コモンズ
Online ISSN : 2436-9187
2022 巻, 1 号
コモンズ 第1号
選択された号の論文の9件中1~9を表示しています
特集テーマ:利他
論文
  • 利他のカタログ化不可能性について
    近内悠太
    2022 年 2022 巻 1 号 p. 1-14
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/05/11
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿では、哲学者ウィトゲンシュタインの議論を援用し、硬化した言語ゲームとしての利他ではなく、言語ゲームの変化としての利他を論じる。ウィトゲンシュタイン研究においてしばしば議論されるいわゆる「規則のパラドクス」および「家族的類似性」を紹介、検討し、他者とのコミュニケーションという言語実践における言語ゲームの「収束」「発散」という性質を確認する。その収束/発散が、利他における道徳/倫理の区別と重なっていることが指摘される。さらに、言語ゲームの「硬化」すなわち収束が、言語の逸脱的使用、発散的使用の基盤となっており、言語共同体が採用する典型的な言語ゲームを主体はまず学習しなければならないことが示される。利他に関する典型的な言語ゲームは道徳であり、それはたしかに公共的な形でカタログ化、マニュアル化、一覧表化可能である。しかし、利他の一部門であると考えられる贈与の事故性を確認することで、倫理としての利他は予見し得ないことを示す。
  • 福田貴成
    2022 年 2022 巻 1 号 p. 15-40
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/05/11
    ジャーナル オープンアクセス
    この論考は、父の介護経験の回想をもとに、介護における言語の機能と意味をメディア研究者の立場から考察したものである。2007年から父の没する2013年まで、筆者はヘルパー等のスタッフとともに父の介護に従事した。その過程では、父の心身状態についての詳細なメモ、そしてスタッフ間の情報共有を目的とする連絡ノートなど、相当量の言語記録が残されることとなった。  そこから読み取れるのは、とりわけ介護生活の初期において、言葉は主に「制御」的機能を果たしていたという点である。それは父の生の制御と同時に、スタッフの制御を目的としたものであった。そこに見られるのは「支配」への無意識の欲望であり、利他を標榜しながら結果的に利他を損なっていたことの痕跡である。  制御への傾向は介護の進展とともに変質してゆく。連絡ノートからはスタッフへの一方的な指示が消え、連携を促進する言語運用が目立つようになる。換言すれば、言葉は制御を離れ、「媒介」としての機能を見せ始める。さらにそこには、介護実践の全体が主従関係から解放され、ポジティヴな意味での「メディア経験」へと変容するさまが読み取れる。「制御」から「媒介」へのこうした移行について、本論では伊藤亜紗の利他論、そしてロラン・バルトの音楽聴取論を参照しつつ論じた。  末尾では、「制御から媒介へ」という図式には回収できない残余の存在を指摘した。ここで参照したのは、精神科医中井久夫の「徴候」概念である。時に不要なほどに詳細なメモは、制御欲の発露であると同時に、目の前で弱りゆく生命のなかに感知された微細な徴候——生命の終焉のサイン——の記録でもあったのではないか。そうした理解に基づくならば、筆者の介護生活における言語とは、来たるべき死と現在そして過去とをつなぐ「メディア」としての機能をも担っていたと言えよう。こうした意味で、筆者にとっての介護とは、二重の意味での「メディア経験」であったと考えられる。
  • 蔭久孝統
    2022 年 2022 巻 1 号 p. 41-72
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/05/11
    ジャーナル オープンアクセス
     昨今の認知症関連施策では、認知症者に対する社会的包摂が謳われている。しかし、現段階ではそれらの効果は限定的であり、一般社会を巻き込むには至っていない。一方で、多方面から高い注目を集めているのが「注文をまちがえる料理店」である。そこで、本稿では、注文をまちがえる料理店及びその派生形態の調査を行う事で、注文まちがえる料理店が現代の認知症ケアの中で果たした役割と課題について分析し、認知症者の社会的包摂のよりよい在り方について新たな知見を得る事を目的としている。  調査の結果、注文をまちがえる料理店及び各地の派生的活動は、これまで主体性を持ち得なかった認知症当事者が、社会の中で活躍する姿を発信する場として機能している事がわかった。一方、注文をまちがえる料理店の取り組みは、時間、場所共に限られた非日常的なイベントであることから、認知症という変化に敏感な状態にある人々にとって、時に大きな負担としてのしかかる。そのような課題に一つの答えを見出したのが愛知県岡崎市にあるちばる食堂である。ちばる食堂は、常設店として認知症者の「就労」の場を作り上げている。ちばる食堂で働く認知症の人々は、一時的ではなく継続的な労働を通して、自身の個性を活かし食堂を支える “ プロフェッショナル ” として自らの手で自身の居場所を形成している。  これまでの認知症関連施策は、認知症当事者を、ケアを受ける受動的な存在として扱ってきた。一方で、“注文をまちがえる料理店”やちばる食堂の取り組みは、認知症の状態にある人々がホールスタッフとして働く事で初めて成立する。その空間の主役という立場が、認知症ケアの外側に置かれていた認知症当事者に主体性をもたせ、埋もれていた潜在能力を引き出すのだ。それらの取り組みは、認知症当事者が、ケアを受けるだけの存在ではなく、一般社会、そして実生活の中で主体性をもって活躍出来る力を持っている事を示している。
