近代の漢学者・長尾雨山(1864-1942)は,上海時代の徐園集,古書画展観雅会,帰国後の寿蘇会,平安書道会等の実質的主催者であったが,必ずもう一人の主催者を立て,自分はその後に控えて事業を進めた.このような雨山の謙虚さが,その人脈形成力につながっていたと思われる.
では,雨山はなぜこのような謙虚さを身につけていたのであろうか.筆者は,その背景に高松にあった雨山の生家の存在が大きく関わっていたと考える.
本稿では,雨山の生家の所在地を実地踏査によって特定し,その地が,今も敬愛される高松藩公子・松平頼該の邸宅「亀阜荘」の敷地内にあったこと,そして雨山の曾祖父,養祖父,生父が頼該の側近として仕えていたことを明らかにした.
このような長尾家の嗣子として生まれ育った雨山は,自然と,長尾家が仕えた松平頼該の謙虚な人柄に学び,その資質を受け継ぐこととなった可能性が考えられる.
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