「生かされている」という言説の教育学的課題と意義
―中動態にもとづく道徳教育での問い直しを手がかりにして―
福若 眞人(阪南大学)
はじめに
本論文は、学習指導要領解説などで用いられる「生かされている」という言説に関する原理的な検討をおこなうものである。
厚生労働省が警察庁のデータをもとにまとめた統計によると、2022年に自死によって亡くなった小中学生と高校生は514人となり、統計のある1980年以降で過去最多となった1。近年、日本全体の自殺者数が減少傾向にあるなかで、子どもの自殺者数が増加している点は深刻に捉えられている2。2017年に閣議決定された「自殺総合対策大綱」では、「SOSの出し方教育」の推進が努力義務として示されるなど、子どもの自殺予防に向けた取り組みは、喫緊の課題となっている。
日本の自殺予防教育において、自死は心の危機やメンタルヘルスの課題として捉えられ、援助希求を促すことを目的としたさまざまなプログラムが試行されている。もちろん、そうした実践は保健体育などの教科内容と関連するだけでなく、人権教育やキャリア教育がその土台となるように、学校教育とのつながりにも意識が向けられてはいる(窪田編 2016:30-36;阪中 2015:100-104)。だが、自殺予防教育の土台となる「いのちについて考える」授業には、自殺予防に向けた取り組みを無力化させてしまう一面もみられる。
例えば、学習指導要領の総則や「特別の教科 道徳」編では、自他のかけがえのない生命を尊重する学びを充実させることがめざされている。そのなかで用いられる「生かされている」という言説を含めた、「いのちの大切さ(生命の尊さ)」を志向する学び、あるいは「いのちについて考える」授業には、生きづらさを抱える子どもの援助希求を困難にし、孤立を深める危うさがあるという指摘もある(松本 2014:148-149)。自傷経験などのリスクや逆境的小児期体験のある児童生徒にとって「いのちについて考える」授業や「生かされている」という言説は、「事情を知らない人が押しつけてくるきれいごと、信用できない、聞くまでもない」ものに映りかねないのである(川野・勝又編 2018:5)。
援助希求を促す自殺予防教育も、「いのちについて考える」授業も、本来はともに子どもの安全や豊かな生を保護していく取り組みであるにもかかわらず、子どもの生きづらさの解消に向けて接続しきれていない。こうした状況を受けて本論文では、「いのちについて考える」授業などで扱われる「生かされている」という言説を、別の角度から捉え直すことで、その接続に向けての手がかりを得ることを試みる。特に、「生かされている」という表現に見られる受動的側面に着目し、「生かされている」という表現がもたらす問題点と意義を明らかにする。その際、受動的側面の課題に対して、近年、教育領域でも注目されている「中動態」(middle voice)という概念を手がかりに検討を進める3。「中動態」的側面を意識することによって、「生かされている」という言説を「押しつけ」や「きれいごと」にしないような別様の方向性を探ることをめざす。
そのために、本論文は以下のような流れで論を進める。まず、道徳教育などで語られる「生かされている」という言説の問題点と、別様の方向性を探る前提にある自己の生の捉え方について確認する(第1節)。次に、「中動態」について概観しながら、「生かされている」という言説に対する別様の捉え方を明らかにする(第2節)。そして、「特別の教科 道徳」を一例に、「生かされている」という言説を捉え直すうえで、教師にどのような役割が求められるのかを検討する(第3節)。一連の検討を進めるために、本論文では、道徳教育を中心に取り扱うが、そこで確認される論点は、他の教科教育や教科外の学習にも通底するものとなる。以上の考察を試みることは、「生かされている」という言説の教育学的課題と意義を明らかにすることを意味し、子どもの生きづらさの解消に対する学校教育による寄与へとつながるだろう。
第1節 「生かされている」という言説と自己の生の捉え方の問題点
第1節では、「生かされている」という言説に、どのような問題があるのかを確認するとともに、「いのち」という概念の捉え方を手がかりに、「生かされている」という言説と自己の生をめぐる関係を、能動-受動という主体のあり方に即して検討する。
(1)道徳教育における「生かされている」という言説の教育学的課題
