2006 年 15 巻 p. 103-117
現在、グローバリゼーションの浸透により資本制=国家=教育の幸福な一致である教育の福祉国家体制がゆらいでいる。この体制は教育が国民国家という自明な地平に守られ自己完結した状態であり、教育の複数性、教育原理の絶対的差異の抑圧=忘却を伴う。グローバリゼーションに伴う社会・生産体制の変化は、こうした教育体制にゆらぎをかけ、新しい可能性を開きつつあるが、同時に、世界市場を規範とする新しい主権=暴力の体制は、この可能性を有用性のロジックに、多様性を個人化=所有の分割線のなかに再包摂しようとしている。以上の分析に続いて、本論文では、一国内での福祉国家体制の罠からも、グローバリズムの罠からも自由な、市民教育=民主主義の原理に基づいた教育の可能性について素描する。また、脱領土化を特徴とするグローバリゼーションの不安の中で、素朴な<共>に基づく教育/学びの重要性が強まりつつあることを指摘する。