抄録
本稿では、哲学者ウィトゲンシュタインの議論を援用し、硬化した言語ゲームとしての利他ではなく、言語ゲームの変化としての利他を論じる。ウィトゲンシュタイン研究においてしばしば議論されるいわゆる「規則のパラドクス」および「家族的類似性」を紹介、検討し、他者とのコミュニケーションという言語実践における言語ゲームの「収束」「発散」という性質を確認する。その収束/発散が、利他における道徳/倫理の区別と重なっていることが指摘される。さらに、言語ゲームの「硬化」すなわち収束が、言語の逸脱的使用、発散的使用の基盤となっており、言語共同体が採用する典型的な言語ゲームを主体はまず学習しなければならないことが示される。利他に関する典型的な言語ゲームは道徳であり、それはたしかに公共的な形でカタログ化、マニュアル化、一覧表化可能である。しかし、利他の一部門であると考えられる贈与の事故性を確認することで、倫理としての利他は予見し得ないことを示す。