装着したマンシェットによって収縮期血圧と同等まで加圧された状態で6分間のグリップ動作を行った.その後は,マンシェットを減圧し12分間の安静をとった.なお,実験中は前腕部に感じられる「痛み」と「不快感(ストレス)」の程度を4段階(0:なし,1:わずかにあり,2:あり,3:強くあり)の数値的評価スケール(VRS)を用いて30秒毎に聴取した.また,加圧前6分間(Pre),加圧中6分間(Ex),加圧後の前半6分間(PostA),後半6分間(PostB)の唾液をサリベットにて採取した.採取した同一の唾液を,CgAはHuman Chromogranin A キットを用いて酵素免疫測定法で測定し,唾液アミラーゼは20μlをアミラーゼチップにアプライし,唾液アミラーゼモニターを用いて測定した.また,Preの値を100%とした変化率を算出し比較検討した.統計学的分析は,群間および群内比較は一元配置分散分析にて行い,有意差を認めた場合は事後検定にてFisherのPLSD法を行った.相関は,スピアマンの順位相関係数を用いて行った.なお,有意水準は5%未満とした.【倫理的配慮、説明と同意】 本実験のすべての手順は,世界医師会の定めたヘルシンキ宣言(ヒトを対象とした医学研究倫理)に準じて実施した.全ての被験者には,本研究の主旨を文書及び口頭にて説明し、研究の参加に対する同意を書面にて得た.【結果】 「痛み」と「不快感」のVRSは,同様の傾向を示しながら加圧開始より増加し,2分で「痛み」0.9±0.7,「不快感」1.0±0.7,4分で「痛み」2.1±0.7,「不快感」2.0±0.9,6分(終了時)で「痛み」2.5±0.6,「不快感」2.4±0.8であった.また,「痛み」と「不快感」は有意な相関関係を認めた(r = 0.817).sAAは,Ex 106.6±37.8%,PostA 105.2±37.6%,PostB 103.4±40.0%であり,有意な変化を認めなかった.一方,CgAは,Ex 161.6±110.4%,PostA 199.3±154.0%,PostB 225.3±192.8%であり,PostA,PostBがPreに比べて有意に高値を認めた.また,sAAとCgAにはどのような相関関係も認めなかった.【考察】 本研究では,前腕部を虚血状態とし6分間のグリップ動作を行った.その結果,前腕部へ感じる「痛み」と「ストレス」は,時間経過と共に増加し,有意な相関関係を認めた.また,唾液中のsAA活性は前腕部に感じる収縮痛では変化を認めなかったが,CgA活性については,前腕部に感じる収縮痛によって増加し,加圧終了から0-6分,6-12分に有意な増加を認めた.このことから,ストレス指標として用いられている唾液中のCgA活性は,痛みを反映する客観的なバイオマーカーとして有用である可能性が考えられた.【理学療法学研究としての意義】 痛みは日常生活活動を制限することから,理学療法の対象患者の中にも疼痛を訴える人は多い.疼痛を簡便に採取が可能な唾液によって客観的に評価することは,患者間や治療前後の比較を可能とし,治療効果の判定などに有益である.今回の結果は,ストレス指標であるCgAを用いて疼痛の有無を判別できる可能性を示唆する.これは,疼痛を客観的に定量化する手法を確立するための基礎的資料を提供することができると考える.