2010 年 86 巻 p. 59-74
本稿は,小説,映画,マンガなどに描かれる教師像を「熱血教師」を手がかりとして分析することで,教師への錯綜するまなざしを明らかにすることにある。「熱血教師」は現在のテレビドラマなどに見られる画一的な教師像であるが,これは現在も教師への信頼が強いことを示す。その一方で,メディアでは教師への批判が数多く報道されている。本稿ではこうした教師への信頼と不信の錯綜したまなざしと教師像の変化を検討した。
「熱血教師」は1960年代に石原慎太郎『青春とはなんだ』で提出された教師像であった。その特徴は,教育への情熱,教師らしさの無さ,理想的人間像の他,教師と生徒の関わりに物語の重点が置かれていること,さらに児童生徒の私的領域に押し入ってまでの問題解決であった。こうした教師像は,日本の現実の教師の行為を反映したものでもあった。
その一方で,1980年以降,マンガの中では児童生徒の私的領域に関わらない不良教師が描かれるようになった。このことは,現実の社会でも教師が児童生徒の私的領域に関われなくなったことを示している。それにもかかわらず教師には「熱血教師」として,なおも児童生徒の私的領域に関わることが求められている。
以上の議論をもとに,教師に対するまなざしを多様化し,個々の教師の多様性に着目することの重要性を指摘した。