人文地理学会大会 研究発表要旨
2005年 人文地理学会大会 研究発表要旨
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  • 中条 健実
    セッションID: 102
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    地方都市でスーパーマーケットの閉鎖が相次いでいる。既存の都市整備事業や中心市街地活性化計画を覆しかねないスーパー閉鎖に対し、商業核を失う自治体や地域はどのような対応を試みるかの事例検討を本発表の目的とする。事例としたスーパーDグループが2002年前後に閉鎖した総合スーパー店舗のうち、今回調査によればその多くが閉鎖後一年以内に地域資本のスーパーになる等小売商業目的に使用されている。取り壊され集合住宅に転用された例は中心市街地にみられる。空き店のまま放置された店舗は郊外に少なく、建物が狭隘で駐車場も少ない中心市街地に多い傾向がある。スーパー閉鎖に関心の薄い地域も代替店の多い大都市圏で散見されるが、総合スーパーが市街地の拠点・「まちの顔」であった地方都市にとって、民間ベースで再利用がなされないことは中心市街地衰退に直結する。その場合活用のために地域商店街や行政、商工会など地元アクターの介入を伴わざるを得ないが、自治体が関与してスーパー跡地を活用することには問題がある。撤退原因が不採算ならば以前同様の規模構成では運営が成り立たないから旧店時代より縮小せざるを得ず、結果的に広域からの商業的集客は以前ほど望めないことと、自治体予算や補助金を中心市街地に傾斜的に配分する事への周辺部の反対である。「どうして一商業施設を地域で面倒を見なければならないのか」、さらに「中心市街地をどう運営すべきか」という問題の解決が前提的に求められる。一関市の事例では補助金に頼りがちな第3セクター方式を避け、地元商業者が中心となったまちづくり会社を組織してスーパー跡地に生鮮品店を運営、市はあくまで間接的にバックアップする体制をとった。将来的に行政が予算捻出する事態も考えられ、その同意を市民から得る為に、中心市街地の大型施設の有効性を明らかにする事がまず求められたと考えられる。
  • 1990年代後半期の分析
    古賀 慎二
    セッションID: 103
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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     2005年、京都府は『事業所・企業統計調査』を「事業所の形態」別に「業種」、「従業者規模」、「本所・支所の別」、「開設時期」、「業態」がクロスで把握できる独自集計を行った。本研究は、この『独自集計データ』を利用して、「事務所・営業所」形態の事業所を実質上の「オフィス」とみなし、景気後退期にあたる1990年代後半期における京都市のオフィス立地変化の特徴を、これまで分析できなかった業種別の変化から明らかにしたものである。1990年代の後半期は、バブル経済崩壊の影響で事業所数や従業者数が全国的に大きく減少した時期にあたる。京都市もその例に漏れず、ほとんどの業種で事業所・従業者が減少した。なかでも「繊維・衣服等卸売業」、「繊維工業」など京都を特徴づける業種での減少が著しく、その活動拠点はCBD(三条から五条の烏丸通沿道)に集約化される傾向が明らかとなった。オフィス集積地区(オフィス従業者100人/ha以上の地区)が京都市中心部(丸太町通・鴨川・JR京都線・堀川通で囲まれた地区)において全体的にコンパクト化するなか、修正ウィーバー法でオフィス集積地区の業種構成を検討すると、京都のオフィス街のいわば代名詞であった「室町繊維問屋街」は急速に縮小し、近年台頭してきた情報・専門・事業サービス業オフィスが中心部の核心地区や京都駅周辺で拡大しつつある状況が認められた。
  • サブディシプリンの形成と英文雑誌の役割
    熊谷 美香, 山崎 孝史
    セッションID: 203
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    第二次世界大戦後、日本における人文地理学のサブディシプリンとしての政治地理学は1970年代の終わりから1980年代の中頃にかけて活発な研究分野ではなかった。しかし、1990年代以降、斯学において「政治」を扱う研究が増えつつある。これは、冷戦の終焉やグローバリゼーションの進展にともない国家の諸前提が問われるようになったことと、論理実証主義と従来のマルキシズムの限界を克服するために日本の人文地理学にも批判社会理論が活発に導入されるようになったことに起因すると考えられる。つまり、日本の人文地理学が一種の「政治的転回」を経験したのである。しかしながら、こうした変化は果たして日本における内発的な学問の発展を意味するのであろうか。むしろ、西欧諸国の地理学理論を適用した結果であると考えることができないだろうか。
     本研究は、日本の人文地理学における「政治化」を西欧(特に英米)での政治地理学の進展と対比させることによって、この「政治化」の一側面を明らかにしたい。具体的には代表的な英語圏の政治地理学専門誌であるPolitical Geography (Quarterly)誌(以下、PG誌)の購読・引用分析を通して、PG誌による日本の人文地理学研究へのインパクトを検討する。これにより、日本における地理学のサブディシプリンの形成を、英文の「国際的」地理学雑誌の影響と関係付けて理解する一つの手がかりを得ることが出来るであろう。
  • 若松 司
    セッションID: 204
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    本発表の目的は、近年の「社会的排除」をめぐる議論に人文地理学の諸概念を適用することによって、社会的排除の真相により一層接近することである。しかしCameron(2005)によると、地理学は社会的排除の議論から排除されているという現況がある。こうした現況において地理学の知見を社会的排除論に適用するには、二つの問題に取り組む必要がある。第一は、「場所」概念をはじめとする空間的なものの理論的検討である。「場所」概念は歴史的に偶有的な編成・過程であると論じられてきた。重要なのはその偶有性である。というのも、この偶有性が場所のユニークネスの根拠になっているからである。またこのことは、「場所」が社会的排除の他の構成要素とは異なり、原因や要因として措定され難いことを意味する。地理学が社会的排除論から排除されているという現況は、おそらく地理学の対象である空間的なものの偶有性に由来する。われわれはひとたび、空間的なものの偶有性に由来する、語ることの困難を認めなければならない。このことを認めたうえで、実証的研究において空間的なものをどのように扱うのかが、第二の問題となる。この点については近隣効果の研究蓄積が示唆に富んでいる。選挙地理学において近隣効果は計量的手法で取り組まれてきたが、構成主義アプローチから文脈主義アプローチへの移行によって、その捉え方に変化が生じた。とくに、構成主義モデルからの残差を背理法によって「近隣効果」と定義したことは、本発表にとって重要である。この近隣効果研究の軌跡は、説明要因として特定しがたい空間的なものを把握する可能性を示唆している。社会的排除論においても、構成要素となりうるものを指標に定めて、それを測定しようとする試みが数多く存在するが、近隣効果研究にならい、諸指標の残差として捉えるような視点が考慮されてもよいのではないだろうか。
