2001 年 10 巻 p. 183-191
臨床知の未規定性とその制度化の歴史の二つの磁場に引き寄せられない形で、どのように「臨床知」に立ち向かっていけばいいのか。三氏の基本戦略はそこにある。だが、リクールの「生きた隠喩」をつかった行為知としての組み替えも、教育詩学として教育言説の二項図式を揺るがせる試みも、農村共同体の臨床知を教育学の反省知としてみなす方法にも、それぞれ弱点がある。臨床知の未規定性と制度化にナイーブになりすぎることはない。臨床知を言説化していくいわば取水作業なくしてなにも議論は始まらないし、そしてハイパーメディア共同体の日常の分節化をもっと積極的に行っていくべきである。教育学の第二段階の肯定的な脱構築は、そこから始まっていくのではないだろうか。