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原稿種別: 表紙
2006 年 15 巻 p.
Cover1-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
App1-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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加藤 守通
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
i-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 目次
2006 年 15 巻 p.
Toc1-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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北詰 裕子
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
1-17
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
世界の表象という観点から、近代教育学の端緒として位置づけられてきたJ.A コメニウスの教育思想を再読した。彼の代表的著作である書物『世界図絵』と、そしてそれと重なる内容を持つ演劇脚本『遊戯学校』を、一七世紀的文脈に置き直しながら比較し、両者において、世界がどのように立ち現れ、いかに機能するのかを検討した。書物である『世界図絵』は、文字と図絵によって、構成された世界をあらわす。世界を読む側から切り離して提示する書物という形式は、典型的なメディアとして近代教育に継承されてきた。他方演劇である『遊戯学校』は、学校-世界の同型性と独自の人間観を前提とする。そこで世界を映し出すのは、演じ手である子どもの身体であり、なおかつ演じ手(世界を映し出す者)と観客(映し出された世界を見る者)が循環する。示される内容が、世界・人間・学校の連関により制限されるこの形式では、『世界図絵』のように、世界を切り出し、自由に書き換えることは不可能である。ここにあるのは、初期近代の分節化し組み合わせていく文字的なるものと、レトリック的発想の混在した教育の様相である。
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相馬 伸一
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
19-27
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
コメニウスは、汎知学研究の深化とともに形而上学への傾斜を強め、「事物そのもの」を志向していった。『世界図絵』と『遊戯学校』という二つのユニークなテクストは、いかなる意味で彼の哲学の教育的所産と見なすことができるだろうか。また、彼は、教授学研究の深化とともに多様な方法を案出したが、常にその一体性を強調した。その際、形式の異なった二つのテクストが描き出す世界は、いかなる意味で隔たっているといえるのか。そして、二つのテクストが歴史のなかでたどった運命は、活字の近代の強力さを示すものなのか。北詰氏の提案は、教育における身体と表象の考察が直面する問題群を示している。
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今井 重孝
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
29-36
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
北詰論文は、知的刺激に満ちた論文である。この中で、北詰は、『世界図絵』と『遊戯学校』を、『開かれた言語の扉』を基にした絵本ヴァージョンと演劇ヴァージョンとして解釈する通説を批判し、単に絵本と演劇という方法の違いにとどまらない大きな違いが、そこで表象される「世界」をめぐって存在していることを指摘した。当時の演劇、エンブレムブックなどの文脈の中に『世界図絵』と『遊戯学校』を位置づけることにより、従来無かった新しい視角を提示した。その功績は高く評価するものであるが、北詰の視点自身が、いまだなお、「近代教育学からの評価」を完全には脱却しきれていないのではないか、というのが評者の見解である。この点について、以下論述した。
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古屋 恵太
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
37-47
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
北詰氏のコメニウス研究を、本学会における表象論議に位置づけ、反表象主義後の表象論の再編成に向けた建設的な提案として理解したい。本学会の表象論議は、ローティやフーコーなど、表象をめぐる現代の解釈枠組みを踏まえた上で展開されている。それを背景としてデカルトとコメニウスの差異を解釈すれば、デカルト的コギトの批判に立つ反表象主義を認めてなお可能となる表象論の可能性が、コメニウスに見出されることを予測できる。しかし、活字の近代の特異性を基準としてコメニウスの二つのテクスト、即ち、『世界図絵』と『遊戯学校』における表象を論じれば、二つのテクストを近代教育の観点から位置付けるに留まるのではないか。現代にまで至る問題としてローティが表象主義を捉えたのとは異なり、フーコーが古典主義時代に表象を限定したことに着目しよう。そして、表象が果たして「自然の鏡」たり得るのかという近代的な問いを生み出す表象主義とは異なる表象論を、『世界図絵』と『遊戯学校』にともに見出すことができないのか問うてみたい。
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金森 修
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
49-59
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
現代遺伝学の急速な進展に従い、ここ10年ほど、従来きわめて禁忌感の強かったヒト生殖系列の遺伝子改造の是非をめぐる議論が力を増しつつある。筆者はその議論の思想的意味を拙著『遺伝子改造』のなかで探り、その過程で、遺伝子改造が倫理的・社会的に受容可能なものであるための倫理規範を特定しておいた。本稿では、その議論の骨子を確認し、それが教育思想にどの程度の反響をもちうるのかを簡単に分析した。その過程で出てきたのは、倫理的に受容可能な形で遂行されている限り、遺伝子改造は、哲学的には大きな意味をもちながらも、教育的には比較的限定的な意味しかもたないという事態の確認であった。そして同時並行的に、われわれがすでに教育のなかで日常的に行っていることは、「自然」を最終的準拠にすることは事実上できないということの確認をした。われわれは、「自然」さえをも設計的眼差しのなかで構築していくしかない、文化的存在なのである。
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今井 康雄
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
61-70
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
遺伝子改造をめぐる議論を詳細に追跡し、遺伝子への介入を規制する三つの倫理的原則を提案した金森の報告は、今後の教育のあり方を考える上でも示唆に富んでいる。教育においても、遺伝学、脳科学、等の自然科学的な人間研究の成果を基盤としたテクノロジー化の傾向が強まることが予想されるからである。しかし、作用の帰結から遡及的に作用を規制しようとする金森の三原則は、特に教育の領域を考えた場合、十分とは言えない。作用の帰結が自由を棄損するか否か、(だけ)ではなく、作用そのものにおいて自由が確保されているか否かが、作用を規制する規準となるべきであろう。作用における自由、というこの規準は、教育において「自由」とは何か、「自由」に責任を負うとはどういうことか、についての考察をわれわれに求めることになる。