  • 沖縄「らしさ」を問う
    玉懸 慎太郎
    セッションID: 205
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    本研究の目的は「沖縄らしさ」の「らしさ」とは何か、この困難な概念にカクテルを題材に迫るものである。泡盛は、沖縄県内に48の酒造所があり、生産量の9割が沖縄県内で消費される、沖縄の地酒である。カクテルは、色、味、香り、ネーミングなどで、飲み手の想像力をかき立てるものでなければならない。。泡盛から生み出されるカクテルには、どのように「沖縄らしさ」が表現されているのだろうか。飲み手の心をとらえる「沖縄らしさ」とは何か。ネーミングなどを手がかりに、アワモリ・カクテルに表現された沖縄を探ってみたい。日本バーテンダー協会沖縄県支部では、1994年から毎年、「アワモリ・カクテル・コンペティション」を開催している。「アワモリ・カクテル・コンペティション」の応募要項には「トロピカル・アイランド・オキナワをテーマに沖縄らしい作品にする事」という創作上の注意が盛り込まれている。しかし、何が「沖縄らしい」ことなのかは示されておらず、コンペティションに参加するバーテンダーの解釈に委ねられることになる。今回の研究対象としたカクテルは61種類である。カクテルのネーミングには、「琉」の文字が多用されている。現在でも様々な固有名詞に使われる「琉球」の持つ想像力が実感される。他方、現在の地名である「沖縄」は、2カクテルに見られるのみである。沖縄の言葉を用いたネーミングも多く、方言の持つ力で沖縄を想起させる。そして、「島」、「太陽」、「海」、「花」、「風」、「南」といったイメージがネーミングとして用いられている。全体として「自然にあふれた南の島・沖縄」のイメージがカクテル・ネーミングから浮かび上がってくる。アワモリ・カクテルは各バーテンダーが個性的に作り上げたはずのものであるが、その中にも多くの共通点が見いだされる。それは、作り手と飲み手がイメージを共有する「ステレオタイプ化された沖縄」といえるのではないだろうか。
  • 空間スケールに着目して
    相澤 亮太郎
    セッションID: 207
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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     岐阜県西濃地域を中心とした木曽三川下流域に広がる輪中地帯は、水害常襲地帯として広く知られ、地理学においても幅広く研究対象とされてきた。特に、堤防によって村落や耕作地を囲繞し、水害から生命と財産を守る輪中の存在は、学校教育等を通じて広く知られた存在である。だが、長年にわたる堤防強化や河川改修等の治水事業、動力排水や水門設備の完備等によって、近年では大規模な災害は減じ、住民の防災意識や地域文化、住民アイデンティティ等に変化が起こりつつあると推察される。
     本発表では、そのような輪中地域の変化を「場所の記憶」という観点から捉え、輪中地域における場所の記憶の生成・変化の過程の一部を、空間的なスケールの違いから着目し、明らかにすることを目的とする。記憶は、生成、変容、喪失を繰り返す。それは、直接経験によるものではなく、間接的に得られる記憶であっても同様である。集合的な場所の記憶を捉えるためには、どんな記憶が、いつ、どこで、だれから、だれに、どのように、なぜ、伝えられたのかを把握する作業が必要となる。輪中地域では、水神祭祀や決壊記念碑など、輪中ごとに培われる場所の記憶以外に、学校教育や資料館等を通じて提供される「輪中全体の記憶」の存在を指摘することができる。
     地域社会における共同体などを通じてローカルに培われてきた記憶、学校教育や資料館等を通じて培われる記憶、それぞれに異なる空間的なスケールを持った場所の記憶が、輪中地域に暮らす人々の間でどのように生成・変容してきたのかを明らかにしていく作業は、場所の意味がどのように構築されていくのかを捉える上で、重要な足がかりとなりうる。また防災意識や住民アイデンティティなどを考えていく上で、従来とは違った視点を提供できるのではないだろうか。
  • 山根 拓
    セッションID: 211
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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     本報告の目的は、鈴木天眼著の『新新長崎土産(第2版)』(1890年)をテキストとして、前近代的事物・地域システムと近代的事物・地域システムの双方が並存した変動期としての近代前期における、長崎の場所と場所性を解釈することにある。 会津藩士の長男として1867年に誕生し、長じた後は国粋的志士として政治活動に参画し、後に言論人として新聞発行者や衆議院議員を務めた鈴木天眼は、20代前半に病のため長崎に逗留し、『新新長崎土産』を著した。これは基本的に19世紀終盤の長崎について、彼が外部者の視点から記したエッセイである。その内容は概ね、長崎地誌的記述の多い前半と長崎文化論的記述の多い後半に分けられる。 著書の前半部では、長崎の景観や歴史的由来などの記載の後、天眼自身が長崎を歩き見るような形式で、市街地・郊外の場所が順次取り上げられ、建造環境やトピックや世評、それに天眼自身の主観的見解が組み合わされ、各々の場所性が表象される。巡られた場所は当時の狭隘な市街地の大半に分布しており、それは歴史的伝統的事物に留まらず、近代性や当時の地域の世情を象徴するような事物をも含んでいた。 著書後半部分では、長崎という場所自体の近代日本の中での位置付けに関するテーマが語られているように思われる。長崎人の気質の中に、四大祭等に象徴される温和・気楽・享楽的といった長所と見なされるものを捉えながらも、他方で、天眼は近代以降に政治・経済・社会的な停滞の色を濃くするこの場所を憂い、その原因として土地の伝統への依存が生み出す長崎人の保守性・消極性・小心さを辛辣に指摘した。近代前期の長崎の辿った歴史地理的運命を知るとき、天眼のこうした意見は、正しいが早過ぎる問題点の指摘であったのかも知れない。
  • 田中 絵里子, 佐野 充
    セッションID: 213
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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     今日の世界は,ヨーロッパ的世界といっても過言ではないような状況になっている。産業革命以降,ヨーロッパを根源とする世界は,成長,成熟,崩壊の歴史を歩み,21世紀に入るや,地球規模の保全・保護を人類の目標とした。今日までの人類開発によって,破壊されてしまった自然の残された部分と開発の足跡を後世に伝えるために,世界遺産をはじめとするさまざまな手段がとられている。
     日本の近代化を担ってきた産業・交通・土木に係る造形物に対しては,1993年に文化庁が「近代化遺産」の種別を設け,文化財の指定を行っている。1996年以降は,変化の著しい現代社会に対応するため「登録有形文化財」の制度も導入された。他方では,産業近代化の足跡である産業遺産や,稼動中の工場を観光に活用する産業観光が注目され始め,隠れた産業遺産を見直す動きが出てきている。これは従来の名所旧跡と,大型観光投資の造形物である観光施設を巡る観光からの脱却の一方策である。
