抄録
現在、合掌の里として知られ、観光客を集めている飛騨白川郷は、かつて大家族制で知られた地域であり、差別的な表現の対象となることも多かった。本発表は、昭和戦前期において一部の知識人の間で白川郷の「山村」特有の生活を評価しようとする動きがみられることに注目し、「山村」像の具体像とその変容過程を、飛騨地域における観光や郷土研究の展開と関連させつつ検討するものである。昭和戦前期の飛騨地域では、知識人らを中心に、生活文化を再認識し、それを外部へ発信しようとする試みが行われた。このような動きは、高山線開通と連動した宣伝活動の中で、あるいは郷土研究の中で特に活発にみられることとなり、高山の飛騨考古土俗学会、下呂の郷土資料調査会などがその活動を主導した。なかでも白川郷は大家族制で知られたことから飛騨地域の中でも特に古い貴重な生活様式を残す場所として注目された。これらの活動のなかで明治・大正期に顕著であった白川郷を「都市」よりも低位にあるものとする認識は減少し、反対に理想的な生活として賛美する傾向が強まった。また山村の「古風」へのまなざしは、当時確立しつつあった民俗学的な関心を踏まえたものへと変化し、さらに懐古趣味的な憧憬の対象ともされていった。このように、ブルーノ・タウト来村以前において、白川郷に対する認識はそれ以前の「山村」像をある程度引継ぎつつも、新たに文化的価値という要素が見出され、変容し始めていたことが分かる。新たな「山村」像が一般に広く受容され、さらに白川郷の住民がその価値を本格的に自覚し、合掌造り等の保存運動を展開するのは戦後のことになるが、「伝統的」な生活へのノスタルジックな憧憬、失われてゆく文化への喪失感といった、現在の「山村」像へと通じるイメージの原型が、昭和戦前期に知識人たちによって形成され、発信され始めていたといえる。