抄録
本発表の目的は、被差別部落(以下、部落)での近代工業の成立とその後の展開、ならびにそれに関わる被差別部落民(以下、部落民)の就労活動の変化をみることである。従来「部落産業」と位置付けられた工業に関する研究は、差別問題の分析をおもな目的として、その原因となる事象の過程が重視されてこなかった。具体的には、皮革業など前近代に起源をもつ業種以外では、部落民による工場誘致の過程、とくに彼らの就労活動の変化を分析する必要がある。その業種の存立基盤が、外部地域における彼らの労働に依存しているからであり、それが工場誘致に直接関わる要因なのである。このような分析を通じて、部落民が近代工業の成立に重要な役割を担っていたことを考えてみたい。本発表では、大阪府南部の部落で行なわれてきた製線業を事例とする。製線業はワイヤーロープを製造する業種で、この部落では、おもにその素線を製造する伸線加工が行なわれてきた。研究方法として、大阪府救済課『部落台帳』(大正7年)、ならびに『商工名鑑』や『工場通覧』などで製線工場の分布の変遷を確認し、部落民の製線業への就労の有無や、就労地については、聞き取り調査を行なった。その結果、ある部落民・グループAは伸線の技術を外部の工場で習得した後、対象地域の部落内で工場を創業した。一方、グループBは技術習得後、大阪府南部・東部の製線工場から賃金面などで好条件を提示され、高次な技術職人として引き抜かれた。また、彼らはグループAの創業した工場で血縁関係のある工場に就業した。この際、周辺の工場は高度な技術を求め、多くの伸線工程がこの部落へ受注された。以上から、製線業における部落民は、彼らの高次な技術によって優遇されていた。このように、近代工業において重要な役割を果たしていたことは看過できない。他の部落産業における本発表の結論への相違点を検討し、就労活動からみた類型化を課題としたい。