  • 柳宗悦の蒐集と思想を手がかりに
    佐々風太
    2022 年 2022 巻 1 号 p. 73-102
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/05/11
    ジャーナル オープンアクセス
     本研究の課題は、無地の陶磁器がもつ性質、とりわけその「利他性」について、民藝運動の中心的人物であった思想家・柳宗悦(1889-1961)の蒐集と思想を切り口に、浮かび上がらせることにある。  民藝運動や柳宗悦の思想に関する先行研究は数多く存在するが、柳の「無地の美」評価に関しては、明確に主題化されてきたとは言い難い。本研究では、柳の著作物および民藝運動同人による刊行物などの一次資料、研究論文などの二次資料を対象とした文献調査を行った。  柳が思索の対象とした蒐集品には模様や図柄のあるものの非常に多いことが指摘されているが、柳が「この世への最后の贈物」として晩年に醸成していた「仏教美学」思想を彼が説く際には、特に井戸茶碗や古丹波の灰被壺のような無紋の陶磁器が頻繁に取り上げられ、彼が提示したい「美しいもの」全体を代表するという様相が見られる。本研究ではこの点を手がかりとして、無地の陶磁器に対する柳の思索について検討していく。  まず、柳の眼には無地の器が、荒々しい土肌や窯変の発生に「こだはらない」作り手の受動性の反映として映っていたこと、それが宗教的な「無心」そのものとして了解されていたことを指摘する。また、実用性の観点からも、無地とは「他己を受け入れる」性質をもった、使いやすい造形であると柳が捉えていたことを指摘する。以上を踏まえ、柳にとって無地の陶磁器は、自然素材の偶発的な振る舞いと、食材などの様々な内容物という二重の予期せぬ他者(「他力」)を受け容れる作り手の「無心」がそのまま物の姿をとった存在であったこと、静まった心で他者に奉仕する「愛」の心境を体現する利他的存在であったことを、本研究では明らかにしている。
論評
一般投稿論文
  • 泉沙織
    2022 年 2022 巻 1 号 p. 115-126
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/05/11
    ジャーナル オープンアクセス
     衣服を脱いでいく見世物であるストリップティーズは、日本では 1947 年に「額縁ショウ」と呼ばれる活人画の展覧から始まった。以降広く「ストリップ」と呼ばれ現在まで形を変えながら続いている。本稿では、これまでの先行研究で「黄金時代」と呼ばれた初期のストリップの特徴を明らかにするとともに、当時の批評実践に着目して、ストリップを享受した男性たちのまなざしのあり方を捉えた。  「額縁ショウ」が「ストリップ」と呼ばれるまでの間には、「ばあれすくショー」「りべらるショー」「デカメロンショー」などの様々な呼称があった。ストリップが「ストリップ」の呼び名を獲得してからも、度々「バーレスク」を名乗って上演され、各種メディアにおけるストリップに対する批評文の中でも、たびたび米国のバーレスクが引き合いに出されていた。 ストリップを多く報じた『内外タイムス』等の批評言説によれば、ストリップの中でも裸を見せるだけのショーは「エロショウ」「ハダカショウ」などと呼ばれ批判の対象であった。反対に、卑猥感のなく美しい肉体、巧みな構成と装置を用いたショーは好ましいストリップであるとされ、それこそが「バーレスク」であると理解されていた。つまり「バーレスク」という言葉が時にストリップへの高い評価を表していたのだが、観客が実際に好んだのは露骨な性表現であり、興行主も儲けるためには性表現を必要とした。  そこでストリップが「バーレスク」を名乗り「芸術」を志向することは、ストリップを見ることの後ろめたさや踊り子への哀れみを打ち消す働きがあったと考えられ、そうまでして女性身体を見ていたのは、占領によって排除された自らの男性性を確認する必要があったからである。さらに、踊り子の身体には米国のイメージが投影され、そうした表象を視線によって支配していくことは、敗戦を克服して男性性を再構築するための手段となっていたのである。
  • 鈴木悠理
    2022 年 2022 巻 1 号 p. 127-142
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/05/11
    ジャーナル オープンアクセス
     本研究は、初期近代イングランドを中心としたヨーロッパに焦点を当て、その時代における男同士の身体的、性的接触にまつわる言説を分析する。イングランドを含むヨーロッパのキリスト教圏では、男同士の性的な結びつきはソドミーやバガリーと呼ばれ、神に対する反逆的な行為であり、社会の秩序を転覆させかねない大罪と見なされていた。その一方で、ギリシア・ローマ古典を再生産する芸術活動の分野においては、男同士、特に成人男性と少年のあいだに生ずる性的な接触がホモエロティックなものとして美化されることも可能であった。  現代におけるホモセクシュアリティとホモフォビアは、前者が同性間の愛情あるいは欲望、後者がその嫌悪の対極に位置している。しかし、初期近代に用いられていたソドミー/バガリーという非難的な言葉と、牧歌的なギリシア・ローマ神話の再生産のなかにみられる同性間の接触の肯定的表現は、そうした軸の両極に位置するわけではなかった。本研究では、そのどちらもが異教/異郷の他者の表象であり、身体の接触が強制されること、そして少年への嫌悪と性愛が混在しているという共通項を持っていることを指摘する。そして、ソドミー/バガリーとホモエロティックな表現の共存は、先行研究で指摘されたような矛盾ではなく、同性間の性的な欲望という同じ領域における表現のあり方であったことを明らかにする。
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