まず、「生かされている」という言説が、とりわけ道徳教育のなかでどのように論じられており、そこにどのような問題があるかを確認する。
小中学校の「特別の教科 道徳」では「生命の尊さ」を扱うものとして、内容項目「D 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」において、生命の「有限性」(生命にいつか終わりがあること、その消滅は不可逆的で取り返しがつかないこと)や「連続性」(生命はずっとつながっているとともに関わり合っていること)、「偶然性」(自分が今ここにいることの不思議)について自分事として理解を深め、生命に対する畏敬の念を育てることがめざされている(文部科学省 2018a:64;2018b:63)4。
小中学校の学習指導要領解説(以下、「小学校解説」「中学校解説」と略記)の「内容項目の概要」において、「生命を大切にし尊重すること」(小学校)および「生命を尊ぶこと」(中学校)は、ともに「かけがえのない生命をいとおしみ、自らもまた多くの生命によって生かされていることに素直に応えようとする心の表れ(現れ)」(傍点引用者、カッコ内は中学校解説)であると指摘されている。そして、人間の生命の尊さや自己の生命の尊さを深く考えるために、小学校では低学年、中学年、高学年の発達段階に応じた指導の要点が、中学校では他教科の学習との関わりなどを含めた指導の要点が整理されている。
なかでも中学校解説の「指導の要点」では、次のような指摘がなされている。
指導に当たっては、まず、人間の生命のみならず身近な動植物をはじめ生きとし生けるものの生命の尊さに気付かせ、生命あるものは互いに支え合って生き、生かされていることに感謝の念をもつよう指導することが重要な課題となる。(文部科学省 2018b:63、傍点引用者)
小学校解説では、「生命のかけがえのなさ」や「与えられた生命を一生懸命に生きることのすばらしさ」といった「生きること」そのものへの向き合い方を育むことをめざしているのに対し、中学校解説では、そうした「生きること」そのものへの向き合い方に、「感謝の念」という別の要素を指導対象として付け加えていることがわかる5。
「生かされている」ことと「感謝の念をもつ」ことを、なぜ結びつけて指導する必要があるのかという点については、中学校解説においてそれ以上の説明が特になされているわけではなく、「他の生命を尊重する態度を身に付けさせること」との関連が指摘されている程度である。生命が互いに支え合っていることをふまえて、「支えられて」生きているということ、それが「生かされている」ということの意味であると捉えられる点、そしてその支えを享受していることへの恩義として「感謝の念をもつ」ことが求められている点は、あくまで解説の文脈から推測されるにすぎない6。
だが、この「生かされている」という言説について、冒頭でみたとおり、例えば逆境的体験を経験している子どもにそうした文脈を共有することは容易なことではない。今置かれている状況や状態を「生きる」という能動的側面で支えることに精一杯の子どもに対し、「与えられた生命」を「生かされている」という受動的側面を自分事として、あるいは肯定的に捉えることは困難である。そのうえ、周囲に頼れる人や資源が存在しない状況のなかで、家族を含む周囲から「生かされている」ことや「支えられて」いることに「感謝の念をもつ」ことを「指導」として強いられた場合、孤立感をさらに強めることになり、自身のもつ「生きづらさ(SOS)」を表明することは、より一層困難となる。
このように、「生かされている」ことと、そこに付随する「感謝の念」をめぐる言説には、ともすれば、受動的な生の側面(恩義)を強調し、能動的な生の側面を背景化することで、子どもを生命の連続性へとつなぐ7どころか、さらに孤立を深めることにつながりかねないという問題を生み出してしまう8。こうした問題点が、子どもの生きづらさの解消を阻むだけでなく、援助希求を促す自殺予防教育への接続を困難にしているのである。
(2)「いのち」と自己の生の関係をめぐる別様の捉え方
「生かされている」という言説の問題点を確認する際、逆境的体験を経験している子どもを例に、子どもたちが置かれている日々の状況について、「生きる」という能動的側面と(与えられた生命を)「生かされている」という受動的側面を対置して検討した。それは、自己の生を、「能動か受動か」という二項対立的な主体のあり方として捉えていることを意味する。こうした捉え方は、「いのちは誰のものか」という所有をめぐる議論として取り上げられることもあるが、「いのち」という言葉そのものの意味合いには、「能動-受動」という二元論にはおさまらない側面もある。