     ヨーロッパには産業遺産の世界遺産指定は多いが,日本にはまだ一つもない。現在,民間による推薦産業遺産認定や,文化庁の登録有形文化財制度による近代に築かれた産業遺産になりうる可能性のある施設の保存,活用が推進されており,近年中に日本においても産業遺産指定が成される可能性が高い。
     産業遺産の観光資源としての出番は増加しそうだが,遺跡施設の改修や利用について厳格な制限のある重要文化財制度とは異なり,外観を維持すれば自由に改修や利用のできる登録有形文化財制度に基づく産業遺産化は,結果として新たな指定における問題を発生することになるのではないかと思われる。愛媛県新居浜市の旧別子銅山(1973年閉山)や,群馬県富岡市の旧富岡製糸場(1872年建設,1987年操業停止)などでは,産業観光都市を目指す取り組みが始まっており,10年後,数十年後の観光による地域再生を語っている状況がある。
  • 波江 彰彦
    セッションID: 302
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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     本発表は、さまざまな様相を呈すごみ問題の起点であるごみの量の問題に焦点をあてるものである。生産・消費活動の副産物として発生するごみは、経済情勢や社会的・地域的状況、人々のライフスタイル等を反映してその量を変化させる。こうした変化およびその要因は、時代や地域によって異なる。筆者は、戦後の大阪市におけるごみ量の長期変動と地域差に着目し、これらに対する影響要因を計量分析によって追究することを目的としている。本発表では特に、大阪市の区別1人あたり各戸収集ごみ量にみられる相違に影響を及ぼす要因を明らかにすべく、重回帰分析を行った。なお、分析は1970年から2000年までの7時点分(5年ごと)を実行した。
     分析の結果、次の3点が明らかになった。(1)いずれの年次においても、昼夜間人口比率と事業所に関する変数は1人あたり各戸収集ごみ量と強い正の相関を示している。このことから、人口が流入する都心部において、事業活動や消費活動によって生じた事業系ごみが各戸収集ごみに混入しているという状況がうかがえよう。ただ、事業系ごみの排出元業種については、有意な結果が得られなかった。(2)1980年以降、世帯属性に関する変数と1人あたり各戸収集ごみ量との有意な相関がみられるようになり、それは近年強まっている。このことは、1人あたり各戸収集ごみ量にみられる地域差が、事業系ごみの混入だけではなく、世帯の多様性によっても生み出されるようになったということを示唆している。(3)いくつかの区の1人あたり各戸収集ごみ量には、他の区との断層的な差が認められる。その背景には、その区に固有の要因があると考えられる。
     今後は、1人あたり各戸収集ごみ量の増減率にみられる地域差や、事業系ごみの動向、大阪市全体のごみ量の長期変動についても分析を進めていく必要がある。
  • 企業の立地行動をふまえた理論化
    中島 清
    セッションID: 304
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    塩沢由典らの複雑系の経済学を参考にして、工業立地論の現実化を図る。 産業間での立地の相互依存という観点から、消費地立地型の工業については、中心地理論により示された需要の不均等分布を前提として、立地を考察する必要がある。 企業は立地を決定するときに、満足化原理により候補地を絞り込んだうえで、候補地間での利益を比較して高利益地を選択できる。 工業立地論では収穫逓増を前提として考えるべきである。収穫逓増のもとで平均費用が下がるときに、寡占企業は、価格を限界費用に一致させて利潤を極大化するのではなく、フルコスト原理による価格設定を行う。この前提のもとで寡占企業の立地を考察することが望ましい。 寡占企業は製品を差別化するので、各企業の市場地域は重複する。一方、同種製品を複数工場で生産する場合は、企業内で市場地域が重複しないように、各企業は工場間での市場分割を行う。 次に、消費地立地型の工業を念頭に置いて、需要の増加に対応した企業立地の動態について考察する。まず企業内部での市場分割について考察する。企業は市場を小地域に分割し、その中心地と立地候補地との間の製品輸送費を算定する。立地に際して、企業は市場地域を工場間で分割し、この市場地域に小地域を配分する。工場の予想需要量を算定し、それに基づいて生産量、生産費を予想する。市場送達価格が均一の場合には、全工場での平均費用(生産費、製品輸送費、原料輸送費など)の最小地域が立地候補地となる。 工場渡し価格一定の場合に、市場送達価格の上昇が及ぼす影響を考慮して需要量を予測し、これをもとに算出した平均費用(製品輸送費を除く)の最小地域が立地候補地となる。 企業の立地競争では、価格の変動、生産量の増減を経て、他の市場地域への進出が行われ、立地競争が繰り返される。 こうして、満足化原理とフルコスト原理を中心に、寡占企業の立地行動を説明する。
  • 佐藤 裕哉
    セッションID: 305
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    日本の医薬品産業は, 1970年代後半から進んだ規制緩和(1976年の特許法改正,1983年の薬事法改正)により外資系企業の参入が容易となり,グローバルスケールで研究開発競争が激化している。一方,1961年の国民皆保険の達成以来,高騰し続ける国民医療費を圧縮するため,厚生労働省によるジェネリック医薬品(後発品)の利用促進や薬価の引き下げが続いており,近年では市場規模の拡大は期待できなくなっている。このような厳しい経営状況の中,各企業は企業活動存続のために生産拠点や研究開発拠点の統廃合など様々な対応をとっている。上記に鑑み本研究では,大手医薬品企業を対象に,生産拠点・研究開発拠点の再編成の実態把握と,その要因を明らかにすることを目的とする。研究方法は,プレスリリースや,有価証券報告書,社史,新聞報道などから企業ごとの再編の実態を把握したうえで,企業本社への聞き取り調査(一部,アンケート調査)を行い,再編の背景にある要因などについて探った。協力が得られた8社の,日本国内における生産拠点・研究開発拠点の統廃合の動向,海外への立地展開,分社化の動向,バイオベンチャー企業との提携などに関する分析から以下のことが明らかとなった。まず,日本国内においては,首都圏の老朽化した生産拠点を中心に統廃合を行うことで生産の効率化を図っている。その一方で,筑波などへの研究開発拠点の新設や閉鎖した生産拠点を研究開発拠点にするなどして研究開発への投資を強化している。また,こうした国内の動きと同時に,生産はアジア,研究開発は欧米というようにグローバルスケールで拠点の再編成を行い,激化するグローバルな研究開発競争に対応していることが明らかとなった。
  • 荒井 良雄
    セッションID: 312