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森岡 次郎
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
71-79
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
金森氏が指摘するように、これまで、人間の遺伝的特性に対する人為的介入は、安易にナチズムへと結びつけられ、「紋切り型の批判」によって断罪されてきた。しかし、個人の自発的な選択と科学的(遺伝学的)妥当性に支えられた新優生学的趨勢において、そうした批判は効果を失いつつある。金森氏は遺伝子改造を部分的に許容する可能性を提示すると同時に、「何でもあり」とならないたあの倫理原則を提示しているが、この倫理原則はその概念や適応範囲の曖昧さから、十分に機能するとは考えにくい。教育という営みを研究対象とする私たちには、遺伝学の発展を「受動的」に後追いすることによって近未来を予測するだけではなく、教育現実のなかからリベラリズムに対するオルタナティブとなりうる価値を「能動的」に提示することが可能なのではないだろうか。
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岡部 美香
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
81-88
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
金森氏の提示した遺伝子改造の倫理原則は実際場面において機能し得るのか、という疑問から本コメント論文の考察は出発する。この考察を通して、技術を開発する科学者と開発された技術を使用する一般の人々(生活者)では技術や倫理原則にアプローチする際のルールや形式が異なっていること、科学者のディスクールは「人間一般」という概念を措定せざるを得ず、それゆえ生活の実際場面では生活者の実際行為が創出するポリティクス・ゲームのなかで換骨奪胎されてしまう可能性のあることが明らかにされる。最後に、遺伝学(そして優生学)の知見が教育の領域に導入された時に、教師や保護者といった生活者がいかなるポリティクス・ゲームを展開したかを分析することが、今後の教育思想史研究の一つの課題として指摘される。
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小玉 重夫
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
89-102
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
グローバリゼーションが国民国家にかわる新たな政治社会の構成原理をもたらすのかどうか、もしそうだとすればその条件は何なのか。本稿では、アンソニー・ギデンズ、ハート=ネグリ、ジョルジョ・アガンベンの3者の思想に注目し、この問題を検討した。まず、ギデンズは、「第三の道」において旧式の福祉国家とは異なる包含のシナリオに定位した議論を提起した。だが、それは包含と排除のアポリアを顕在化させるものであった。これに対して、ハート=ネグリとアガンベンは、包含と排除の機制を見据え、マルチチュードとホモ・サケルという、対照的な議論を展開した。ハート=ネグリの場合は、マルチチュードの構成的権力によって包含/排除の境界線を反転させる構想を提起した。それに対してアガンベンは、構成的権力と主権権力の間の危うい偶然的な関係に依拠した政治を構想することによって、包含/排除の境界線それ自体を無化しようとした。アガンベンの議論は、潜勢力(可能性)と現勢力(現実)との間の必然的なつながりを否定する労働価値説批判としての側面をもつており、この方向で政治教育の復権を模索することが、グローバリゼーション下における新しいシティズンシップを探求するうえでの一つの鍵となることを明らかにした。
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越智 康詞
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
103-117
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
現在、グローバリゼーションの浸透により資本制=国家=教育の幸福な一致である教育の福祉国家体制がゆらいでいる。この体制は教育が国民国家という自明な地平に守られ自己完結した状態であり、教育の複数性、教育原理の絶対的差異の抑圧=忘却を伴う。グローバリゼーションに伴う社会・生産体制の変化は、こうした教育体制にゆらぎをかけ、新しい可能性を開きつつあるが、同時に、世界市場を規範とする新しい主権=暴力の体制は、この可能性を有用性のロジックに、多様性を個人化=所有の分割線のなかに再包摂しようとしている。以上の分析に続いて、本論文では、一国内での福祉国家体制の罠からも、グローバリズムの罠からも自由な、市民教育=民主主義の原理に基づいた教育の可能性について素描する。また、脱領土化を特徴とするグローバリゼーションの不安の中で、素朴な<共>に基づく教育/学びの重要性が強まりつつあることを指摘する。
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野平 慎二
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
119-131
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
グローバリゼーションは、ヒト、モノ、カネ、情報の諸活動が国境を越えて地球規模で展開し、国家や社会集団、個々人の相互関係、相互作用が活発になる状況を指す。その過程は両義的である。すなわちグローバリゼーションは、一方では国家のゆらぎをもたらし、他方では国家の支配力の強化を招く。あるいは、一方では経済的、文化的な均質化(外部の消滅)を推し進め、他方では未知の他者との出会いを可能にする。本論では、グローバリゼーションという条件のもとで、国家、社会にどのような変化が生じ、何が教育にとっての課題となるのかを考えたい。両義性をもつグローバリゼーションの展開を人間形成に対して破壊的ではなく創造的なものとするためには、公共空間のもつ力によって教育の政治性と市場性をコントロールすることが必要となる。
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田中 智志
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
133-141
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
経済・情報のグローバリゼーションは、現代社会の主要な特徴と見なされている。日本全体を考えるなら、それが社会構造に与えている影響は緩慢としているが、それが教育に与える影響はこれからますます大きくなるだろう。ここで注目したいことは、このグローバリゼーションとともにモンディアリザシオンが進行していることである。モンディアリザシオンは、デリダによれば、パウロ的キリスト教に由来する普遍的な人間性概念が世界に広がることである。デリダが論じているように、この人間性概念の広がりは「純粋で無条件の赦し」を覆い隠されかねない。それは、私なりに拡張していえば、<(世界化する)世界からの緩み>が見失われることにつながっている。グローバリゼーション、モンディアリザシオンの流れのなかでは、国際的な人材育成、普遍的な人間性涵養のプログラムが提案されるだろうが、その流れのなかで、私たちの<(世界化する)世界からの緩み>が縮減されることも知っておくべきだろう。
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丸山 恭司
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
143-149
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本シンポジウムの三論考は、議論の整理、立論、問題提起のいずれにおいても優れた仕事である。しかし、一方で、そもそも国境を越えてひとと出会うとはどういうことなのかについて、あまり多くを語ってはくれていない。本稿は三者の論考に刺激されて「国家・グローバリゼーション・教育」の問題圏の広がりと留意点を私なりに捉え直したものである。本稿の問いは次の通りである。「グローバリゼーション」や「マルチチュード」として新たに名指された諸現象は、そう名づけられることによって見えなくなってしまった側面をもつていないだろうか。ひとびとのつながりを促進するはずのグローバリゼーションが「出会いそこない」を助長してしまうことはないのか。出会いそこなわれる状況を前にして、わたしたちに何ができるか。
