明治政府は,近代天皇制を再編するにあたって,いわゆる「御真影」を活用したイメージ戦略を練ったが,国民に対する天皇権威の刷り込みに直接役立ったのは,下賜された御真影を「見させること」それ自体ではなく,むしろ御真影の奉戴とその遙拝,およびそれに付随する教育勅語奉読等の諸儀式があげる包括的な訓育効果であった.したがって,当初は国家的なイメージ戦略として構想された「御真影」は,逆説的ながらも,むしろそれを直視することが儀礼的に禁じられたがゆえにこそ,国民の視線を構造的に抑圧する装置として,有効に機能したことになる.
それを踏まえて指摘すれば,通常の映画においては,演出家・登場人物・観客それぞれが画面の内と外をまたいで視線を交錯させるが,溝口健二の作品では,画面が緊迫の度合いを高めるにしたがい,複数の視線と情動が複雑に入り交じり,次第にそれぞれの視点が捻転させられ,やがては誰もが見ることを放棄して,ひたすら頭を垂れよと画面内の傍観者から呼びかけられるにいたる.そのような溝口の演出は,視線それ自体の抑圧として機能した「御真影」と,あたかも相同の効果をあげているように見える.