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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     携帯電話を使って地域情報を提供しようとする際には、利用者の現在位置を自動的に取得して、その周辺についての情報を提供することができれば、情報提供者にとっても利用者にとっても、効率よい情報提供/探索ができるようになる。 携帯電話の位置情報サービスは、日本では、1997年以降、PHSサービスの基地局情報を利用した方式で始められ、携帯電話から位置情報をサーバーに送信し、子供や高齢者の居場所の確認や緊急時の位置通報、あるいは営業車両の位置追跡などの用途に用いられ始めた。通常の携帯電話では基地局のカバー区域が広いため、位置情報の精度に限界があり上記のような用途には使いにくいが、携帯インターネットによる地域情報の提供にはそれほどの精度が要求されないので、2000年頃から各携帯電話会社が地域情報サイト向けの位置情報サービスを開始している。その代表的な例が最大手であるNTTドコモのiエリア・サービスである。2001年以降はGPS機能をもった携帯電話が開発され、きわめて精度の高い位置情報が利用できるようになり、それを利用して、飲食店や店舗の細かな案内、あるいは歩行者用のナビゲーション・サービスなど新しい地域情報サービスも始まっている。 本報告では、携帯電話の各種位置情報サービスを概観し、さらに、それらを利用した地域情報サービスの現状と可能性を考えたい。
  • 高知県室戸市を例として
    元田 茂充
    セッションID: 313
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    本研究は高知県室戸市から水産会社への捕鯨船乗組員の輩出の構造を明らかにすることを目的とする。室戸市は和歌山県太地町・宮城県鮎川町・長崎県宇久町などと並び、多数の捕鯨船乗組員が輩出された地域であった。室戸出身の捕鯨船乗組員の多くは大洋漁業と極洋捕鯨に所属していたが、そのうちの一人に日本を代表する砲手・泉井守一氏がいた。 泉井氏は所属した大洋漁業に多くの室戸出身者を捕鯨船乗組員として採用したとされているが、同氏は既に故人であるため聞き取りによってその詳細を検証することは不可能である。そこで本研究では、泉井守一氏の自伝や同氏に関連する出版物における記述内容を分析し、そこから泉井氏が捕鯨船乗組員を採用した方法や採用方針などを解明するとともに、室戸から水産会社へ捕鯨船員が輩出された構造を明らかにしていく。 泉井氏が捕鯨船乗組員の採用に携わるようになったのは1935(昭和10)年以降のことであった。この年、泉井氏の所属する会社は捕鯨船団の南氷洋出漁を決定し、捕鯨船8隻を新造した。これに伴う捕鯨船乗組員の大量増員に際して、泉井氏は砲手・甲板部員の採用と訓練を担当するようになった。泉井氏は乗組員の採用にあたり、船内作業におけるチームワークの構築を重視し、かつ即戦力として働くことのできる人材を必要としていた。同氏はチームワークの点では気心の知れた同郷の人間と作業するのが適当だと考え、室戸出身者を積極的に採用した。 当時、室戸における乗組員募集の窓口となったのは、泉井守一氏の兄・安吉氏であった。安吉氏は室戸町で鉄工所を経営し、マグロ延縄漁で使用する漁具の開発・製造に従事していた。安吉氏は地元のマグロ漁船の乗組員を弟・守一氏に紹介した。この結果、大洋漁業には現室戸市域の中でも、特にマグロ漁が盛んな室戸町・室戸岬町出身の捕鯨船乗組員が多くなったといえる。
  • 林 紀代美
    セッションID: 314
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    本報告は,食用にされるカペリンに関して,その生産・貿易の詳細を考察し,関係国間の結びつきやバランスを解明することを目的とする。考察により明らかになった点は,以下のとおりである。1:カペリンは,従前よりその大半が非食用利用(ミール,肥料,養殖用エサなど)に供され,他魚種(タラなど)のエサとしての重要性が重視されてきた。カペリンの生産国の多くでは,積極的な食用の習慣や一定規模の消費市場がない。2:1970年代以降,関係国で対日輸出向けカペリンの生産が始まり,メスカペリンに特化した製品が作られ輸出されている。対日輸出カペリンは,もっとも高価格で扱われ,品質管理等も厳しい。対日輸出メスカペリンの生産・輸出から作業が開始されるので,食用カペリンの生産・貿易に対する日本の影響力は大きい。3:オスは,ロシアや東欧諸国への輸出が多く,取扱規模では対日輸出より大きい。また,近年では,オスメス問わず取扱いのある中国・台湾への輸出が増加傾向にある。4:対日輸出において,ノルウェーが最も評価が高く,次にアイスランドが続く。カナダは,前記二カ国の生産状況の影響や魚群の性質などから不利な位置づけにあり,取引の規模や価格決定が他国の活動状況などに左右されやすい。
  • 鈴木 晃志郎
    セッションID: 402
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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     発表者はこれまで,日米観光案内書に含まれる地理情報(地図・道案内文)の内容分析をおこない,地理情報伝達の際に用いられる空間描写スタイルは文化的にある程度規定されており,端的には地図と道案内文の使用比率で特徴づけられることを実証した。しかし,情報を受け取って行動する利用者も同じスタイルを共有していることが確認されなければ,地理情報伝達に文化的差異があるとはいえない。本研究は,日米大学生を対象とする地図と言語(道案内文)を用いた経路探索実験をおこない,文化的差異が影響を与えているかどうかを検証した。
     日米の被験者39名は,資料(地図・言語のいずれか一方ずつ)を用いて,2度同じルートを探索し,その都度,使用した資料の有効性を7段階評価した。また,2度目の実験終了後,地図と言語の有効性を,相対評価することを求められた。経路探索の所要時間,エラーの数と併せて結果は数量化された。
     一元配置分散分析による検定の結果,日本の被験者群は米国より,相対評価で有意に地図を高く評価した。試行群ごとに日米を比較し,検定を行ったところ,言語先試行群では米国が言語を日本より有意に高く評価し,地図先試行群では日本が言語を米国より有意に低く評価した。また,日本の地図先試行群は一度目のエラーが言語先試行群より3分の1程度しかなく,二度目の言語試行における時間短縮効果も著しく少なかった。ゆえに,案内書の描写スタイルの違いと同様,実際の経路探索においても,日本人は地図の使い勝手を高く評価し,米国人は言語のそれを高く評価するという結果が確認された。
  • モンノ地図帳 L'Atlante di Monno を中心として
    夛田 祐子
    セッションID: 405
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
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    ポルトラーノには、「航海案内書(付図として海図を含む)」、「海図帳」、「一枚ものの海図」の3つのタイプがある。現存するポルトラーノは第3のタイプが最も多いが、海図に表現できる地理情報は、ポルトラーノの語源となる「港portoのガイド」としては十分とは言いがたい。そこで、第1のタイプの航海案内書の地誌ページに焦点を当てて、文字情報がどのように航海者に沿岸海域の情報を提供したかを考察したい。
