抄録
【はじめに、目的】 高齢者の転倒・骨折は要介護状態となる原因の9.3%(平成22年)を占めており、歩行障害、施設入所、死亡と強く関連する。転倒時の状況は躓きに起因することが多く、要因として歩行中の障害物跨ぎ動作の失敗が指摘されている。歩行中の障害物跨ぎ動作では、移動に伴い自己と障害物との距離関係に継続的変化が生じるため、空間に対する自己の身体情報を正確に知覚する必要があるとされる。これまで、空間知覚と身体情報の関係を検討した先行研究では、運動に利用される身体部位の実測長をもとに報告がなされてきた。しかし、障害物跨ぎ動作の検討では、自己の身体長の知覚との関連についても検討する必要がある。自己の身体の空間的認識としては、身体図式の存在が仮定されている。この身体図式は、「自己中心的な空間知覚に関する情報を統合した、自己の身体についての動的な意識」と定義され、障害物跨ぎ動作において重要な役割を果たす可能性が示唆されている。従って、身体長(特に股下長)を身体図式として正確に再現できる人ほど、跨ぎ動作を安全かつ効率的に遂行可能であると仮定できる。そこで本研究では、下肢の身体図式における誤差と障害物跨ぎ動作での拇趾―障害物間距離の関係性を検討することを目的とした。【方法】 対象は、健常成人19名(平均年齢21.7±0.9歳、男性7名、女性12名)で、歩行に支障を来す疾患を持たない者とした。跨ぎ動作の運動課題は、7m歩行路の先に設置した障害物(高さ18cm、幅30cm、奥行き5cm)を跨ぎやすい脚から跨ぐこととした。ただし、跨ぎ動作へ移行する2歩手前からは、前方の固視点を注視するよう教示した。歩行は至適歩行速度と最大歩行速度の2条件とし、ランダムな順に実施した(各5回、計10試行)。このとき母趾先端上面に反射マーカーを貼付し、足尖の軌跡を三次元動作解析装置(VICON512)にて、サンプリング周波数120Hzで記録した。得られたデータはLabVIEWを使用し、Spline曲線により12000Hzに補間した上で、障害物前面上端から母趾先端までの垂直距離(5試行の平均値)を求めた。この値をさらに実測股下長で除し、百分率に補正したものをToe Clearance値(以下TC値)とした。身体図式の測定では、対象者がイメージする股下長を目盛付のバーにて表現させた身体図式長(3試行の平均値)と実際の股下長の2値を計測した。(身体図式長-実測股下長)/実測股下長×100の式から得られた値を身体図式の誤差とした。統計学的処理として、身体図式の誤差とTC値の関係性をPearsonおよびSpearmanの相関係数を用いて分析した。加えて、Wilcoxon の符号付き順位検定を用い、速度条件によるTC値の差について検討した。統計解析にはSPSSを使用し、有意水準は5%未満とした。【倫理的配慮、説明と同意】 本研究および測定は、札幌医科大学倫理委員会の承認を得た上で行った。また、対象者には研究目的を明示するとともに、実験内容について十分に説明し、署名にて同意を得た。【結果】 跨ぎ動作における平均TC値は、至適歩行速度条件で25±8%、最大歩行速度条件で25±6%となり、身体図式の誤差の平均値は-4±10%となった。身体図式の誤差については最大歩行速度条件でのTC値との間に有意な相関関係が認められ(r=0.49, p<0.05)、至適歩行速度条件でのTC値との間に有意な相関関係は認められなかった。また、2つの歩行速度条件間でTC値に有意差は認められなかった。【考察】 速度条件によりTC値に有意差が現れなかったことから、本研究における障害物跨ぎ動作は速度に依存しないといえる。また、至適歩行速度条件での結果については、跨ぎ動作の課題が至適歩行速度では低負荷であったため、対象者間で跨ぎ動作の戦略にばらつきが生じたことが推察される。一方、最大歩行速度条件での結果は、身体図式としての股下が実測長よりも小さく再現されている人ほどClearanceを小さくとる戦略を選択していることを示す。今回の健常成人を対象とした研究では躓いた者は存在しなかったが、高齢者では加齢による諸機能の低下に伴い身体図式の構成過程に何らかの変化が生じ、身体図式の誤差が転倒を誘発している可能性が示唆される。【理学療法学研究としての意義】 本研究では、下肢の身体図式と障害物跨ぎ動作の関係性が認められた。この結果から、身体図式の精度が躓き易さの指標の一つとして有用である可能性が見出された。