例えば、自分の「一番大事なもの、ただ一つのよりどころ」といったように、「自分のいのち」ではないものを「いのち」と形容することがある。この点をふまえて、竹内整一は、「いのち」が「自分の内にあるものだけではなく、自分の外にあって、それがあってこそ自分を生かしめてくれる大事な何ものかをも指す言葉」であると述べている(竹内 2023:255)。竹内が指摘する「自分の外」にある「いのち」は、「自分を生かしめてくれる」という点では、自己にとって「生かされる」という受動的側面として捉えることができる。だが、「大事な何ものか」という価値づけをおこなっているという点を自己の能動的な関与として捉えることもできる。つまり、自己の生には「受動的でもあり、能動的でもある」といった形で、「能動-受動」という二元論として捉えることができない側面がみられるのである。
このように、自己の生について「能動か受動か」という対立とは別様の捉え方を模索していくことで、「生かされている」という言説を捉え直すだけでなく9、道徳教育の学習などで扱われる自己の生の捉え方そのものを問い直すことも可能となる10。次節では、その手がかりとして、「中動態」という様態から、「生かされている」ことをどのように捉えられるかを検討する。
第2節 中動態から「生かされている」ことを捉えることの意義
前節では、小中学校の「特別の教科 道徳」の学習指導要領解説を手がかりに、特に中学校解説において、「生かされている」ことに「感謝の念」という恩義を指導対象とするという価値づけが加わる点に、子どもの孤立を深めたり、生きづらさの解消を阻んだりするような問題があることをみてきた。また、「生かされている」という言説のもつ受動的側面に対し、自己の生は「能動-受動」の二元論では捉えきれない面もあるということを確認した。第2節では、「中動態」について概観することで、「生かされている」という言説をどのように別様に捉えることができるのかを検討する。
日常生活のなかで行為の分類を言語で表すとき、現代の言語の文法では、「する」と「される」の対立、すなわち能動態と受動態の対立として捉えられる傾向にある。だが、インド=ヨーロッパ語族の諸言語においては、こうした文法法則は普遍的なものではなく、かなり後世になってから出現したものであるという(國分・熊谷 2020)。
能動態と受動態の対立にもとづいて人の様態を捉えた場合、行為や動作の方向性に依拠したとき、その矢印が自分から外に向かえば能動、矢印が自分に向かえば受動となる。だが、能動態と受動態が対になる以前には、次のような関係性として、能動態と「中動態」の対立が捉えられていた。
能動では、動詞は主語(主辞 sujet)から出発して、主語の外で完遂するような過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。(バンヴェニスト 1983:169)
バンヴェニストのこの定義に関して、例えば能動態のみ動詞をとるとされる「与える」や「食べる」は、國分功一郎の解説に倣うと、与えたり食べたりしたものは「主語が占めている場所とは別のところに消え去ってしまう」(國分 2017:88)。そうした主語の外で完遂する過程を「能動」と捉えるのに対し、「欲する」のような「心のなかからわき起こる欲望」によって突き動かされる過程のなかに主語があるような場合は「中動」と捉えるのである11。つまり、能動態と中動態の違いによって、動詞の主語のあり方としての主体の捉え方が異なるのである。國分が指摘するように、バンヴェニストにおける能動態と中動態の対立は、「する」か「される」かではなく、主語が動詞によって名指される過程の内部にあるか、外部にあるかが問題となっている(國分・熊谷 前掲書:97-98)12。こうした捉え方の異なりには、どのような意味があるのだろうか。
國分は、能動態と対立する中動態が消滅した背景には、能動と受動を対立させる言語が「行為における意志」を問題にしてきたことと関連があるのではないかと推測している。思想史として捉えたとき、ある現象が「自分の意志で現れたのか、それとも現れることを強制されたのか」という区別について言語を用いて表すことが、キリスト教哲学における「意志」概念の発見につながったとされている(同上書:106)。
