抄録
明治以降に形成された近代的ごみ処理システムは、社会情勢の変動に伴って改変を繰り返してきた。なかでも、戦後の経済成長による都市化とごみの急増は、ごみの収集、運搬、処分という各機能の変化を促し、それらによって組み上がるシステムの大きな転換を要求したのである。本発表の目的は、特に昭和30年代から50年代までの大阪市におけるごみ処理の各機能の変化に着目して、ごみ処理事業の転換点を明らかにすることにある。 1955年頃から、飲食店などから排出される業者収集ごみの伸びを主な要因として大阪市のごみは急増し、それに対応できないごみ処理事業は危機的状況を迎えた。収集・運搬局面では、作業時におけるごみの散乱や不衛生状態が非難され、また運搬効率の低さが問題となった。埋立に依存する処分局面では、埋立処分地付近の劣悪な環境がさまざまなトラブルを引き起こした。そこで、昭和30年代以降各局面で抜本的な変革に迫られたのである。 まず収集・運搬局面では、ロードパッカ車の導入によってその機械化が図られた。また、運搬効率も向上したため、市内に設定することが困難となった埋立処分地の遠隔化にも寄与することになる。昭和30年代には全処分地の約半数が市外に設定されたのである。しかし、やがて埋立処分そのものの限界が露呈され、昭和40年代以降の埋立は市内臨海部の大規模処分地に集約化していく。一方、昭和30年代初頭から計画を推進していた現代的焼却処理への移行は、全連続式機械炉を備えた焼却施設の建設が相次ぐ昭和40年代にようやく実現し、以後焼却処理率は急速に高まっていくことになる。大阪市のごみ処理事業は1965年頃に転換点を迎え、可燃性ごみの全量焼却体制が整った1980年頃になって現在の処理体制がほぼ確立したといえよう。