     本発表では、1633年にイタリアで製作された『モンノ・ポルトラーノ海図帳L’Atlante di Monno』を取りあげる。この海図帳は作者によって『真の航海術L’Arte Vera Navegatione』と題されるように、航海技術に関する記述も詳しく、また7枚のポルトラーノ型海図も地誌ページに添えられた海図以外に挿入されている。地誌ページに関しては、ジブラルタル海峡から時計回りに港、岬、河川、湾、入江や島嶼についての記述がある。記述内容は、対象となる地名によって多寡はあるが詳しいものになると、前述の港からの距離、沿岸や海底地形の特徴、ランドマーク、水の補給、航海上の注意点、寄港する船の種類と寄港の可否や歴史的ことがらに及ぶ。ところで、海図で表現できる地理情報は、方位と距離、港の種別(寄港の可否)、沿岸海域の危険情報(岩礁・浅瀬の存在)である。しかしながら、実際に航海で使用すると想定すると、特に沿岸海域の情報は概要にすぎず、たとえば岩礁については海上からの目視は可能かどうか、どの航路をとれば安全に入港できるのか、また浅瀬についても水深やどの船種なら航行に適するかといった具体的情報を海図に求めるのは無理がある。ところが、地誌ページではこれらの具体的な情報が航海者に提供されている。地図情報と文字情報とがそれぞれの特徴を生かして、相互に補完しながら航海に役立ったかについて紹介する。
  • 上杉 和央
    セッションID: 407
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    本発表は,大坂天満宮の祝部渡辺吉賢(1703-?)を特に取り上げ,彼がどのような知的交流を行い,その中で地図がどのような役割を果たしていたのかについて検討する。主に取り上げる資料は,現在大阪歴史博物館に所蔵されている旧渡辺吉賢所蔵地図(奥田コレクション)である。
    調査の結果,吉賢が交流があった人物として木村蒹葭堂や平賀源内(国学者)などが確認された。彼らは物産会を通じた交流であり,その中で地図を交換していたりした。また,地図を通じた交流として森幸安,宇野宗明(町人),久保重宜(庄屋)などが確認された。また本居宣長も吉賢所蔵の地図を利用した痕跡がある。
    18世紀において,地図は知的交流の潤滑油的役割としていたのである。
  • 山近 久美子
    セッションID: 408
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    本研究では、平城京において地面に土器を埋納した遺構の中から、地鎮や胞衣壺埋納の可能性があるものについて、出土地の位置や規模、土地利用を整理することを目的とする。土器埋納遺構の性格を断定するのは困難な作業である。そこで確実な例で使用された土器や、胞衣に特有な墨、地鎮遺構に顕著なガラス玉や金箔など中に納められるものを参考に事例を整理した。土器埋納遺構の数は多くなく、分布にも偏りがみられる。集中して確認されたのは、五条以北は宮に近い右京域、宮前面の左京域、他にいわゆる外京域である。対して五条以南では数は少ないが、八条付近では左右京ともに分布している。この分布を宅地規模でみた場合、1町以上利用の土地からの出土は、東西二坊大路に面する範囲で認められる。ここでは、出土地を五位以上の貴族の居住地とされる1町以上の利用と、分割された利用に分けて検討した。宅地利用の変遷と胞衣、地鎮の遺構をみていくことにより、細分化される前の宅地からの胞衣壺、公的施設の時期の地鎮や、奈良時代を通じて1坪利用の宅地からの両者の出土などモデルとなる型を抽出することを試みる。
  • 安藤 哲郎
    セッションID: 410
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     本発表では、平安京における「成長」の概念について、日記や物語などの歴史的資料(史料)を基に、都のモチーフや動静を理解して考察を試みた。
     都市の場合には人口や経済から成長の探求が行われるが、都は生産性と別次元にある。そこで、都と必要十分の関係にある天皇家や官人がどう考えていたか、という面から考えることとした。都が「宮処」である観点も大きく、また彼らの考え方を知る術もあるからである。
     都は天皇が常に位置していることが求められたが、時折京外へ出かけた。その行幸(上皇の場合は御幸)から理解を試みるため、「京外空間」を糸口として考えた。まず、平安遷都前後における天皇遊猟の目的地から、遷都行動(遊猟)が平城・長岡・平安3京を相互に結び付けた可能性がみられた。また、白河上皇時代の行幸・御幸状況から、前期は成人天皇と共に鳥羽を王家の地として人々に認識させ、後期は幼主のために摂関家に由緒のある白河を王家の地になすことで王権伸張に役立てたとみられた。
     天皇は次第に遠出をしなくなり、京周辺の神社などから日帰りするようになった。一方で王家の地となった鳥羽や白河などは日帰りしなくてもとくに指摘されない。そういう意味では、都人は自由になる京外空間が広がっている。
     ただし、平安京が外を好まない傾向は残っていた。比べてみれば、「都会」と表現されていた太(大)宰府は御笠下流の博多に鴻臚館を設け、そこと一体となったまちであった。一方平安京は交流施設を近くに持たなかった。京に近いところが都とは違うことも表現されている。
     平安京は限られた空間の中で完結する都であり、他との接触を好まない都であることは続いていたが、その周辺部が平安京の意味付けのために使われ、自由に訪問できる空間として整備されることがあった。都人の活動空間が広がったと意識される意味では「成長」と言える可能性がある。
  • 片平 博文
    セッションID: 411
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    『日本後紀』以降の六国史や『小右記』『権記』『殿暦』などの公家の日記等によれば、平安時代を通じて、平安京は数多くの洪水に見舞われてきたことがわかる。これらの史料類から把握できる洪水の多くは、「都城両河洪水」などの記述からも明らかなように、東の賀茂川や西の桂川が溢れたことによって生じたものと考えられる。洪水の中には、賀茂川と桂川とが同時に溢れたケースや、賀茂川が溢れることによって発生したケースなどがある。ところが、頻繁に平安京を襲った洪水の中には、賀茂川や桂川以外の河川によって引き起こされたと考えられるケースも認められる。このような洪水は、天安2年(858)5月のほか、長和4年(1015)7月、寛徳3年(1046)5月、永久元年(1113)8月、長承3年(1134)5月などの記述にもみられ、東堀川や西洞院川などの小河川が、11_から_12世紀になってもしばしば溢れていたことがわかる。 これら小河川から溢れた水は、どこから来たのだろうか?それを解く手がかりとして、『日本三代実録』貞観16年(874)8月の記事が注目される。そこには、台風と思われる大風雨によって賀茂川・桂川などが溢れ、内裏や京内に甚大な被害の出たことが記されている。京外でも、與渡の渡口や山崎橋付近に大きな被害が出たことが知られる。注目すべきはそれに加えて、平安京の北部にあたる栗栖野(西賀茂)や鷹峯付近の被害状況がとりわけ具体的に記述されているということである。この記事からは、貞観13年(871)の大雨や同16年の大風雨によって、栗栖野や鷹峯付近は大被害を受け、しかも同時に京内も橋が流出するほどの被害が出ている。この事実は、両地域の被害に関連のあることを示唆するものと考えられる。以上の分析を受けて史料類を検討した結果、栗栖野・鷹峯付近と左京の小河川とを結んでいたと考えられる水系の存在が確認された。