つまり、中動態という文法構造に着目することで、「能動-受動」の二項対立として人の様態を捉えることが、「意志」の有無を、さらに言えば、「意志」に付随する「責任」の所在を問うことにつながっているということが明らかにされたのである。この点を、「生かされている」という自己の生をめぐる問題に接続するならば、自己の生を「生かされている」という受動的側面と、「生きる」という能動的側面の対立として捉えることは、自己の生に対する「責任」をどう捉えようとしているのかという問題にも結びつくと言える。言い換えれば、「生かされている」という受動的側面を否定的(消極的)に捉え、「生きる」という能動的側面を積極的に志向することで、自己のあらゆる行為を自己責任として捉えるような人間観を形成(強化)することにつながりかねないのである。
「生かされている」という表現そのものは、「中動態」の動詞ではない。だが、中動態だけをとる動詞には、「生まれる」や「死ぬ」、「耐え忍ぶ」、「享受する」といった自己の生に関連する語が複数存在する(バンヴェニスト 前掲書:169)13。こうした中動態のみをとる動詞は、主辞が(行為の)過程の座や場となる状況に関わっており、過程を「まるで主辞の体を巣くり、主辞の内部で主辞を変容させる力のようなイメージ」(小野 2022:44)として捉えることを可能にする。学校教育のなかで、中動態のみをとる語にみられるような変容をもたらす緊張関係を、「生かされている」という(動詞)表現に対照化することで、自己の生の捉え方をめぐる問いに対して「恩義」や感謝の価値づけを安易に行わないだけでなく、自己責任の論理にも回収しないような別様の捉え方を模索することを可能にすると言えるだろう。
第3節 「生かされている」という言説の問い直しをめぐる教師の役割
「生かされている」という言説(表現)そのものは「中動態」の動詞ではない。だが、「中動態」という様態に注目することで、「生かされている」という状況を含めた、自己の生の捉え方を別様に開いていくことができる可能性を、前節でみてきた。
國分によると、「中動態の世界を生きる」ということは、「完全に自由になれないということ」であり、かつ「完全に強制された状態にも陥らないということ」でもあることを意味する(國分 2017:293)。そうした「中動態の世界」を前提として生きていくには、「自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める」ことが求められる(同上書:294)。例えば、「生かされている」という言説そのものを問い直すことは、自己の生そのものを「完全な自由」すなわち「能動」か、「完全な強制」すなわち「受動」かのいずれにも陥らない状況がどのようなものであるのか、ということを模索するという点で、「自分たち自身を思考する際の様式」を改める契機となる。
こうした契機を、例えば道徳教育のなかでどのようにみることができるだろうか。学習指導要領解説において、道徳教育が取り扱う内容項目は、「児童(生徒)自らが道徳性を養うための手掛かりとなるものである」(文部科学省 2018a:22;2018b:19、カッコ内は中学校解説)と捉えられているように、内容項目やそれに関する説明は、道徳性をめぐって思考していくこと、すなわち自らの思考様式を形成していく手がかりとなっている。だが、池田賢市が指摘するように、道徳を学ぶ児童生徒は「最初から提示されている内容項目に沿って教材を理解しようとする」ために、授業が硬直化するだけでなく、教科書の「読み物内容」が偏見や差別を助長することにつながりかねない側面がある(池田 2021:182)。つまり、教科書を用いた道徳の授業において、意図的・非意図的なカリキュラムに児童生徒は強く影響を受けることになるのである。
ゆえに、そうした影響を受けることを自覚したうえで、教師が内容項目やそれに関連する言説を「問いに付す14」ことによって、思考様式を改めることが必要となる。その際、問いに付すうえで回避しなければならないのは、「大人の世界で起きている問題の解決を子どもに引き受けさせようとする姿勢」(市川 2022:160)である15。もちろん、所与としての教材を使用して授業に入る時点で、子どもを大人の世界で起きている問題に巻き込むことになる。だが、「読み物内容16」からどのような価値観が捉えられるかを問いに付し、そこにどのような別様の捉え方ができるかをともに模索(議論)していくことによって、自己の生を「完全な自由」でも「完全な強制」でもないものとして捉えていく力を養っていくことができるのではないだろうか。そうした学びを道徳教育だけでなく、さまざまな教科学習や教科外学習を通じて積み重ねていくことで、自他の生きづらさと向き合い、その解消を探究する自殺予防教育にも接続していくことができるだろう。
