抄録
【はじめに、目的】 外的環境に対する素早い反応は人間にとって必要不可欠な機能であり、ステップ動作時間の遅延は転倒の危険因子となる。従来の転倒リスク評価には、歩行速度や筋力などパフォーマンステストが多いが、運動時の判断力や注意機能に焦点をあてた報告は少ない。ステップ動作には、知覚・判断、体重移動、振り出しなどの要素が含まれ、指示された方向の足を踏み出す課題に対して体重移動方向の判断ミスをしてしまうことが、ステップ動作時間を遅延させ転倒危険を惹起すると考えられている。この体重移動方向の判断ミスは、視覚的干渉を生じる反応課題によって特に増加すると予想され、より鋭敏にステップ動作における判断力、課題遂行能力の低下や転倒リスクを抽出できる可能性がある。本研究の目的は、選択的注意課題(Flanker task)によって生じる視覚的干渉が、健常若年者におけるステップ動作開始時の姿勢調節に及ぼす影響を検討し、転倒リスク評価開発のための基礎資料を得ることである。【方法】 対象は健常若年者20名(平均22.5歳)とした。測定課題は、前方のモニターに表示される視覚刺激(矢印)の示す方の足をできるだけ早く30cm前方に踏み出すこととした。視覚刺激は、(1)1つの矢印(→または←)が示す方向の足を踏み出すControl 課題、(2)干渉効果を生じさせることを目的として、5つの矢印(→→→→→; Congruentまたは→→←→→; Incongruent)の表示に対して中央の矢印の示す方向の足を踏み出すFlanker task、の二つを用いた。2枚の重心動揺計(Anima社製)で測定した床反力垂直成分のデータから、ステップ動作時間(開始合図から遊脚側接地まで)を求め、(a)反応相:開始合図から、一側への体重移動開始(体重の5%以上の移動)まで、(b)APA相:体重移動開始から遊脚側離地まで、(c)遊脚相:遊脚側離地から接地まで、の三つに細分化した。体重移動方向の判断ミスの評価指標として、APA開始時に通常とは逆に立脚側への体重移動が生じた場合をAPAエラーと定義した。Control, Congruent, Incongruentの各条件について8試行の平均値を求めた。統計処理は、条件を要因とした反復測定一元配置分散分析および多重比較(Bonferroni法)を行い、有意水準は5%とした。また、APAエラーの有無による影響を検討するため、条件とAPAエラーの有無を固定効果、被験者を変量効果とした線形混合モデルを用いて検討した。【倫理的配慮、説明と同意】 本研究は、所属の生命倫理審査委員会にて承認を得た。対象者には研究内容について口頭にて十分な説明を行い、書面にて同意を得た。【結果】 APAエラーは、Control, Congruent条件(11%, 10.9%)に比較し、Incongruent条件(41.7%)で有意に増大した。ステップ動作時間は、Control, Congruent条件(0.89s, 0.91s )に比較し、Incongruent条件(0.95s)で有意に遅延した。ステップ動作時間のうち、反応相、APA相は、Incongruent条件で有意に遅延したが、遊脚相は、Incongruent条件で短縮していた。線形混合モデルによる分析の結果、APAエラーありの場合に、ステップ動作時間、APA相は有意に遅延が生じた。APAエラーなしの場合には、反応相、遊脚相は有意に遅延が生じた。さらに反応相には条件とAPAエラーの有無に有意な交互作用がみられ、Incongruent条件でエラーなしの場合に特に遅延していた。【考察】 選択的注意課題における視覚的干渉によって、APAエラー、すなわち体重移動方向の判断ミスが増加し、APA相およびステップ動作時間が遅延した。APAエラーなしの場合には、より多くの時間を用いて判断するため、反応相が延長したと考えられるが、全体としてのステップ動作時間はAPAエラーありの場合に比べて短かった。選択的注意課題によってAPAエラーが生じやすくなることで、運動時における判断力、注意機能の低下、および結果的な課題遂行能力の低下が顕在化する可能性が示された。本結果から、転倒にかかわる機能評価と介入では、選択的注意にかかわる知覚・判断の過程を重視することが重要である。【理学療法学研究としての意義】 本研究は、転倒リスク評価の開発を目的として、運動時の判断力、注意機能に着目した初めての報告である。転倒には運動、認知機能など様々な要因が関与するが、それらの要素を鑑別する評価や治療を開発することの重要性を明らかとした。本研究は、基礎的な制御機構の解明とともに今後の実践的な理学療法研究へも寄与すると考える。