  • 飛騨白川郷を事例として
    加藤 晴美
    セッションID: 415
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    現在、合掌の里として知られ、観光客を集めている飛騨白川郷は、かつて大家族制で知られた地域であり、差別的な表現の対象となることも多かった。本発表は、昭和戦前期において一部の知識人の間で白川郷の「山村」特有の生活を評価しようとする動きがみられることに注目し、「山村」像の具体像とその変容過程を、飛騨地域における観光や郷土研究の展開と関連させつつ検討するものである。昭和戦前期の飛騨地域では、知識人らを中心に、生活文化を再認識し、それを外部へ発信しようとする試みが行われた。このような動きは、高山線開通と連動した宣伝活動の中で、あるいは郷土研究の中で特に活発にみられることとなり、高山の飛騨考古土俗学会、下呂の郷土資料調査会などがその活動を主導した。なかでも白川郷は大家族制で知られたことから飛騨地域の中でも特に古い貴重な生活様式を残す場所として注目された。これらの活動のなかで明治・大正期に顕著であった白川郷を「都市」よりも低位にあるものとする認識は減少し、反対に理想的な生活として賛美する傾向が強まった。また山村の「古風」へのまなざしは、当時確立しつつあった民俗学的な関心を踏まえたものへと変化し、さらに懐古趣味的な憧憬の対象ともされていった。このように、ブルーノ・タウト来村以前において、白川郷に対する認識はそれ以前の「山村」像をある程度引継ぎつつも、新たに文化的価値という要素が見出され、変容し始めていたことが分かる。新たな「山村」像が一般に広く受容され、さらに白川郷の住民がその価値を本格的に自覚し、合掌造り等の保存運動を展開するのは戦後のことになるが、「伝統的」な生活へのノスタルジックな憧憬、失われてゆく文化への喪失感といった、現在の「山村」像へと通じるイメージの原型が、昭和戦前期に知識人たちによって形成され、発信され始めていたといえる。
  • 高柳 長直
    セッションID: 504
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     日本において,米生産の過剰基調,輸入米の増加圧力,担い手不足と,水田農業をめぐる生産環境は厳しさを増している。そこで,着目されるのが,集落営農による米麦大豆の複合化である。これによって,期待されることは,経営全体の収益を確保して経営基盤を強固とすること,中長期的視点から生産調整の達成を図ること,国際競争力ある大規模経営体の育成を図ることである。本報告では,佐賀平野を事例として,水田農業の営農環境の変化の中で内発的な主体の対応実態と土地利用効率を高めた水田農業の確立のための課題を考察する。 生産調整を行うとともに,生産規模拡大を促して経営効率を改善するための方向として,団地化と土地利用集積の2種類ある。佐賀市の場合,団地化の方で助成金を5,000円高くして,実質的に農作業の効率を向上させることをねらうようになった。 事例として佐賀市の西端部に位置するE地区をとりあげ,集団化の経緯,転作と作付の状況,経営等の分析を行った。 佐賀平野のような土地利用型農業地域において,平坦地の特性を生かしていくために,水稲+大豆+大麦の土地利用型農業を確立していくことが求められる。そのためには,集落営農を再評価してブロックローテーションを効率的に実施していくことが一つの方向性として重要であろう。佐賀平野において集落営農を重視していく理由は,大きく2つのことがあげられる。第1に,ほぼすべての農家が兼業化している状況の中で,農作業を分担しながら作業効率を高めていく必要があるからである。第2に,圃場整備によって水田の大型化と整形化が行われたものの,それでも諸外国と比べると分散錯圃状態であるといわざるを得ないからである。地区内における機械化された農作業を効率的に行うためにも集落営農は有効であろう。
  • 助重 雄久
    セッションID: 505
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    1960年代の選択的拡大期に産地形成を進めてきた新興柑橘産地の多くは、1972年の温州ミカン価格暴落以降大都市市場での評価を得られないまま急速に衰退した。これに対して、新興柑橘産地の一つである熊本県玉東町では、個々の農家による地元市場の開拓や複合経営化等によって柑橘栽培を維持する動きがみられた。しかし近年ではあとつぎのいない農家を中心に柑橘栽培を縮小する動きが加速してきた。他方、あとつぎのいる農家では柑橘栽培面積を拡大する傾向がみられ、零細経営と大規模経営への二極分化が進んできた。
     こうしたなかで、大規模経営を指向する農家は柑橘栽培を縮小・中止する農家から園地を購入・借入することで園地面積の拡大を図ってきた。しかし、園地面積の拡大は生産量の拡大を目指すものではなく、品種更新期間中の収入確保や、園地の再造成による作業の効率化・機械化(スピードスプレーヤーの導入等)、ひいては人件費の節減によるコストダウンに大きく寄与している。こうした動きは、高級化による高収益の追求を重視してきた価格暴落以降の柑橘栽培とは異なり、日本農業の課題でもある低コスト生産や大規模化を指向する動きとしてとらえられよう。
     しかし、こうした動きは柑橘栽培を縮小・中止する農家の増加に支えられている側面があることも否めない。高齢化によって柑橘栽培を縮小・中止する農家が増加し園地の売却・貸出希望が購入・借入希望を大きく上回った場合は、廃園が増え健全な園地に病虫害等を及ぼすことも懸念される。
  • 群馬県沼田市を事例に
    畠山 輝雄
    セッションID: 506
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     合併特例法の改正により、全国で多くの市町村合併が行われるようになった。これらの多くは、合併に伴う国からの財政的支援を目的としたものである。このため、自治体の上層部主導で実施され、アンケートや住民投票などの住民の意見を問わなかった場合や、住民投票を実施してもその結果が反映されない場合がみられた。その結果、自治体内において行財政の効率化ばかりに議論が集まり、住民サービスに対する対応が後回しにされるというような問題が生じている。 本発表では、2005年2月13日に群馬県利根郡白沢村と利根村が編入合併された沼田市を対象に、住民サービスの中でも高齢者福祉サービスに注目し、合併前後でサービスの状況を比較し、変化の実態を明確化した上で、それらに対する住民意識を考察する。研究方法は、高齢者福祉サービスの変化については、役所、社会福祉協議会、介護保険関連の事業所への聞き取り、住民意識については沼田市民を対象としたアンケート調査によるものである。アンケート調査の有効回答数は862(28.7%)である。 市町村合併に伴い、編入された白沢・利根地域においてサービスの種類が増加するなどメリットがみられる一方、金銭面の負担増、通所サービスの低下などデメリットもみられた。その一方で、沼田地域ではほとんど変化がなく、合併した意味を問う声もあがっている。つまり、合併に伴う行財政の効率化による今後のサービスの向上がみられないと、住民の不満がたまることが考えられる。 そして、介護保険料や新たに利用可能となった施設などの認知度が低いため、住民に対する詳細な情報の提供により住民のサービスや施設への認知を上昇させることで自治体全域のサービス利用を促進し、サービスの平均化をすることが必要である。