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片山 勝茂
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
151-163
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
本稿はまず、情報や経済などのグローバリゼーション(グローバル化)について、三人のシンポジスト(小玉重夫氏、越智康詞氏、野平慎二氏)の見解を比較検討する。次に、マイケル・ハートとアントニオ・ネグリによる<帝国>とマルチチュードについての議論に対して、シンポジストたちがどのように応答しているのかを比較検討する。その上で、「大きな政府か、教育の私事化か」という対立軸を用いながら、グローバル化の時代における国家と教育の位置づけについて、シンポジストたちの考えを比較検討する。それから、市民性の形成についてのシンポジストたちの考えを比較検討する。その際、市民教育で何らかの社会変革プロジェクトを扱う場合には、その社会変革プログラムを批判的に検討する能力も育成すべきであることを論じる。最後に、シンポジストたちの議論では取り上げられていないものの、グローバル化の時代における国家と教育のあり方を考える上で重要な問題を提起する。
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鈴木 晶子, 弘田 陽介, 小野 文生
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
165-178
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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藤川 信夫, 丸山 恭司, 高木 雅史, 根村 直美
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
179-190
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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須川 公央, 野見 収, 下司 晶, 秋山 茂幸, 塩崎 美穂
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
191-202
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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下司 晶
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
203-219
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
しばしば評価の分かれるJ・ボウルビィの説に、私たちはいかに接したらよいのだろうか。支持と批判の二者択一に代わる第三の選択として、本論では、彼の理論の成立過程と、その思想史的基盤の解明を試みる。その際に特に着目するのが、精神分析から自然科学(行動生物学)へと至る彼の理論枠組みの変遷である。各章では、それぞれ以下の内容を検討する。(一)精神分析家として訓練を受けたボウルビィが、病因として外的<現実>を重視するようになる過程。(二)母性剥奪論の登場と受容を準備した思想史的背景。(三)母性剥奪論から愛着理論への道程においてボウルビィが精神分析を離れ、自然科学(行動生物学)への依拠を強めていく様相。(四)ボウルビィ理論および彼が構想した「自然科学としての精神分析」というヴィジョンの妥当性と、フロイトからの距離。
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柴山 英樹
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
221-225
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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古川 明子
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
227-232
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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川口 陽徳
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
233-237
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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今井 康雄
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
239-246
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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清水 禎文
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
247-250
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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新井 保幸
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
251-255
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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米村 まろか
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
257-261
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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西村 拓生
原稿種別: 本文
2006 年 15 巻 p.
263-266
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
267-268
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
268-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
268-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
269-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
269-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
270-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 付録等
2006 年 15 巻 p.
270-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー
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原稿種別: 表紙
2006 年 15 巻 p.
Cover2-
発行日: 2006/09/17
公開日: 2017/08/10
ジャーナル
フリー