おわりに
以上、本論文では「生かされている」という言説について、学習指導要領解説などでの取り扱われ方や、中動態を参照した自己の生の捉え方を手がかりに検討してきた。学習指導要領解説においては、「感謝の念」という恩義が価値づけられるという課題が確認され、中動態の議論を経由することで、自己の生を「能動-受動」の二項対立で捉えることが自己責任論を強化することになりかねないという課題が明らかとなった。他方、中動態を含む自己の生や「いのち」の捉え方を「問いに付す」ことで、「生かされている」という言説への注目が、思考様式を改める契機となり、生きづらさと向き合い、その解消に向けた別様の捉え方を模索することにつながるという意義をもちうる点をみてきた。
「生かされている」という言説を端に発して「いのちについて考える」とは、このように「いのち」や自己の生をどのように捉えるのかという問いと向き合うことを、学習者のみならず、「問いに付す」教育者にも切実に要求する。法的拘束力を帯びる学習指導要領17をもとに授業を展開していくなかで、「生かされている」という表現ひとつとってみても、それをどのように教師が捉え、生きづらい状況下にある児童生徒を前に、どのように教科内容の文脈へ開いていくのかを思考することが重要となる。そうした教科内容の問い直しや意味づけ直しを通じた授業の実践が、改訂された生徒指導提要で要請されているような「学習指導と生徒指導の一体化」としての重層的支援構造(新井編 2023)や、自殺予防教育にも接続していくことができると予想される。
本論文では、以上のような原理的な考察を試みた。教材研究や授業実践を通じた検証については、今後の検討課題としたい。
付記
本研究は、JSPS科研費(20K13990, 22K02615)の研究成果の一部である。
引用・参考文献
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川野健治・勝又陽太郎編(2018)『学校における自殺予防教育プログラムGRIP』新曜社
木村敏(2014)『あいだと生命―臨床哲学論文集』創元社
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高橋祥友(2022)『自殺の危険〔第4版〕―臨床的評価と危機介入』金剛出版
髙宮正貴(2020)「道徳の授業ではどんな発問をしたらよいだろうか?―発問のつくり方」、井藤元編『ワークで学ぶ道徳教育〔増補改訂版〕』ナカニシヤ出版、237-249頁
竹内整一(2023)『「おのずから」と「みずから」―日本思想の基層』筑摩書房
田中智志(2012)『教育臨床学―〈生きる〉を学ぶ―』高陵社書店
戸谷洋志(2021)『ハンス・ヨナス 未来への責任―やがて来たる子どもたちのための倫理学』慶應義塾大学出版会
バンヴェニスト・エミール(1983)『一般言語学の諸問題』(岸本通夫監訳)みすず書房
松本俊彦(2014)『自傷・自殺する子どもたち』合同出版
文部科学省(2018a)『小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』廣済堂あかつき
―――――(2018b)『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 特別の教科 道徳編』教育出版
矢野智司(2008)『贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』東京大学出版会
李永淑(2023)「「非自発的な同意」における学びの諸相―中動態概念を用いたアクティブラーニングの検討から―」『関係性の教育学』(22-1)、137-152頁