  • 福祉政策の展開とローカルな実践をめぐる一考察
    稲田 七海
    セッションID: 507
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    本研究は、離島の介護をめぐるローカルな実践がナショナルな福祉政策との関連性の中でいかにサービス供給の「離島苦」を克服・解消してきたかを、上甑島里村での実践を通して考察することを目的としている。離島の介護は福祉施設やマンパワー不足によるサービス基盤の脆弱性から、要介護状態になった高齢者を島内でケアできないという状況を余儀なくされてきた。こうした状況を受け、新ゴールドプラン等の高齢者在宅福祉の強化政策によって離島においても物理的なサービス基盤が整えられたが、必ずしもこのような政策展開がローカルなニーズに対応したサービス供給に結びつくものではない。離島の介護は、ナショナルなレベルでの制度をいかにローカルな地域のコンテクストにあわせて運用するかが重要になってくる。里村では、若年層の島外への流出によるマンパワー不足と、島の独特の生産様式や労働形態が主婦層の関与なしには成立しないことから、家族内での介護が機能していなかった。そのため、家庭奉仕員の派遣が1960年代から開始されるとともに、地域の伝統的相互扶助的なボランティアの積極的に参加することで、里村における離島特有の介護ニーズはカバーされてきた。しかし、介護保険制度の導入により、このような里村独自のサービス供給体制は変更を余儀なくされた。結果的に制度上の制約からサービスの量と質ともに低下し、さらには、保険方式によるナショナルな制度に包摂されることで住民には保険料という貨幣による負担が生じ、非貨幣的な相互扶助的介護に参加するインセンティブを削ぐことになった。里村における介護は、「離島苦」といった消極的な背景が地域介護の充実と高齢化の進む地域の村づくりへとつながってきたが、そこにナショナルな福祉制度が影を落とすことになった。介護保険制度のようなナショナルな福祉制度の中にも、ローカルな地域性に対応した運用形態を持たせる柔軟性が求められる。
  • 移動者の属性・移動パターンと転出先での生活状況
    堤 研二
    セッションID: 510
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     本発表では,炭鉱地域からの劇的な人口流出を事例に,移動者の属性や移動パターン,転出先での生活状況について分析し,炭鉱地域社会の性格・縁辺化過程を考察する。具体的には1986年に炭鉱が閉山して人口流出をみた長崎県西彼杵郡高島町(現・長崎市高島町。三菱発祥の地)を対象として流出者の分析を行った。1980年代半ばの構造不況期には優良鉱ですら閉山となり,1986年11月27日に高島炭鉱(三菱石炭鉱業高島砿業所)は閉山し,短期間で大々的な人口流出を経験した。高島は離島・企業城下町・炭鉱社会の特色を持ち,閉山の影響は甚大で,短期間での人口減少と地域生活機能の損失・生活の利便性の衰退は,さらに人口流出を惹起させた。ここでは,閉山から1年間の移動者3,637人について61変数から成るデータベースを構築し,また,転出者への二度のアンケート調査も行った。移動者の移動時の平均年齢は33.26歳,性別比は男55.5対女44.5で,働き盛りの世帯主から成る核家族世帯を中心とした短期間での流出が起こっていた。有職者では,本鉱員が圧倒的に多く,下請け会社員,職員,公務・団体勤務がつづく。未就学児・小中学生も多い。炭鉱関係者とその子供の挙家離島が多かった。移動先としては,九州地方が7割を超え,10%以上を吸引したのが長崎県(50.4%)と福岡県(12.9%)で,市町村別では長崎市への移動が3割弱を占めた。炭鉱社会の三階層別にみると,移動者の平均年齢は,下請け会社員>本鉱員>職員となっていたが,平均家族数は全く逆の順であった。転出先では近所づきあいに苦慮する様子が浮き彫りになり,転出後に複数回の転職を繰り返した者も少なくない。そこでは私的なつてが非常に大きな役割を果たしていた。炭鉱を渡り歩く社会的チャネルも確認された。炭鉱離職者の再就職に関する研究は,リストラ時代の再雇用問題の検討に資する点もあろう。人口が激減した山村の縁辺化との共通性も重要であろう。
  • 福岡県太宰府市における水道事業を事例に
    宗 建郎
    セッションID: 511
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     農村部からの都市部への大量の人口流入にる都市圏の拡大の中で,周辺都市では急速な人口増加のために,上下水道や道路,教育施設などの基盤整備が追いつかず,公共サービスの供給という面で,スプロール化による居住環境の悪化にとどまらない問題が指摘されてきた。しかし,本研究における太宰府市の事例は,郊外化に対して周辺都市がただ受動的な位置にあったのではなく,公共サービスの供給に苦心しながらも,同時に住宅開発に対して能動的に働きかけていたことを示している。
     1970年代,太宰府市は5年間に1万人を超える人口が流入し,急速に都市化していった。それに対して太宰府市の水道供給は追いつかず,その10年間に5回も拡張事業を行わなければならなかった。
     そうした逼迫した水事情の一方で,太宰府市の行政は大規模な住宅団地開発に対して水道を優先的に接続し,水の供給を約束することで団地開発を促進していた。それは人口増加=発展という図式のもとで,福岡都市圏におけるベッドタウンとしての成長を目指して行われたものであった。
     そうした施策は,地域内での差別的な公共サービス供給によって住民の不満を高じさせるという問題を抱えることになった。この矛盾は,単に新住民と旧住民という図式ではなく,早期に流入した新住民と最近の新住民の間の格差や,給水可能地域と可能地域外など,地域間や住民間で複雑な格差を生み出している。
     この事例は大都市周辺の都市が急激な流入人口のために公共サービスの供給に悩まされる一方で,その公共サービスを利用して郊外化を促進し,地域発展を図るという矛盾を抱えていたことを明らかにした。
  • 栃木県宇都宮市豊郷地区と河内町古里地区の比較から
    美谷 薫
    セッションID: 512
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに
     本報告では,同様の属性を有し,かつ「昭和の大合併」の際に中心都市と隣接町村に含まれた2つの旧村を選定し,その後の施策展開と公共投資にどのような相違がみられたかを検討する.さらに両地区を代表する大規模事業を取り上げ,その政策過程を比較することで,施策展開の相違が生み出される要因について考察する.事例地区には,栃木県宇都宮市豊郷地区と河内町古里地区を取り上げる.

    2.事例地区における地域経営と施策展開
     両地区で展開される事業は当初,小規模な道路整備事業などが中心で,投資額も低調であった.しかし,1970年代に入ると投資額の伸張が著しく,特に義務教育施設の整備に重点的な投資がなされた.
     次に大規模事業の政策過程をみると,豊郷地区の宇都宮美術館建設事業では,政策の導入過程で行政機構が中心的な役割を果たしていた.政策執行の段階に入っても,市議会で事業の実施自体が争点になることは少なかった.
     一方,古里地区の河内町総合運動公園屋内プール建設事業では,政策導入過程で行政機構が主導となったものの,建設地点をめぐって一部の議員が反発し,住民を巻き込んで町政が混乱する場面がみられた.

    3.考察
     宇都宮市のように,ある程度の規模を有する都市では,長期計画に基づいた事業執行が自治体経営の中心に据えられる.また,議員数や議員の地区代表としての役割低下などを背景として,意思決定において行政機構が相対的に高い地位を占めている.
     一方,河内町のような町村部では,組織規模が小さいことに加えて,小規模かつ短期の事業が中心となることから,施行事業の選択に対する介入の機会が増加する.
     以上のような政治的要因が,地域属性の共通性に起因する地域経営の類似点を超えた部分で,地区単位での公共投資や施策に差異をもたらすと考えられる.
  • 北海道伊達市における移住政策とその現状
    村田 陽平
    セッションID: P06
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
    最近の人口地理学において,2007年頃から増加する「団塊世代」の定年退職者が老後をどこで生活するのかという問題は、注目すべき課題の一つになっている。そこで本研究では,積極的に移住政策を進め,退職後の移住地として脚光を浴びる北海道伊達市の現状を報告する。伊達市は,道央胆振支庁に位置する人口約3万6千人の地方都市であるが,北海道においては温暖な気候を持つことから,「北の湘南」とも呼ばれている。この伊達市では,2003年度の基準地価上昇率(住宅地)で全国1位を記録したように住宅地開発が盛んに進められており,道内のみならず全国から多くの移住者が集まっている。本報告では,このような移住を大きく支えている伊達市の「伊達ウェルシーランド」構想という政策の現状を紹介したい。
  • 山田 浩久
    セッションID: P07
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     本研究では,京阪神大都市圏における地価変動の特徴を,東京大都市圏のそれと比較から明らかにするとともに,近年の大都市圏域に見られる地価変動の一般的特徴を整理した。分析の結果は以下のように要約される。 _丸1_全域的な特徴:バブル期における地価の急騰によって,当初,京阪神大都市圏の地価分布は大阪市,京都市,神戸市の高地価が連たんする形状を示していたが,地価の下落によって,それぞれの都市を核とする地価勾配曲線が描かれるようになった。地価の下落は,東京大都市圏と同様に,1998年までは中心都市での地価下落を主体に進行し徐々に沈静化する方向にあったが,1999年以降,再び下落が進み,それは面的に進行した。 _丸2_阪神大震災による影響:1995年に生じた阪神淡路大震災を挟む1995_から_96年には地価の下落幅が大きくなった。東京大都市圏における分析結果においても同様な傾向が見られるため,この時期の地価下落は被災によって生じた土地生産性の低下に加えて,京阪神大都市圏の経済的活動の停止が国内経済へ負の影響をもたらしたことによるものと考えられる。 _丸3_人口の都心回帰:地価の下落に伴い,京阪神大都市圏の中心都市である大阪市,京都市,神戸市の都心人口はいずれも増加した。これは,地価の下落によって,用地の確保が容易になった中高層集合住宅が都心部に建設されるようになったためと考えられるが,郊外市町村の人口変動には大きな変化が見られない。都心部の人口増加が,周辺市町村からの流入人口の増加によるものか,都心部への流入人口が一定のもとでの流出人口の減少によるものなのかは不明瞭であり,この現象に対して「都心回帰」という言葉をあてることには疑問が残るところである。
  • 田中 美帆
    セッションID: P09
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/11/28
    会議録・要旨集 フリー
     高齢者の生活環境評価や、最適な福祉サービスの配置を考える上で、より詳細なスケールで高齢者の分布を把握しておくことが必要となってくる。現在では小地域集計(町丁・字等集計)に基づいた人口データや地図データが磁気媒体で提供されており、GISでは、町丁・字単位からメッシュ単位へのデータ変換も可能なため、本報告では、総務省統計局のサイトから入手できる平成12年の国勢調査のデータを中心に、GISを用いて福岡市の高齢者の分布を町丁・字単位と4次メッシュ単位で地図化することによって、福岡市の高齢化の現状を把握しておきたい。人口高齢化を定義する絶対的な基準があるわけではないが、国連の定義では、65歳以上の人口が総人口の7%を超えると、高齢化社会とみなされている。本研究では、65歳以上を高齢者とし、単位地区あたりの高齢者人口比率、高齢者人口密度、高齢者人口数の三つの測度を主に用い、相対的に値の高い場所を福岡市の高齢化地域とみなす。分析ツールとして、ArcGIS9を用いた。人口データと結合させた属性テーブルから、フィールド演算によって、各種高齢者人口測度を算出し、コロプレスマップとして地図化する。町丁・字単位地図は、高齢者人口比率や高齢者密度の高い地区を具体的に特定しやすい利点があるが、面積が町丁・字単位で大幅に異なる(特に郊外地区)ため、実数では他地区との比較が難しい。一方、4次メッシュ(約500mメッシュ)単位地図では、市域を完全に網羅することはできないが、単位面積がほぼ等しいため、実数での比較がしやすい利点がある。ここでは、町丁・字単位地図をAとし、4次メッシュ単位地図をBとして、比較・検討する。
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