文部科学省がまとめた「児童生徒の問題行動・不登校調査」の2022年度の結果では、小中高校から報告のあった自殺者数は411人となり、2020年度の415人に次いで深刻な状況となっている。厚労省・警察庁と文科省の間での統計の差について、文科省における調査対象や報告を作成するプロセスの問題を指摘する意見もある(阪中 2015:6-7)。本論文ではその点をふまえ、厚労省・警察庁(および、こども家庭庁)による調査結果をもとに論を進める。なお、自死をめぐる問題を扱う際、自殺率に注目して分析を行うことは少なくないが、日本における自殺率の高さについてもさまざまな要因が関連している。とりわけ、文化的背景に関しては社会的要因として、社会や文化のなかでの自死に対する許容度も無関係ではない(末木 2022;高橋 2022)。文化に関する学習などが死生観や人間観の形成に影響を及ぼすという点でも、各教科や領域での自死の取り扱いについては、遺族などの当事者への配慮を前提としつつ注意を要する。
こうした事態を受け、『月刊生徒指導』(2023年11月号)や『教育と医学』(2023年11・12月号)では、相次いで子どもの自殺予防に関する特集が組まれている。
教育領域における「中動態」への注目は、特に「学び」への関わりや授業実践のあり方の検討において援用する研究にみられる(高野・津山 2021;李 2023、など)。
小学校解説では、生命の「連続性」と「有限性」についての言及がみられ、中学校解説では、「偶然性」が付け加わっている。この生命の特性をめぐる記述の違いについて、従来の学習指導要領解説でどのように扱われていたのかという歴史的変遷に関しては、関根(2022)などを参照されたい。
「特別の教科 道徳」では、内容項目「主として人との関わりに関すること」のなかで「感謝」を扱う項目があり、「生命の尊さ」と「感謝」の両方の項目を扱う教材が教科書で取り上げられている場合もある。そのため、小学校においても「生命の尊さ」に「感謝(の念)」を含めた学習が実践される場合もある。
「生かされている」という概念は、内観法を用いた矯正教育においても用いられている。内観法においては、その体験を通じて「報恩感謝」を感得することができる。内観法の出自には浄土思想とのかかわりがあるが、昭和35年(1960)の全国刑務所長等会同で「内観は宗教ではない」という統一見解が示されるなど、内観法による矯正教育は宗教教育とは捉えられていない(岩岡 2000:107)。こうした点も含めつつ、「生かされている」ことをめぐる価値づけやその概念に内在する思想的特徴については、機を改めて検討したい。
子どもを生命の連続性へとつなぐことを、教師や大人の責任と捉えるとき、その「責任」をどのように捉えるかという点にも多様な観点が存在する。例えば、子どもを対象とした「責任」について、ハンス・ヨナス(Hans Jonas 1903-1993)の未来世代への責任の捉え方などが挙げられる。なお、ヨナスは子どもや人間の存在に、アーレントの「出生性(natality)」を継承した「誕生性(Gebürtigkeit)」という性格をみており、それにより存在する生の多様性を別様に捉えることも可能となる(戸谷 2021:54)。
仮に、逆境的体験のような過酷な状況を生きている場合でなかったとしても、連続性のある生命の支え合いへの「感謝の念」は、見田宗介が宮沢賢治の『フランドン農学校の豚』に見出した「日本的共同体の支配原理」につながりかねない発想をもちうる。見田の言う「日本的共同体の支配原理」とは、「理性・良心によって個人として自律的に生きているのではなく、近隣や親族や先祖の「恩義」によって全体の一部として生かされているのであり、いずれその「恩義」を返さなければならない、つまり自分の「いのち」を投げ出さなければならない、という考え方」(田中 2012:195、傍点引用者)を意味する。こうした支配原理は、近代以前の共同体のみならず、戦後教育学においても「先行する世代への感謝=負い目」にもとづく教育として展開されてきた(矢野 2008)。
本論文では「生かされている」という言説に着目したが、自己の生を現象学的に捉えていく際に用いられる「生きられた(経験)」という言説(ヴァン=マーネン 2011)を手がかりにすることで、「生かされている」という言説との捉え方の異なりを検討する余地が残されている。この点については、今後の課題としたい。
小学校解説では、「道徳科の学習は,「人生いかに生きるべきか」という生き方の問いを考えると言い換えることができ」る(文部科学省 2018a:106)、中学校解説では、「道徳科における教材との出会いやそれに基づく他者との対話などを手掛かりとして自己との関わりを問い直すことによって,そこから本当の理解が始まる」(同 2018b:15)とあるように、道徳教育のなかで、特に自己の生き方や自己への関わりにおいて「問う(問い直す)」ことに一定の意義が見出されている。ただし、道徳教育において「問い」という言葉は、発問の検討における文脈でも論じられる(髙宮 2020)ことから、道徳教育における「問い」(問うこと)の捉え方についても、別途検討する必要がある。
「主語の過程」に着目した能動態と中動態の違いは、言語学が明らかにしてきた事実としてみられるが、それにより中動態を必要に特別扱いすることに、國分は問題視している(國分 前掲書:76)。特に、それは近代的な〈主体/客体〉構造を乗り越えるうえで、ハイデガーの哲学に関連して中動態を称揚するような議論が散見されるという。こうした國分の問題視を考慮しつつ、本論文では、中動態概念に着目することでハイデガーの思想を捉え直そうとする立場(小田切 2018)と同様に、あくまで中動態概念から「生かされている」という言説に表れる人間観や教育観を捉え直すことを目的としている。
小野文は、バンヴェニストが1950年に執筆した中動態論文の段階では、「主辞 sujet」は「主体 sujet」ではない点に言及し、「あくまでも文の要素としての「主辞」であり、文の外の存在、言語を用いている「話す主体」のことではない」と指摘する(小野 2022:45)。國分の論や木村敏による「中動態的自己」論(木村 2014)をはじめ、近年注目されている「中動態」概念は、バンヴェニストのこの留意点をふまえず、主体の様態として捉えられる傾向にある。
「中動態のみをとる動詞」および「能動態のみをとる動詞」について、バンヴェニストはサンスクリット語、ギリシア語、ラテン語などに共通するものを挙げている(國分 2017:86)。なお、バンヴェニストが列挙した動詞のなかで「生きる」や「在る(存在する)」は、能動態のみをとるものとして挙げられている。バンヴェニストは「在る(存在する)」という動詞は、「主体の関与が必要とはされない過程」とされており、國分は中動態に対立するところの能動態においては「主体は蔑ろにされている」と指摘している(國分 同上書:90)。
「問いに付す」とは、道徳教育などで教育者から子どもに提起されるものという意味では、広義の「発問」に含まれる行為であると考えられるが、髙宮正貴が指摘するような「子どもの思考を促すための問いかけ」(髙宮 2020:237)に留まるものを想定していない。髙宮は、新宮弘識が提示した「よい発問の条件」として、「①ねらいにせまる発問であること、②子どもの能力に即した発問であること、③発展的な発問であること、④抵抗の程度が適切な発問であること、⑤多面的な反応が期待できる発問であること、⑥子どもの問いを代弁するような発問であること」という6つの条件を示しているが、「思考する様式を改める」ことを志向する「問いに付す」ことは、こうした発問の先あるいは根本に位置づくものと言える。この点については更なる検討を要する。
現在進行形で起きている問題を「大人の世界で起きている」ものとして、子どもに押し付けることは教育として適切ではないという点では、市川の指摘に同意することができる。だが、起きている問題を「大人の世界(成人した後の「社会」)」の問題として、他人事にしてしまうこともまた、適切とは言えない。子どもと大人がともに生きる場の問題として捉える必要があり、授業がその共有の場の契機となりうる。
教科書の「読み物内容」としては、「特別の教科 道徳」以外にも、死生観を取り扱う国語科の教材(岩田 2004)をはじめ、子どもの生きづらさや「いのちについて考える」ことにアクセスできる教材を、社会科や他の教科にみていくことができる。各教科や領域の内容において、具体的にどのようなもの(あるいは教科としてどのような取り上げづらさ)が存在し、どのような価値観を捉えられるかについては、機を改めて検討したい。
学習指導要領をめぐる法的拘束力として論じられる「法規性」について、髙橋哲はその主張自体に明確な法律上の根拠があるわけではなく、法律の委任をめぐる当時の文部省解釈によって生み出されたものであることを指摘しており、その主張をめぐってはいまだに論争的な状況にあることに注意を促している(髙橋 2022:95-96)。